親父の首さんびゃくまんえん
「親父……」
ボソッと、呟いてみても親父が死んだ実感は未だわかない。まだ生きているみたいだ、とまでは思わないが不思議な感じだ。多分、思っていたよりも葬式の準備が忙しいせいだろう。
……まあ、それはそれで気が紛れていいんだ。きっと。明日は通夜。親父をこの部屋から運び出さなければならない。親父も慣れ親しんだ我が家を離れるのは寂しいだろうが、仕方がない。
……それにしても通夜前に結構、人が訪ねて来るものだ。中には手土産、新巻鮭を渡してきた人がいて目を丸くしたもんだが、色々な人から俺が知らない親父の話を聞けてよかった。
……この人も今、親父の遺体の前で手を合わせ、どんな思い出に浸っているのだろうか。あとで聞いてみたいな……なんて、ああ、こっちもしんみりしてくる。……あ、そう言えばこの人、親父とどこで知り合ったかまだ聞いてなかったな。仕事関係か? 親父は昔から職を転々としてたからな。世話になったりしたりっていう知り合いも多いんだろう。それか学生時代の友人か、いや、歳は親父より少し下かな。
と、彼が和室に敷かれた布団の中の父親に向かって手を合わせる男の背中をジッと見つめた時だった。
男が振り返り、彼にニコッと微笑み、言った。
「……さてと、よし! じゃあ、あんたの親父さんの首を持ち帰っていいかな?」
「はい……はい?」
「えっと、じゃあ、物置とかにノコギリない? いやぁ、うっかりうっかり。持ってきてなくてねー。でもほら、この家、庭木があるじゃない? 手入れとかしてたでしょ」
「いやあの、はい?」
「ちょっとくらい錆びててもいいからさ。ああ、ほら袋はあるから。マイバッグね。今はどこでも売ってるねぇ」
「いや、いやいやいや、はい? え、首? 持ち帰る? え? 何かの比喩じゃなく?」
「うん。切って持ち帰るの」
「おお……えっと、それはなぜ?」
「うちの親父がねぇ、あんたの親父さんの首が欲しいって」
スゥゥゥと彼の口から空気が漏れた。理解不能であった。しかし、冗談を言っているわけではなさそうだ。男は立ち上がり部屋の窓の外から庭をキョロキョロと。ポケットに折り畳んで入れていたであろう片手にある、しわくちゃのマイバッグが風に吹かれるイカの干物のように揺れている。それが一瞬、ミイラ化した父親の首に見えて、彼は吐き気がした。
「えっと、なぜ、え、さらし首にでもするんですか……?」
「ううん? はっはっはっは! そんな昔の人じゃないんだから! はっはっは!」
「ええ、はははは……ではその、えっと、あなたのお父さんが俺の親父の首をご所望ってことでしたよね?
それはその、何か恨み、あ、母の恋敵だったとか……いや、でも……」
「ん? いやぁ、俺は知らないよぉ。でもま、金が貰えるっていうんでね。ああ、包丁でもいいや。それと金槌あるかな?」
「え……お金? それって、え、親父、賞金首とか、いやまさか、はははは……」
と、彼はあれこれ理由を探したが、よく考えてみれば単純な話。この男は頭がおかしいのだ。
彼はそう思い、足を崩し立ち上がろうとした。今、この家には自分しかいない。この男が本気で首を持って帰るというのなら、自分が取り押さえなければならない。まず警察を呼び、その間に親父の遺体を傷つけらないよう、いつでも飛び掛かれるように……と考えたところで、彼は畳に膝をついた。不覚。正座していたせいで足が痺れていたのだ。
グッと足に力を入れる彼。しかし、彼のその肩、いや全身に男の次の言葉が重く圧し掛かった。
「いやいや、そんな大層なもんじゃなくて、あ、いやどうだろうな……。
まあ、あんたの親父さん、うちの組にかなり不義理を働いたからね。そのケジメってやつさ。こっちの親父も、もう長くはないからねぇ。
一組員の俺としても心残りがないようにって、お、あそこにあるの物置? あるかなぁ、ノコギリ」
親父……組……組員……。
「え、あの、あなたの親父さんっていうのは、実の父ではなく組長的な?」
「ん、そうそう」
「で、あなたはヤクザ……さん?」
「そうだよー」
「で、うちの親父も昔、組員だった?」
