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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恐れ

作者: 鍋島五尺

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 人を殺すかもしれないという予感はずっと前から確かにあった。こんな混乱の時代なのだから仕方ない。兵役に出ることは僕にとってある種の輝きを持っていたことも間違いじゃない。

 級友たち含め、僕ら青年は皆祖国ソビエトのために戦うことを誇りに思っていた。革命の流れに押し出されるようにこの世に生を受け、そして故レーニンの意志を受け継ぐ人民として力強く育った。20歳になった日の朝、もうすぐ僕は兵役に就くことを知った。家族と離れる悲しみはあったが、それでも自分が死ぬわけはないとたかを括っていた。それに、あの忌々しいナチスにとどめを刺してやれることが何より嬉しかった。


 ナチス、ナチス、小賢しい髭の悪魔アドルフ!厚顔無恥を自称するかのように「赤ひげ作戦」とやらを展開し、僕の故郷モスクワまでもその射程に入れようとした。母の怯える顔を見て、奴らを絶対に許してはならない、生かしておけないと思った。

 だから僕はまず真っ先に西部戦線を志望した。だが、ナチスの息は想像していたより遥かに短く、僕が隊に配属されるより前に敗北を宣言してしまった。あの時は本当に落胆した。食事も喉を通らず、ただそこはかとない悔しさが心の中にあった。結果的に連中を叩きのめすことには成功しているのだが、それでも自分の手で引導を渡してやることができなかったのが悔しかった。僕の青年期におけるある種の使命が失われたのだから当然といえば当然だったと思う。


 そんな僕に告げられた任務地はザバイカルだった。全く、僻地も僻地に飛ばされたものだと思った。日本の敗北もこの時期にはすでに色濃く、しかし日ソ中立条約は一応未だ機能していたので、きっと日本が米国に負けた後に満州の治安維持でもやらされるのだと僕は思った。

 しかし、到着するや否や勧告された内容は満州領への侵攻という驚くべき内容だった。アジアの猿など放っておけば良いのにとも思ったが、ウラジオストックに住む同志たちや将来の祖国のために避けては通れない作戦なのだと演説する指揮官の言葉にも一理あると思った。それに、兵站も弾薬も底をついた関東軍など我が赤軍にとっては取るに足らない相手で、ナチスを攻撃できなかった鬱憤晴らしだと思えばやる気も湧いてきた。つまり端的に言えば、僕は日本という存在を舐めてかかっていたのだ。


 8月8日、もうずっと昔のことのようにも思える。しかし信じられないが、ほんの数日前のことだ。僕らザバイカル正面軍は侵攻を開始し、関東軍の第三方面軍と激突した。開戦してからしばらくは比較的後方に位置していたこともあり、先鋒がどんどんと前に進んでいくのについていった。一発の銃弾も撃ってはいないのに足元には日本人の死体がカーペットのように敷き詰められていた。

 驚くべきはそのほとんど全てが目をカッと開いたまま、戦意を剥き出しにして倒れていることだ。話は聞いていたが、日本人というのは皆このように戦闘狂なのだろうか。立場は違えど、祖国のためならば命も軽々と投げ出すような兵士達。日本軍というのはそんな気狂いたちによって構成された集団なのだろうか。それならば、なぜこんな惨状を招いてしまっているのか。許されざる疑念が頭をよぎった。どんなに人民が国を憂いて、どんなに苦痛を支払ったとしても、統治者が誤れば何も得ることはできないというのか。もしも、そのような者に偉大なるソビエトの指揮が渡ってしまったとしたら。それどころか今、この瞬間祖国に従うこの僕の命も無為に終わるとしたら。いや、そんなことは起こるはずはない。ありえない。考える意味もないことに思考を巡らせるくらいなら、このエネルギーを同志のために振る舞うべきだ。そんなことを考えながら僕は極東の地を踏みしめて歩いていた。


 数時間前のことだ。最前線の一小隊が関東軍のゲリラ攻撃を受け、多数の負傷者が発生し、また小隊長が殉死したと伝令が入った。そして僕の所属する小隊がその補填に入ることが決定された。すぐに僕たちは前線へ走った。やっと愛銃を戦地で働かせてやれることに興奮しながら、しかし僕はあの倒れた日本兵の顔を思い出していた。だがそれもすぐに消え去り、武者震いが僕の体を駆け巡った。血飛沫の舞う戦地!段々と大きくなる砲撃の音が僕の鼓膜を震わせる。心臓の鼓動が足音に共鳴して揃っていく。

 ついに爆発で舞い上がる砂埃が視界に入った。隊長が止まれの合図を叫び、小隊の皆が足を揃えて立ち止まる。ああ、戦争だ。これから僕の戦争が始まるのだ。誉ある成果を持ち帰ろう。勲章を胸に下げて故郷へ凱旋するのだ。そんな想像が脳内に溢れかえり、心が躍る。隊長のいつものように長い話は言の葉のひとつも聞いてはいない。どうせただ前進あるのみだ。僕らの半長靴で全てをまっさらに踏みつければいい、真っ平らにしてやればいいだけだ!


 僕のはやる心に応えるように、砲火はすぐに散った。一発、一発と銃弾を撃つ。目指すは長春、今や新京と呼ばれているそうだがまあどちらでもいい。そこで第1極東方面軍と合流する。そのためにこの僕が道を切り開く。夢にまで見た活躍を与えられたことに感謝しよう。素晴らしきかな我が祖国!

