噂
「松野さん、ちょっといい」
翌日、教室に行くとクラスの女子が声をかけてきた。クラスのリーダー格で普段、私に話しかけてくることはない。
人が来ないところで、と言われ、空いた教室に行くと真剣な顔をして
「春原君と何かなかった?」と言った。
突然の質問に私が答えずにいると、彼女は続けて言った。
「昨日、春原君と松野さんが一緒に文芸部の部室に入ったのを見た人がいて、それでちょっと心配になったの」
何が、と私はようやく口を開くことができた。
「松野さん知らないかな、春原君が中学でやったこと。自分の好きだった女の子に告白して、断られたら暴行したって話。春原君と同じ中学の人が私の友達でね。その人から聞いて。だから、春原君と一緒の高校だって知った時、ちょっと怖かったのよね」
なにもされなかった?と彼女は私に尋ねた。
私はしばらく何も言えず、彼女の方を見続けてしまった。春原が言ったことを思い出した。今は塾やSNSで他校の生徒がつながれる、と。
不自然な沈黙がしばらく続き、彼女はけげんな目で私を見ていた。
「何もされていない。ただ部活の話をしただけ」
ようやく、言葉を絞りだした私に、そう、と言って
「何かされたら、すぐに言わないとだめだよ。っていうか、あんな奴の入学を許したこの学校ひどいと思わない?」
と同意を求めてきた。
彼女の勢いに負け、うなずいた。
そう言って彼女は足早に教室へ戻った。
彼女はきっと親切のつもりだったのだろう。
耳の奥がだんだん痛くなり、頭が破裂して倒れそうになった。私はトイレに駆け込み、ポケットに入れたカッターで腕を切った。浅い切れ込みから少し血が流れた。
リストカットのことを初めて聞いたとき、そんなことぐらいで、楽になるはずがないと思った。けど、試しにしてみたら、心がすっとした気分になった。傷口から何かが抜けているような感覚が心地よかった。切っていく内に自分にとって丁度良い切り方を見つけることもできた。腕だけではない。足の目立たない部分にも傷をつけた。
傷つけた跡に大きめの絆創膏を貼った。私は常に絆創膏も持ち歩いている。
制服のセーラー服が白いことだけが心配だったので血がにじまないように気を付けていた。
そんな計算まで私はできるようになってしまった。
私は言うべきだったのだろうか、春原はそんなことをする人ではないと。あれは全部、濡れ衣なのだと。
私には春原が嘘を付いているようには見えなかったし、話す言葉に現実味があった。××のように自分だけ被害者ぶり、責任を全部、他の人にぶつける。私はそんな人間を結構、見てきた。そんな人間に傷つけられたこともある。
しかし、彼女が私の言うことを信じるとは思えなかったし、それで、春原が救われるとは思わなかった。海に小さな一粒の砂利を投げるよりも無駄な行為のように感じた。
昨日、春原が言ったことを思い出した。
―読書をしない松野さんのこと、おれはあまり信用していない。
小学校、いや幼稚園の時からいじめられていた私は、人の言葉を打ち消す訓練をしていた。
―松野さんがいるとクラスの雰囲気暗くなるんだよね。
―もうちょっとはっきりと言ってくれない。聞こえないんだけど。
―松野さんいると邪魔になるからいなくてもいいよ。
それは私に言われた言葉ではない。そう思い込むことで自分の心を守ろうとした。成功したものもあった。成功しなかったものもあった。どちらにしろその言葉は私の心にぷつん、ぷつん、と穴をあけていった。修復することはない。
春原の言葉は、思った以上に大きな穴を私の心にあけた。
それからしばらくして私は、部長に文芸部の部室に呼び出された。
春原のいない文芸部の部室に居るのは不思議な感覚だった。何かあるべきものがそこにないような感じがした。
部長はいきなり呼び出したことを詫びた後、少し言いにくそうに言った。
「春原君と松野さんのことが噂になっているんだけど、気が付いている?」
私は、なんとなく想像がついたが、知らないです、と答えた。
「付き合っているとか、そういう噂じゃないのよ。それだけだったら私も何も言わないんだけど、ちょっと内容がひどかったものだから」
「何ですか」
「ここまで言ったら全部、言った方がいいよね。春原君が松野さんに暴行して、無理やり体を…」
そこまで言い部長は言いよどんだ。
「無理やり、性的な暴力を受けたということですか?」
部長は決意をしたように首を縦にふった。
痛い、耳の奥が痛くなってきた。冷静になれ。何とかここを乗り切れ。
「そんなことされていません。第一、春原君とまともに何かしたのは文化祭くらいで、その時もあまり喋りませんでした。文化祭以降は会ってもいません」
「そうだよね。私たち文芸部は…といっても幽霊部員だけど、2人のこと疑っていないから。春原君のことも何となく噂が立っていたけど、一緒にいて嫌な思いしたことないから気にしていなかった。ごめんね。こんなこと言って逆に傷つけちゃったかな?」
「大丈夫です。噂のことは、私は気にしていません」
それでもなお、部長は申し訳なさそうな目で私を見ていた。本当にこの部長はいい人だと思った。みんなを引っ張っていくというタイプではないが、存在するだけで周囲がなごやかになるような人。こんな友人がいれば、私の人生は異なるものになっていたかもしれない。そう思ったら痛みがなくなっていた。
