姉の彼氏
父と母の離婚が成立して姉の墓に行った。
離婚のことを春原にはまだ話していない。突然のことすぎて自分でも整理できない部分もあったからだ。
墓地は家から離れており、バスと電車を乗り継いで行かなければならなかった。しかし、いい気分転換になった。ちょっとした旅行のようだ。ふだん見ない景色が心地よい。
電車を降り近くの花屋で、花を買い、墓地へと向かった。
姉の墓は墓地の真ん中辺りにあった。
私は墓を掃除し、花をいけた。お参りをし、何をするでもなく墓の前に座っていると、「君、綾乃さんの知り合い?」という声が聞こえてきたので振り返った。
「私は松野綾乃の妹ですけど、どちら様ですか?」
「妹さん…ということは、松野理央さん?あの小説を書いた?」
私は戸惑いつつもうなずいた。
「綾乃さんからあなたのことはいつも聴いていました。そうか、あなたがあの小説の作者なのか…」
彼は、しばらく何かを考えているようだったが、私の方を向き
「少し、時間はありますか?」と言った。
お墓の近くの喫茶店に入った。喫茶店の中には私たちしかいなかった。私はのどが渇いていたので、アイスティーを頼んだ。彼は温かい紅茶を頼んでいた。
「野村あきらと言います。大学生です。綾乃さんとの関係は高校の同級生というか、その…」
少し言いよどんだが「彼氏です」と答えた。
私は少し驚いた。姉に彼氏がいたなんて聞いたことがなかったからだ。それに父が姉に彼氏をつくることを禁止していた。学生のうちは学業優先と言って。姉が父に逆らうとは考えにくかったので、私は野村あきらを少し疑った。
「失礼ですが…それはお互いに同意して付き合っておられたんですか」
「はい、言いにくいんですが、お姉さんの方から付き合ってほしいと言われました」
アイスティーが運ばれてきた。少し飲み、気持ちを落ち着ける。姉の意外な姿をいきなり知り正直動揺していた。それと、言っては失礼だが野村あきらはそこまでかっこいいという感じではなかった。クラスの中でもきっと目立たないグループだっただろうな、と思った。野村あきらはそれに気が付いたように「才色兼備だったお姉さんと僕がカップルだったなんて信じられませんよねえ」と言い笑った。優しい笑顔だった。無駄に嘘を付く人ではなさそうだ。
「お姉ちゃ…姉とはいつ頃からお付き合いされていたんですか?」
「高校2年生の時、同じクラスになって2カ月程だった頃です。放課後誰もいない教室で『野村君、付き合っている人いるの?』と突然言われて『いない』と答えたら『じゃあ、私と付き合ってくれる?』と言われました。本当に驚きました。僕は教室の隅で本ばかり読んでいるような人間でしたから」
姉がそうしている姿を想像した。
冷静になって考えてみれば、親に黙って付き合っている女子高生など珍しくないはずだ。姉だって親に反抗したい気持ちを持っていたのかもしれない。そう思うとどこかほっとする気持ちだった。
「綾乃さんと僕はクラスメイトに内緒で付き合い始めました。学校で噂にならないように、同級生が行かないようなところでお茶をしたりしました。実はここもそうなんです。今、松野さん…。理央さんとお呼びしてもよろしいですか」
私が「はい」と言うと野村あきらは話を続けた。
「今、理央さんが座っている席に綾乃さんも座っていたんです。それは僕にとって夢のような時間でした。綾乃さんもよくアイスティーを頼んでいましたよ」
そう言い、私のアイスティーを見た。
「けっきょく親の都合で高校3年の時、僕は引っ越し、市を出ることになりましたが、メールや電話での交流は続けていました。でも、突然連絡が取れなくなり心配していたのですが…」
「すみません、姉の死はどのように…」
野村あきらは視線を落とし
「1年程前です。同級生から聞きました」
しばらく沈黙が流れる。男性が一人、店の中に入って来た。店長と親しいらしく、何かを話し始めた。私はほっとした。そのほうが野村あきらと話しやすい。
「もっと早く知るべきだったのに、僕が彼氏と名乗る資格はないですね。どこか、綾乃さんのことを信じていなかったのかもしれません。僕がいなくなったら、僕なんかよりずっといい彼氏を見つけるんじゃないかって」
「姉とはどういった会話を…」
私は雰囲気を変えたくてそう尋ねた。このままでは空気が重すぎる。
「本のことです」
「え…。姉は、ほとんど本は読んでいないはずですが…」
野村あきらは紅茶を一口飲むと
「僕が本を好きなんです。僕の話をお姉さんは熱心に聴いていました。聞いたことがあります。そんなに熱心に聴いてくれるなら、どうして本を読まないのか、と」
「そしたら、姉は何て答えましたか?」
「読みたいけど想像ができない、と言いました。架空の人物たちの気持ちが自分にはわからないと。だから、読むのが疲れるのだと言いました。僕はそんなことは気にせず、読めばいいのにと言ったのですが」
架空の人物の気持ちがわからない?姉はそんなわけがわからない理由で本を読みたくなかったのか?