 前線は前進し続けた。それはもう柔らかいチーズのように、簡単に押し進めることができた。あまりに簡単だったために小隊長はまたゲリラ攻撃を受ける可能性を考慮し、度々休憩をとりながらではあったが、その心配は結果から言って仕舞えば杞憂だった。


 変化があったのはザバイカルから200kmほど進軍したあたりだった。ここで日本軍からの大きな反撃と相対した。ほとんど敗残兵ではあったが、よくここまでかき集めたと賞賛したくなるほどの兵数だった。土嚢の裏から日本兵の頭がちらちらと見え隠れしている。それをどうにかして撃ち抜いてやろうと銃口を向ける同志達もちらほらいたが、隊長はそれを制止した。どうせ連中は色々と模索したのち、突撃をしてくるのだからそれを撃てばいいだろう、というのが隊長の意向だった。狙撃隊が後ろの方から幾らか攻撃に成功しているようで、数分経てばもう頭が見えることはなかった。

 それからまた数十分のインターバルを置いたのち、日本軍の進軍ラッパが高らかに鳴り響いた。やはり彼らは突撃をしてきた。護身などそもそも眼中にないとでも言わんばかりに、両手で銃剣を抱えながら彼らは決死の100m走を試みた。大体予想はつくと思うが、そのほとんどは失敗に終わったのだが。しかし、中には幸運な者もやはりいるようで、この銃弾の雨を全て避けて走り込んでくる日本兵もいた。そしてその一人は、驚くばかりだ、この僕を目掛けて突進してきたのだ。


 こればかりは体験した者にしかわからないだろうと思うが、自分に向けられた殺意というのははっきりとよくわかるのだ。他の誰でもない、この僕を殺そうと彼は突進している。彼の黒い瞳の中には僕しか映ってはいないのだ。それか、もしくは僕さえも見えてはいなくて、家族かエンペラーを思っている可能性も捨てきれないが、どちらにせよ殺意が自分に向けられていることは感じることができる。理性に支配されている人間の中にヒトとしての本能を感じた。殺される。逃げるか、戦うかだ。いざとなった時、どんな覚悟も役には立たない。体は震え、照準は一向に定まらない。そうこうしている間にも彼はずんずんと距離を縮めている。きっともう2発目を撃つ余裕はない。この1発で決めなければならない。撃て、撃つのだ。小さな彼の頭蓋骨に、更に小さな風穴を開けさえすればそれで良いのだ。揺れる照準を力一杯押さえつけ、タイミングを合わせて僕は引き金を引いた。

 銃弾は彼の喉に命中した。鉛玉は彼の体を貫通することに成功したらしく、一瞬、その穴を通して彼の背後の景色が見えたような気がした。血を噴き出して日本兵は倒れた。もう10mも距離はなかった。よく命拾いしたものだ。恐る恐る自ら作り出した死体に近づき、身体の下敷きになっている銃剣を蹴り飛ばす。木製の銃身がパキンと音を立てながら地面を滑る。やはり銃弾は貫通していたらしく、うなじから血が溢れている。今思うと、僕はここでしっかりと死亡確認をしておくべきだったのかもしれない。頭をよぎっていた違和感の正体を確かめるべきだったのかもしれない。だとしても、結果はやはり変わらなかったのかもしれないが。


 敵兵の死亡を伝えるために僕は隊長の方へ振り向き、挙手しようとしたその時だった。何が起きたのか全くわからなかった。首を絞められている。苦しい。息ができない。首にかかった紐を掴もうと試みたがそれはあまりに締め付けられているため皮膚に沈んでおり、どうしても指をかけることはできなかった。爪が首の皮を削ぎ、指先に血が滲んでいる。

 なぜだ。確かに死んだはずじゃないか。銃弾は確かに喉を撃ち抜いたのだ。生きていられるはずがない。そんな、馬鹿な。だんだん気が遠くなるのを感じた。苦し紛れにどうにか振り解こうと暴れていると、腰のピストルに手が当たった。刹那、僕の右手は拳銃を抜き取り、背後の殺人者を2発撃ち抜いた。首にかかった紐からどんどん力が抜けていくのを感じた。どさっと倒れこむ音と共にヒモがするりと抜けた。振り向くと、やはりあの男が倒れていた。その手には革製の紐が握られていた。死んだはずのその男は自らの身体の下から銃の負い紐を引き摺り出し、僕の首にかけた。そして翻り、背中合わせに思い切り力をかけて僕の窒息死を狙ったのだ。

 僕はすくむ足でなんとか立ち上がり、彼を見下ろした。恐ろしかった。執念、いや意志の力というのはここまでのものなのか。強い信念は死さえも克服するというのか。僕は悪魔的な力を感じていた。3発もの銃弾を命中させたというのに、それでもなおこの男がまた起き上がるような気がしてならなかった。今、もう2度と立ち上がれないようにしなければ。僕は震える右手で握った拳銃に左手を添え、彼の頭に向けた。自分でも何をやっているのかわからなかった。しかし、こうしなければ自分が死ぬ、殺されるという衝動が確かにあった。僕は拳銃の引き金を何度も引いた。更に6発の銃弾を発射した後も僕は引き金を引き続けた。カチッ、カチッという音が何度もした。

 僕が正気を取り戻したのは同志の僕を呼ぶ声だった。ハッと我に帰り敵方を見ると、幾つもの銃口が僕を狙っていた。咄嗟に味方の方へ走ったが、寸前、1発の銃弾が僕の脛を撃ち抜いた。

 ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。鈍くなる痛みと遠のく意識の中、僕は人智を超えた運命の力を感じていた。


 目を覚ますと僕は野戦病院のベッドの上に横たわっていた。起きあがろうとすると脚に激しい痛みが走った。僕はそれがとてもおかしく思えて笑わずにはいられなかった。


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