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もう、本は捨てない  作者: まき乃
14/25

母が家を出る

 冬休みも終わったらあっという間に春がやって来て、新学期を迎えた。

 保健室登校であることに変わりはなかったが、1週間に1~2回は教室で授業が受けられるようになった。

 1年生が文芸部に入部することはなく、人数も増えなかった。積極的な広報活動を行わなかったということもあるが。文芸部のためには良くないことだが、私は少しほっとした。まだ、先輩なんてできない。

 少し変化したことといえば、春原と私が新聞部に書くコラムの執筆をするようになったことかもしれない。日常のできごとなどを書いてほしいとのことだったが、結局、春原の好きな本を書くことになった。

 春原が言ったことを私が書いてまとめ、二人で書いたということで新聞部に提出した。それは思いのほか教師陣の評判が良く、今まで知らなかった教師からも声をかけてもらえるようになった。

「高校に入ってこんなに褒められたの初めてだな。ほぼ、理央のおかげだけど」と春原も少し嬉しそうだった。

 人の評価なんか、どうでも良いつもりだったが、認めて貰えたことに素直に喜べる自分もいた。

「家の感じはどう?」

 春原は心配して時々尋ねてくる。

「変わらないよ。今まで通り」

 家庭で私がいないものとして扱われている現状に変わりはない。でも、それで良かった。春原が父に怒りをぶつけた日から、家族のことを私はあきらめていた。

「でも、そういえば、ここ1週間くらいお母さんの姿を見てないな…」

「出張にでも行ったんじゃないの。すごい会社のキャリアウーマンなんだろ」

 そうだね、と返事をしたが、少し気になった。母が出張したとしても2~3日程度だった。こんなに長い間、家を空けたことはない。


 少し暗くなってから家に帰ると、父がリビングのテーブルに座っていた。いつものように2階へ上がろうとすると「理央」という声が聞こえた。

「ちょっと来てもらってもいいか」

 名前を呼ばれたのは、3年ぶりくらいだ。嬉しさは感じなかった。無視しようかとも思ったが、リビングへ向かった。座るように言われ、父の前に腰を下した。

「母さんが家を出ることになった」

「えっ」

 意外な言葉だった。父と母は仲がいいと思っていたからだ。父と母は価値観が同じで、意見が食い違うことなんてほとんどなかった。父が怒る時は母も怒った。どちらかがかばってくれる、なんてことはなかった。

「離婚ってこと」

「母さんから送られてきた離婚届けだ。後は父さんが書くだけだ」

「私はどっちに行けばいいの」

「父さんの方だ。今まで通りここで暮らせる。母さんはな…」

 父は絞り出すような声で

「妊娠している。今、5カ月だそうだ」

 私は言葉がでなかった。妊娠?5カ月?母は確か48歳のはずだ。

「ということは不倫…」

 父はうなずいた。

「関係を持ったのは1年前からだそうだ。同じ職場の同僚で母さんより、5歳若い」

 と言いながら、封筒を私に差し出した。

「これに全部書いてあった。それで理央、母さんがお前に会いたいと書いている」

「私に…」

「場所は隣町にあるファミリーレストランだ。駅の傍にあるからすぐわかるそうだ」

 こんな父の表情を初めて見た。覚えている限り父はいつも自信のある顔をしていた。職場での父のことは知らなかったが、きっと家と同じような感じなのだろうと思っていた。

 それは良い意味で頼りがいがあったのかもしれないが、自分と同じことができない人に対して突き放すといった冷酷さがあった。

 私は何度それに苦しめられたかわからない。

 父は戸惑っているのだと思う。人生で初めてのつまずきに対して。憎んでいた父のことが少し哀れになって来た。

「お母さんに伝えること、何かある?」

 父は首を横に振り、何も答えなかった。


 翌日、指定された場所に向かった。ファミリーレストランはすぐに見つかり、店に入ると母の姿が見えた。私は黙って向かい側に座った。

 昼過ぎのファミリーレストランにはまだ多くの人がおり、親子連れの姿や、一人で本を読んでいる学生と思われる人の姿もあった。私たちのテーブルの一番近くには若い男女が座っていた。