読書をすると疲れるという気持ちは百歩ゆずってわかる。読書をしている最中は、登場人物と一緒に人生を歩んでいる感じなので、読み終わった後に、一つの世界が終わったような、そんな気持ちになることはよくあるからだ。
「でも、綾乃さんの死をきっかけにそれを考えていると、一つ思い当たることがありました。綾乃さんが誰にでも優しい人だったというのは、妹ですから理央さんはご存知ですよね」
「はい、だから、姉の周りにはいつも人が集まっていました。それは幼い頃から変わりません」
「僕も最初はそんな綾乃さんを見てうらやましいと思っていました。それは、綾乃さんは持っている天性の資質だと考えていたので。でも、お付き合いしてみて、それは違うのではないか、と思いました。綾乃さんはその姿を無理して演じていたのではないかと」
春原の言葉が脳裏をよぎる。
―たくさんの友達がいたって言っていたけど、その中には気に入らないやつもいたと思う。そんなやつとも上手くやっていかなきゃいけない。お姉さんはいつも自分の心を殺していたのかもしれない。
「現実の世界で人と付き合うことは、難しいことです。その人の言葉だけを信じるのではなく、表情や話し方、態度等を見て判断するということが求められます。綾乃さんはがんばって、それをくみ取っていたのかもしれません」
人の気持ちは複雑だ。同じ言葉に喜ぶ人間もいれば、怒る人間もいる。その場の空気の違いによって求められる言動は変わり、それを間違えたら取り返しのつかないことにもなりかねない。
「綾乃さんが無理をしていることに気が付く人はいなかったのではないか、と思います。例え気付いたとしても、それを止める人はいなかったのではないでしょうか。綾乃さんのような人がいれば、物事は円滑に進みますから。失礼な言い方にはなりますが、便利な存在です」
確かに、親、教師などの周りの大人たちにとって、姉は便利だっただろう。言うことも聴く、自分たちの思った通りの行動をしてくれる。
「そこから思ったんです。綾乃さんは小説の登場人物たちの気持ちがわからなかった、というか、そこまで考えることが辛かったのではないかと。登場人物たちの心情を丁寧に描かれているすばらしい小説は、この世界にたくさんあります。でも、実際にそこにいるわけではありません。声を低くして言ったと書かれていても、どのくらい低いのか、声ではなく目の様子はどうなのか、その人の想像力に任せられる部分もあります。そこが面白いところでもあるのですが…。綾乃さんには、それが疲れたのではないか、僕はそう考えたんです」
そこまで、一気に話すと野村あきらははっとしたように
「すみません。僕ばかり話してしまって」
と申し訳なさそうに言った。
野村あきらの言っていることが私は理解できた。小説では登場人物の何もかもを描写することは、できない。周りの景色であったり、そこに置いてある小道具だったりで心情を表現することは可能だが、限界はある。逆に全てを描写してしまうと、そこに読者の居場所がなくなるような気がする。小説は読者の想像力があり、初めて一つの作品となるのかもしれない。
「でも、理央さんの小説は別です。綾乃さんは誇らしそうでしたよ。この本の中にでてくる充は私をモデルにしているに違いないって。僕もそう思いましたから」
「姉がそんなことを…」
「はい、実は僕はアキのような存在だったんです。クラスに馴染めませんでしたし、成績も普通。でも本を読むのは好きといった人間でした。綾乃さんには何度も助けられました。まさに、充の光の部分は綾乃さんそっくりでした」
姉は気がついていてくれていた。
「野村さん、少し話を聴いてもらってもいいですか」
私は野村あきらに姉が残したメモのことを話した。
―理央の書いた小説が辛い
私を苦しめた言葉だ。
「私の友人は、姉にアキのような存在がいなかった、気付けなかった…ということを苦にしたのではないか、と言っています。でもこれは推測にすぎません。私も納得しかねるところがあります」
野村あきらはしばらく考えたのち