「うーんと、どうだったかな……。詳しい話は俺も聞いてなくてさ。ま、覚えらんないしね。でも多分そうじゃない?」
職を転々と、引っ越しが多かったのはそういうことだったのか。
と、霧が晴れたような気分がしたのは一瞬の事。すぐにまた深い霧に覆われ、そしてその前に僅かに見えたのは異形の怪物。巨大な父親の顔だけの生物。そしてその顔にはまるで吹き出物のように、いくつもの父親の顔がくっ付いている。その口は開けばそこにあったのは、また父親の顔。笑顔、泣き顔、卑しい顔、悪い顔。自分の父親の知らない顔、それに知っていた顔まであれは偽りだったのではないかと、彼は困惑した。
しかし、それでも言わねばならなかった。異常者。目の前にいるこの男こそが怪物のように思えてならないが、それでもハッキリと。どうかお引き取りください、と。弔問客のため。無事葬式を終えるため。それが息子、社会人としての責任――
「ちなみにその、賞金っていくらなんです?」
――え。
と、いった顔をしたのは男と彼自身であった。今、自分はどうしてこんなことを口走ったのだろうか、と。
一方、男は斜め上を見つめ、記憶を辿っているようであった。
「確かねぇ……三百万だったかな、うん」
「三百……」
「そ、だから俺も他の連中に先を越されないようにって、ノコギリも持たずに慌ててきちゃったのよ。ほら、たまたま新聞の死亡欄で名前を見てさ」
「あ、それ、お悔やみ欄ですね。そうか、それで……」
「うん、そうそう。で、ノコギリは――」
「分け前、いくら貰えますか?」
彼はまたも自分自身に驚きはしたが、口を覆いはしなかった。
再びの正座。手は行儀よく膝の上。自分がなんでそんなことを言ったのか。ここは夢の世界か? どこか浮遊感がし、彼は首を傾げたが、斜めになった脳の中に泡のように浮かんでくるのはそう、借金のこと。
ギャンブルと風俗に嵌り、もう腰まで泥沼に浸かった状態。無論、母は昔に亡くなり兄弟もいないため遺産は丸々入るが、父親の貯金はそう多くはない。
この家と土地も彼の手に渡るが、ここは田舎。そう高くはない。それに家は古い。解体費用が気になるところ。貰えるのであれば欲しい。この男が来る前も『遺体の臓器って売れないかな……』と一度思ったりもしたのだ。
「分け前ねぇ、そうか、ああ、そうだよなぁ……」
男は顎に手を当て考えているようであった。
そうだ。普通に考えれば遺体とはいえ、自分の父親の首を切らせてくれるはずがない。警察だ何だ騒ぎになって当然。それは面倒どころか一大事だ。
勢い任せに来たせいで今更、己のその非常識さと無計画さに気づいたようだった。
「うーん……十万」
「いやぁ、それはちょっと」
「じゃあ、二十?」
「いやぁ、その程度じゃ耳だけですね」
「ええ……。あ、両耳?」
「いえ、片耳」
「ちょっと、お兄さん、それは厳しいよぉ……」
「いやぁ、でもねぇ、なんせ親父の首ですからねぇ。それに明日、明後日と使いますしね」
「うーん、でもどうせ燃やすんでしょ?」
「ま、そうですけど、じゃあ二十万で焼いたあとの頭蓋骨を買いますか?」
「いやぁ、本人確認できないとねぇ」
「でしょ? 葬儀の後、すぐ棺桶閉めちゃいますからねぇ。首を切る暇なんてないですよ。今しか買えませんよ?」
「そうだよねぇ……。じゃあ、思い切って百万出す!」
「うーん、でも三百万なんですよねぇ? 親父の首のフルプライスがそういうわけなんで、百万円じゃ鼻から下までじゃないですかね」
「いやいやいや、せめて上をちょうだいよ!」
「目から上ですか?」
「……いや、それでも駄目かぁ」
「ま、僕もね、そんな三百万丸々くださいとは言いませんよ。僕が直接、そちらの親父さんのところへ持って行けるわけでもないですし。だからそうですねぇ……二百六十万で」
「いやいやいやいや、それはがめついよお兄さん!」
「でもノコギリレンタルするんですよね?」
「いやでもぉ。あ、そうだレンタル! 首をちょっと借りて通夜までにまた戻すってのは?」
「返ってくる保証がないでしょうに」
「あー、信用がなぁ。俺が常連だったらなぁ」