 見た目が若い母はまだ30代後半くらいにしか見えない。

 ここにいるのは二人ではない三人だ。

 私はコーヒーを頼み、母が話し出すのを待った。長い沈黙だった。コーヒーが来ても沈黙が続いたので、私が口を開きかけた時、母が喋り始めた。

「ここね、一度来た場所なのよ。覚えてる?」

 私は覚えていないと言った。

「そうね。理央は3歳くらいだったから覚えていないわね。ここで綾乃と理央と3人でパフェを食べたの。父さんは子どもに甘いものは食べさせない方がいいって考えだったのわかってるでしょ」

 その通りだ。父はわたし達におやつを食べさせてくれなかった。理由は忘れてしまったが、父の言うことは絶対だったので、素直にそれに従った。給食で時々出る甘いものが楽しみで仕方なかった。

「でも、綾乃があまりにせがんだから。綾乃がわがまま言うことなんてめったになかったし、私も可愛そうになって連れて行ってあげたの。綾乃も理央も、ものすごく喜んで食べていた。私は後ろめたさを感じながらも嬉しかった。これが唯一、父さんに逆らったことよ」

 母の声は抑揚がなく、何を考えているかよくわからなかった。今さら、そんな昔話をしてどうだというのだろう。

「お父さんから話は聞いているわね。私の話」

「聞いているけど、本当なの。不倫とか妊娠とか」

 母はうなずいた。それを見てやっと信じることができた。その目はまっすぐ私を見ていたから。攻める気持ちや怒りは浮かんでこなかった。その事実だけを私は受け入れた。

「お母さんね、理央とそっくりなのよ」

 そんなこと言われたことはなかった。私の思う母は父と同じく完璧な人間で、私に似たところなんてないと思っていた。

「小さい頃は勉強も運動もあまりできない子どもで、それ以外にも秀でたところもなかった。引っ込み思案で友達もできなかったし、目立つのも嫌いだった」

 そこまで言うと母の言葉は少し途切れた。私はその当時の母のことを想像する。でも、今の母と結びつけることができない。でも、ここで嘘をつく理由はどこにもないはずだ。

「高校生の時、努力して一流と呼ばれる大学に入れたけど、自分に自信はないままだった。そんな時、お父さんと出会ったの。お父さんはその時から、光を放っていた。何をしてもトップクラスで、学年で知らない人はいなかった。成績優秀者として、学費を免除されたこともある。1を聴いたら10がわかる。そんな人だったの。お父さんから告白されて、私は嬉しかった。傍にいたら、私も輝けそうだったから」

 そう言い、母は水を飲んだ。コーヒーが好きだったはずなのに。

「私はお父さんの言うことをなんでも肯定した。この人についていけば間違いはないと思ったから。父さんのアドバイスを受け、私は大企業に就職し、そこでも認められた。そして結婚して綾乃と理央が生まれた。綾乃は優秀だったからきっとお父さんに似たのね。でも理央あなたは…」

「私は劣等生だったよね。いいよ。自分でもわかっている」

 私は母にはっきりと告げた。母は少し遠慮しながら「そう」と言う。

「私たちはあなたに厳しく当たった。特に私は厳しかったと思う。でも、それは、あなたに私の姿を見ていたからなの。怖かった。あなたが優秀じゃないのは私のせいだと父さんに言われるのではないかって。昔の私の姿を知ったら父さんは私を軽蔑する、そう思った」

―どうしてあなたは綾乃みたいにできないの。

―どうしてあなたは努力しないの。

―どうして、くだらない本ばかり読むの。

 それらの言葉を思い出す。それは時に浅い傷となって、深い傷となって私を傷つけた。どうして、と言われてもできないことだってある。

 私はそろそろ、話の核心を聴きたかった。

「そんなにお父さんのことを大切に思っていながら、どうして不倫なんて…」

 母は少し迷っているようだったが、決意したように語りだした。

「お母さんね、仕事で大きな失敗をしちゃったの。具体的に何かまでは言わないけど。今まではそんなことなかったのに、どこかにうぬぼれがあったのかもね。その時、私をかばってくれたのが彼だった。聞いたと思うけど私より5歳年下よ。そんな彼が、見返りもなく私を助けてくれたの。そんなに仕事ができた訳じゃない。どちらかというと不器用で、最短距離で進むことができない人。その後、色々なことがあって私と彼は関係を持った」