噂について、私は何も知らなかったふりをしようと思った。教師に訴える気もなかった。どこから流れたかわからない噂に対して教師も処分のしようがないと思うし教師が注意したところで、ぴたりと止むとも思えない。ましてや、大声でこれは違うのだと叫ぶことは到底できない。
彼らはただ、憂さ晴らしをしているだけなのだ。厳しい規則、テストや受験でのプレッシャー、部活と勉強の両立、クラスの人間関係。自分の関係のない事柄で面白そうなことがあると飛びつくのは仕方ない。
春原のことを恨む気持ちはなかった。彼の方が被害者と言ってもいい。でも、私が心配してもどうしようもない。
放課後、トイレに入ると外から女子生徒の声が聞こえてきた。
「うちのクラスの春原ってやつ、やっぱりまたやったらしいよ」
「マジで、再犯じゃん。相手は」
「隣のクラスの眼鏡の暗そうな感じの、松野って名前だったかな」
「あー見たことある。ああいうのがタイプなのかな」
「でも、被害訴えてないとこみると了解のうえでやったんじゃないかっていう人たちもいるよ」
「わかる、大人しそうにみえる人ほど、案外裏で、ね」
「私たちの方が、よっぽど真面目で純情じゃん」
「クラスのはみ出し者どうしお似合いかもね」
一通り言いたいことを言い終わったのか、笑いながら女子生徒たちは外へ出て行った。
言葉は刃のように私に向かってきた。
気にしないつもりだった。聞かないふりをしようとしたつもりだった。
でも、身体中が痛い、痛くてたまらない。頭だけではなく身体が破裂してしまうのではないか、という恐怖でいっぱいになった。私はまたカッターを取り出し、腕を切った。しかし、気が動転していたのか、利き腕ではない左手で、少し深く右腕を切ってしまった。赤い血が流れだす。いつもより多く流れ出す。何度も何度もトイレットペーパーで腕を抑えた。止まらない。このままでは絆創膏でも隠せない。血が流れ落ちてくる。
私は少し落ち着きを取り戻し、鞄から紺色のジャージ取り出しを腕に持った。これなら血は目立たない。早くこの場所から逃れよう、そう思い人がいないことを確認してから、外に出た。まだ、身体が痛い。
階段の踊り場で私は動けなくなってしまった。辛いこと、苦しいことは何回もあったのに、こんなことはなかった。
今度こそ違うというべきだったのだ。怒るべきだったのだ。でも、私はそうできなかった。
そんな自分が嫌いだ。
大嫌いだ。
「松野さん?」
顔を上げると、春原がいた。目があった瞬間、私はジャージを落とした。白い制服は血で染まっていた。
「これ飲む?」
春原が売店で買ってきた水を私に差し出した。私は受け取り、お金を渡そうとした。しかし、春原は受け取ろうとしなかった。
ジャージを落とした時、春原は私を保健室に連れて行こうとした。しかし、私はそれを拒んだ。春原もなんとなく、その意味を察したのか、部室の方に連れて行ってくれた。幸いにもしばらくして血は止まった。今は大きめの絆創膏をすれば何とかなりそうだった。
改めて部室を見渡すと、棚の上に埃がないことに気が付いた。きっと春原が掃除しているのだろう。この人にとってここは本当に大切な場所なのだ。私は何となく、ここにいるのが申し訳なくなってきた。
「ごめん……」
突然、春原は口を開いた。噂のことを謝罪しているのだろう。
「あれは、春原君のせいじゃない。勝手に噂を流している人たちのせいだよ。私は気にしていない」
少し嘘を付いた。でも、これ以上、春原を傷つけたくなかった。
「おれだけが傷つくなら良かったんだけど、松野さんまで巻き込むつもりはなかった。違うと言っても信じてもらえそうにないしな」
春原はあきらめたように言う。
「噂は尾ひれをついて、どんどん広がっていく。ここまで行くともっとひどくなる可能性だってある」
私は何にも言えなかった。これは春原が中学で体験してきたことなのだ。私も今まで色々な陰口をたたかれたが、ここまでひどいのはなかった。
「松野さん…本当に本嫌い?」
突然春原はそういうと、鞄から一冊の本を取り出した。
「これ、松野さんが書いた小説だよね」
その表紙には本を読んでいる少年、少女の絵が描かれており、淡く、優しいオレンジ色の輪が二人を包んでいた。
題名は『アキの友達』。
作者は松野理央。
「おれ、この本、好きだった。あんなことがあった後、何度もおれを励ましてくれたよ。温かい小説だ」
春原は私をまっすぐに見つめた。
「文化祭が終わった日、家で何気なく本棚を見ていたら松野さんの名前があった。同姓同名だとも思ったが、年齢はおれと同じだ。検索したら松野さんの顔も出てきた」
私は目の前がぐらぐらと揺れるような感覚を覚えた。
この本だけは見たくなかった。
忘れたかった。
世界から消えて欲しかった。
「何があった?どうしてだ。こんな素晴らしい小説を書ける人間がどうして本を嫌いになった?」
この本は、姉を殺した。
私が殺した。
私が殺した。
春原はまだ何かを言っていた。でも、何も聞こえない。
どうかその本を閉まって。
私の視界から失くして。
視界が暗くなる。足が動かない。
そのまま、意識を失った。