「そんな常連は嫌ですよ。でもま、確かにこちらが欲をかきすぎたかもしれませんね。ノコギリレンタルとビニール袋に保冷剤もサービスして二百万でどうですか?」
「うぅーん、ビニールはいいよ。マイバッグがあるし……それでもっと安くならない?」
「いや、そのバッグじゃ染みちゃうでしょ。多分、まだ血は出ますよ」
「えぇ、グッロ。俺、吐いちゃうかも」
「首以外の部分汚したら罰金ですよお客さん! ああ、ほら捲っちゃ駄目よ! 覗かない覗かない! 近づきすぎないで! お金取るよ!」
「そんなぁ……うぅ……じゃあまあ、手伝ってくれるなら、百万で」
「んー、ん、ん、ん……百九十万」
「もう一声! 頼むよぉ」
「んー、百八十五万」
「いやぁ……あ! 半分! 仲良く半分こ! 百五十万円! それで手伝ってよぉ」
「んー、まあ、サービスしましょう! ほんとはセルフでお願いしたいんですがね。特別ですよ」
「あ、ありがとうございます!」
と、大金が手に入るということで双方、どこか夢心地。浮ついた会話をし、そして解体作業にとりかかった。
庭の物置小屋に入っていたノコギリは錆びていた。
だが問題はなさそうだった。試しにと遺体の腕に刃を当てたが切れそうだった。
せっかくだから初めは息子さんが……とよくわからない譲られ方をした彼はさすがに戸惑いを隠せなかったが、目の前にあるのは三百万円だ。高級メロンとでも思えばいい。そう考えた。
喉の辺りに刃を入れたのだが最初は切れず、皮が右へ左へと動いた。
それを何度か繰り返し、ようやく入った。ゴムを切るような感触から徐々に当然ではあるが肉を切る感触に変わり、彼はしゃっくりをした。多分、嗚咽を堪えた結果だ。
血が勢いよく噴き出すことはなかった。流れ出た血は布団に染みこみ、緩やかな小川ように首から下へと流れた。
所々に小さな気泡ができ、それが弾け消える度に彼の頭の中に父親との思い出が蘇ったが、脇にどかしたそれまで顔に被せていた布についた血が、いつだか目にした生理中の彼女のパンツに染みついた血と重なり、興奮が込み上げてきた。
半分ほどいったところで男に交代。男は一瞬、嫌がるような素振りをして、受け取ると刃を入れ始めた。
そして、「しかし、錆びてるからなぁ……」とチラと彼を見つつ、中々切れないことに対する言い訳をしたが、力を入れてないのは彼には丸わかりであった。
「お客さん、緊張してんのー? 初めて? だいじょーぶだいじょーぶ! 相手はね、逃げないから! お客さんが奥の奥、ふかぁーく入れてくれるのを待ってるよ!」
と、彼は男を鼓舞した。男はへへへと照れたように笑い、あいやーこんらーと、彼が耳にしたことない歌を口ずさみながらノコギリを動かした。
女を抱くときも自分が早くイかないためにそうしているのだろうなと彼は思ったが、訊くことはせず手拍子を添えた。
あいやーこーらぁーえぇ、おいしょーよいしょー。いんやーえんやーいいわぁーよいしょーこいしょー。
首を切り終えた二人は息を荒げ、顔を見合わせ笑みを浮かべた。
男は勃起していた。彼も勃起していた。まるでふたりでひとりの女と一戦交えたような淫靡な雰囲気が和室に漂っていた。彼は首の断面、その穴すらエロティックに感じた。
しかし、見つめているうちに、葬儀のほうはどうしようかと現実的かつ、煩わしい想いが込み上げてきた。
それを察したのか、膨らませたコンドームを被せ、ペンで顔でも書けばいいと男が彼に言った。
彼は大笑いし、男も笑った。
二人は連絡先を交換し、そして別れた。
金を持ち逃げすることは、まあないだろうと思うと同時に、どこか楽観的だなとも思いつつ家の外、彼は男の背中を見送る。
角を曲がりその姿が見えなくなるまでの間、男は計二度振り返り、彼に手を振った。外灯の下、光の円の外。僅かに照らされた男の顔はとても、にこやかなものであった。
軽い足取りでその手にぶら下げるマイバッグを揺らす。
親父もきっと喜んでいる。体を冷ます心地良い夜風に吹かれ、彼はそう思った。
彼が新聞のお悔やみ欄になど載せていないと気づいたのは朝になってからだった。
数日前に、よその家でも葬儀があったと知ったのも、そのあとであった。