「お父さんだったらそんなことしないね」

 私の言葉に母がうなずく。迷いなく。

「その時からだった。心に迷いができたのは。そんなことは絶対ないとなんどもこの迷いを打ち消そうとした。けど、本当に恋をした気持ちを抑えることはできなくなった。考えれみれば、私がお父さんに見ていたものは、後ろ姿だった。私はそれに追いつこうと必死だった。でも今の彼とは…」

 母がまた、まっすぐと私を見つめる。本当のことを語る瞳はなんてきれいなんだろう。

「横に並んで一緒に歩ける」

 母は語ることを止めた。私たちはしばらく何も話せないまま、向かい合う。多くの人が周りにいるのに、ここは3人だけの空間だった。

「お母さん、今、幸せなんだね」

「お父さんとあなたには申し訳ないけど、私は今が一番、穏やかな気持ちでいる。あの家にはもう戻れない。彼とこの子で人生を歩みたい」

「色々なものを手放すことになるよ。会社も居づらくなるでしょ。それでもいいの」

 私の問いかけに母はうなずいた。それを見て私は言った。

「私は、前も言った通り、お父さんとお母さんのことは親と思わないことにした。今日だって本音を言えば行きたくなかった。でも、今のお母さんをみて、少し安心した。お母さんもまったく情がなかったわけじゃなかったんだって。戸惑いとか、悲しみとか色々なものを抱えてたんだって」

 母の目に涙が浮かぶ。傍を通りかかった店員がちらりと私たちの方を見た。

「泣かないで。お母さん」

 母は本当の人生を歩み始めたのだ。私はふいに××のことを思い出す。××が本当の人生を生きたのはほんの一瞬だった。でも、母は違う。母はまだ時間がある、守るべきものがある。私は母のお腹の中にいる出会うことはないであろう弟か妹のことを思った。

「その子がどんな子であっても、愛してあげて。私のようなことはしないで。前だけを見ずに、振り返って、その子の手を握ってあげて」

 そうしたら、私は母のことを許せる。

 母は涙をハンカチでぬぐった。

「理央、最後にお願いがあるの。私の目の前でパフェを食べてくれる?」

 私はうなずき、メニュー表を広げた。フルーツパフェやチョコレートパフェ、抹茶パフェといったメニューが並ぶ。私は当時、小さめのフルーツパフェを頼んだそうだ。

「綾乃はチョコレートパフェを頼んだんだけど、理央のフルーツパフェも食べたがって、理央がそれに気が付いて、綾乃にあげたの。小さなパフェだったのにね。どうして、私はあなたのその優しさを愛してあげなかったのかしら。それだけあれば十分だってどうして思ってあげられなかったのかな」

 私は姉が食べたチョコレートパフェを選んだ。

 パフェはあっという間にきた。パフェはチョコレートアイスと生クリームが中心にウエハースやクッキーがトッピングされていた。それを崩さないように小さなパフェ用のスプーンで口に入れた。

 パフェは甘くて、冷たい。

 姉はどんなに嬉しかったことだろう。

 食べている間はあまり話せなかった。でも、それで良かった。最後に向かいあえて良かった。

 私は食べ終わり母に別れを告げた。

「じゃあね、お母さん。身体を大切にね」

「理央」

 母が私を見つめる。もっと早くこんな目で見つめてほしかった。

「春原君のこと好きなのね」

「好きだよ。大切な…友達だよ」 

「春原君を大切にね」

 これが別れの言葉になった。


 電車に乗り、家へ帰る。窓からファミリーレストランを見る。まだ、そこに母はいるのだろうか。電車はどんどん進み、その姿が小さくなっていく。

 私は自分の言ったことを思い出す。

―前だけを見ずに振り返って、その子の手を、握ってあげて。

 前だけを見ろ、後ろを振り返るな。

 多くの人がそんな目標を抱く。事実、そういう人たちがいたから常に時代は進み続けるのだろう。

 でも、その時代に、取り残された人に手を差し伸べた人がいたからこそ、物語は産まれたのではないか。


 家に帰ると父がリビングでテレビを観ていた。

「お母さんに会ってきたよ」

 それだけ言って、2階に上がろうとした。その時、父の声が聞こえた。

「理央」

 私の方は見ていない。父の目はテレビの方を見続ける。

「すまなかったな」

 今さら遅い、そう思ったが口には出さなかった。今の父にそれを言うのはあまりにも残酷だった。父は人生で初めて負けたのだ。

「お父さん、お母さんのこと好きだった?」

 父は、はっきりとうなずいた。

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