テロメア
「――これが一番ましかな……?」
僕は道路を塞ぐように組まれたバリケードを見て呟いた。バリケードを構成していたガラクタの中に大きなマットレスがひとつあった。
イニャは僕の傍らで興味なさげにうん、と頷いた。
「イニャ、下がってて?」
僕はそう言って、バリゲードを崩す作業に取り掛かろうとするがイニャは僕にぴったりと寄り添ったまま動かない。
「イニャ……?」
イニャを促すがイニャは微動だにしない。
「手伝ってくれるの?」
イニャは首をふるふると横に振った。
「じゃあ、危ないから下がってて?」
そう言うとイニャは不安そうに僕を見上げた。
「え……?どうしよう……」
僕は戸惑い、辺りを見渡した。
(何か、護身用の武器になるもの、無いかな?)
しばらく僕はきょろきょろとしていたが、幸いなことに道の反対側の端に大きなハンマーが落ちているのを見つけることが出来た。
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
僕はそう言い残し、さっと道の端に移動するとハンマーを拾い上げ、不安そうにひとりで立っているイニャの元に戻った。
「誰か来たら、とりあえずこれを振り下ろして。先手必勝」
僕はそう言ってイニャにハンマーを渡した。イニャは怯えた表情で後退りする。ハンマーを受け取ろうとしない。
「大丈夫。テロメアがそこまでぶかぶかになってるの、この世界でイニャくらいしかいないから。みんなもう一回死んだくらいじゃ、死なない」
これでも励まそうとしたのだが、イニャにひどく不機嫌な顔で睨まれた。僕は、まあまあ、とイニャをいなしながら、その手にハンマーを握らせた。ただでさえ、大きなハンマーだが、イニャの小さな手に握られると冗談みたいなサイズ感だった。
イニャは顔を赤くしながら、それを持って道の端の物陰になっているところに移動した。
僕はその様子を見届けたあと、バリゲードの解体を始めた。思いの他、複雑に組まれていたので手こずった。
「――ねえ、何してんの?やめてくれる?」
不意に頭上から声をかけられた。僕は慌てて顔を上げた。ビルの二階からこちらに顔を覗かせている女の子がいた。
「あ、ごめん。あとでちゃんと組み直すから」
僕は、なるべく相手を刺激しないよう、穏やかな調子でそう言った。女の子は不機嫌に舌打ちすると、ビルの窓から身を乗り出した。そして軽い身のこなしで窓からジャンプし、バリゲードの上に着地した。
「元通りにして」
女の子は冷たい声で僕に命じた。僕は、あはは、と作り笑いを浮かべ目を泳がせた。
(やべえ、どうしよう)
「きみ、どこのトループ?青兎?」
「いや、違うけど……――そのマットレスが欲しくて……」
「なんで?」
「なんでって……。快適に眠りたいから……」
「舐めてる?」
女の子は、そう言うとさっと太もものホルダーからナイフを取り出した。僕は慌てて両手を上げ、交戦の意志がないことを伝えながら、バリゲードから飛びのいた。
「ごめん。怒らせるつもりは無かったんだ。――すぐに元に戻すから」
しかし、その女の子は無言でバリゲードから降り立ち、僕の目の前にナイフをかざした。僕は後退りする。
「やめてよ。今、僕を殺したら、そのバリゲード、君が直さなきゃいけなくなるよ?」
「――どこのトループか言え」
女の子は僕の言葉を遮るように高圧的にそう言った。僕は素早く辺りに目を走らせ、逃走経路を確認する。
(あ、そうだ。今日は僕ひとりじゃない。イニャがいるんだった。どうしよう。置いていく訳にはいかないし。――ていうか、イニャ、どこに行った?)
イニャがいない。争いが始まったのを見て、一目散に逃げ出したのだろうか?それなら、それでいいのだが、いずれにせよ、イニャを守るためには、この女の子を引き付けつつ逃げるのが無難だろう。
「逃げようとしてる?」
「だって、君と戦いたくないんだもん」
――その時、不意に目の端にイニャを捉えた。いつの間にか女の子の背後にいる。
「あ……だめ……」
僕はイニャを止めようとした。なぜならイニャが女の子に向かってハンマーを振り下ろそうとしていたからだ。しかし間に合わなかった。
女の子は僕の言葉で背後のイニャに気が付き、振り返る。ハンマーの先端は女の子の顔面のすぐ近くまで来ていた。女の子は咄嗟に腕で顔を覆い、もう片方の手でハンマーを振り払った。
キーン、という金属と金属がぶつかり合う音が響いた。その音にハンマーがアスファルトの地面にぶつかる鈍い音が続いた。
女の子は目を見開き、ハンマーが直撃した方の手をかばいながら、イニャをにらみつけた。イニャは放心したように地面にへたり込んだ。
女の子はナイフを逆手に持ち換えた。イニャめがけて振り下ろす。
「――いやーーっ!!」
イニャが悲鳴を上げる。
「だめ!」
俺はそう叫び、後ろから女の子を羽交い締めにした。
すると女の子はぴたっと静止した。あまりにも急で、不自然な静止だった。
俺は戸惑いながら、恐る恐る女の子を見下ろした。
女の子の肌から急速に弾力が失われ、陶器のような質感に変化した。見開かれた目はガラス玉のように虚空にむけられていた。
「ひぃー!!」
俺は思わず、彼女から身を離した。支えの無くなった女の子の身体は人形のようにぱたりと地面に倒れた。
イニャは地面にへたり込んだまま呆然とその様子を見ていた。
女の子のぽっかり開いた口から、赤い液体があふれる。それは頬に一筋のあとを付け、アスファルトの地面に広がった。
間もなく、その水たまりめがけて、一匹の小さな蛇が近寄って来た。その蛇は他でなく女の子のテロメアだった。テロメアは水たまりに口をつけ、赤い液体をゆっくり啜り始めた。