「すみません。僕にはわかりません。でも、一つだけ確実に言えることがあります。理央さん…。綾乃さんは、あなたのことを自慢の妹だと言っていました。好きなことにまっすぐで、他の人にはない強さを持っている。私にはそれがない、と。本の話を僕から聞きたかったのは理央さんに近付きたかったからだ、とも言ってました」
「私が…自慢の妹?そんな訳ありません。私は何をやってもだめで、いつも姉の足を引っ張ってばかりでした。それに、私は強くありませんし…」
「正直、僕もそれを言われた時、訳がわかりませんでした。綾乃さんも十分な強さを持っていると思っていましたから。でも、理央さん。今日あなたと会って綾乃さんの言っていることがわかったように思います」
野村あきらは微笑みながら私を見た。
「理央さんはお姉さんの死ときちんと向き合おうとされています。人生経験が浅い僕が言うのもなんですが、いつも強そうにしていても、本当の絶望と向き合えない人はいます。上辺だけ鎧を着ている、そんな感じの人です。でも理央さんは、経験されたであろう本当の絶望を忘れるのではなく、受け入れ、前に進んでいこうとしている。そのように僕にはみえます」
本当の絶望。
姉が死んで、家族が壊れて、学校にも居場所がなくて。確かに私は多くの絶望を抱えてきた。
「でも、自分では強くなったと感じていません。今、私が前を向けているのは、支えてくれている友人のおかげです。だから、一人で立ち直ったわけじゃないんです」
「理央さんにはアキのような存在がいるんですね」
私は春原のことを思い出す。触れてくれた手、肩の温かみ。今でもそれは残っているように感じた。
「そうです。私にはアキのような存在がいます。私は充のような人間ではありませんけど」
「それも、理央さんの強さだと思います。支えてくれる存在に出会い、その人を大切に思っている。それは、とても大切なことです。僕も綾乃さんにとってアキのような存在になれてたら良かったんですが…」
野村あきらは、うつむき冷たくなった紅茶をすすった。
さっきいた客はもう帰ったらしく、店の中はまた静けさを取り戻していた。
もうすぐ日が暮れる。
「野村さんに一つ、聞きたいことがあります」
「なんでしょうか」
「姉が今、生きていたとしたら、今でも姉と付き合っていたと思いますか?」
「もちろんです。僕は今でも綾乃さんのことが大好きですから」
私は「ありがとうございます」と頭を下げた。
姉のことをこんなにも大事に思ってくれた人がいるということが嬉しかった。少しでも本音を言える人が居て良かった。
「私は今、少し、姉に腹が立っています。どうしてこんなにいい彼氏さんがいたのに死んじゃったんだろうって。もう一度、お墓に行って姉を叱ろうと思います」
その言葉に野村あきらは再び微笑んだ。何度見てもいい笑顔だ。こんな笑顔を姉に向けてくれた野村あきらに私はまた感謝した。
野村あきらと二人で再び姉の墓に行き、手を合わせた。
帰り際、野村あきらが電話番号とメールアドレスを書いた紙をくれた。
私が「携帯を持っていない」というと
「じゃあ、携帯を買ったら好きな時に連絡してください。本の話でもしましょう。正直、綾乃さんより良い議論ができそうだ」
そう言って、私たちは笑いあった。
野村あきらと連絡ができる日までに本を読めるようになりたいと思った。
翌日、放課後の部室で春原に両親の離婚や姉の彼氏のことなどを話した。春原は最後まで聴くと
「波乱万丈だったな」と言って笑った。
「お父さんは今どうしてる?」
「家に帰ってからずっとテレビ見てばっかり、なんだかかわいそうになって、昨日、夕ご飯作って置いといてあげたの。そしたら、全部食べてた」
「理央らしいな、おれだったらざまあみろとか思っちゃうけど」
「お姉ちゃんに彼氏さんがいて良かった」
「連絡先、教えてもらったんだろ。良かったな。恋に発展するかもしてないぞ。年上の彼氏ができるのは悪くないかもな」
少し茶化したように春原が言った。
そんなことない、と私が強く否定しても、春原は笑っていた。




