怒り
私と春原が下へ降りていくと、丁度、両親が帰ってきたところだった。両親はきっと私たちのことを無視するだろう。そう思い春原と外に出ようとした。
「君が春原君か」
父が突然、話しかけてきた。久々に聞いた父の声は以前より低くなっているようだった。
「担任の入間先生から聞いたよ。君がそれを助けてくれたってね」
春原が「それ」という言葉に反応した。私は姉の死んだ日から名前を呼ばれていない。
「正直、それがどうなっても私たちはかまわない。事件のことは聞いたが、加害者に怒りは感じなかった。君は知らないとは思うがあの日から親子関係はもう壊れている。だから」
父は春原の方へ目もくれず言った。
「君がそれに対して何をしてもべつに構わないが、私たちに迷惑をかけることだけはしないでくれ。例えば妊娠とかというのはさずがに世間体があるからよしてくれ。まあ、君も困るだろうしな。いいね。もし、そうなった場合は無理やりにでもおろさせる」
私は身体を固くした。季節風以上の寒さがした。母は何も言わず、台所へ向かった。父もその後をついて行こうとした。
「ざけんなよ…」
春原の声が聞こえた。小さな声だったが、それは父親にも聞こえたらしく、父親は足を止めた。
「あんたたち、それでも親かよ!自分たちだけ、現実から逃げやがって!松野…理央がどんだけ、お姉さんの死で苦しい思いをしたか知っているか。もう身体も心もぼろぼろになるくらい傷ついたんだぞ。あんたたちはそれに気付こうともしていない」
父が冷たい目で私たちの方を見る。
「家の恥をそれは話したのか。赤の他人にそんなこと話すなんて、ますますつかえん子だな」
「理央がずっといじめられていたこともわかってたよな。自分の娘に温かい言葉一つかけてやることもできないのか。ほんの少しの愛情すらあんたらにはないのか!」
父は振り返った。
「春原君、人には愛情を受けるに足る人間と、受けるに足りない人間がいる。努力しそれに向かって進み、成果をあげたものだけが、愛情を受ける権利がある。それは、愛情をかけるに値しない価値のない人間だ。努力もしていないし、成果もあげていない。作ったことを後悔してるくらいだ。せめて、あの時死んだのがそれであればと今も思っている」
春原はこぶしを握り締め腕を上げ、父に殴りかかった。私はとっさに父の前に立ち、春原の手を抑えた。
「理央、なんでそんなやつかばうんだ?そいつは最低な言葉を言ったんだぞ。悪いが、そいつは父親でもなんでもない!」
「春原君、もういいよ」そう言いながら、私は春原の手を必死に抑えた。
「もう、どんなことをしてもこの人たちには響かないよ。それに、本当に殴ったら春原君の立場が悪くなっちゃう。それが一番、悲しいからもうやめて。お願いだから」
その言葉に春原は少し冷静になったようだった。腕を下げ、息を吐き、私の前に立った。
「これだけは言っておくぞ。お姉さん、綾乃さんの死はあんたらのせいだ。理央のせいじゃない。あんたらがそんな価値観だから、お姉さんは冷たい海に身体を投げたんだ。さっきのように理央を傷つける言葉をいってみろ。理央がなんと言おうと、今度こそあんたらをぶん殴る」
「その場合、こっちもそれなりの対応をさせてもらう」
父の声はどこまでも冷たく、抑揚がなかった。
春原は私の手を強く握り家を出た。
近くの公園にくると街灯の下で春原は立ち止まった。怒りのためか、まだ、顔が赤かった。
「最低だ…あいつ」
絞り出すかのような声で春原は言う。
「理央の話を聴いていた時からどんな親かとは思っていたが、想像以上だった。あんなこと親が子どもに言う言葉じゃない!」
「ごめん…お父さんがあんなこと言って」
私は春原に謝った。父は春原を侮辱したのだ。
「私、春原君にこんなに色々と迷惑かけているのに、何もできていないね。だめだなあ、弱いままで。もうちょっと強くなれたら、あの時、私がお父さんに何か言えたのに」
突然、春原が私の肩をつかんだ。そして、少しためらう様に、手を後ろにまわした。私はそれが抱きしめられていると、しばらくわからなかった。
「理央は、弱くなんてない。自分の弱さと向き合える人間が弱いわけがない。あいつらなんかよりよっぽど強い」
その言葉を聞き、のどに何か熱いものがこみ上げてくるような感じがした。春原の言葉が体の中にすっと染み渡った。春原は自分にもその言葉を語りかけているようだった。
春原が肩から手を下した。
「なんであんなに強く言えたんだろうな。自分の両親にもあんなこと言ってないのに。ごめんな、あんなこと突然言って。よけいに傷つけてしまったかもな…。ちょっと気になってたんだけど、ご飯とかどうしてんだ?あんな奴らと食べたくないだろ」
「食べたくない…というか食べさせてくれないかな。お金だけくれるから、適当に買って自分の部屋で食べてるよ」
「あまり、食べてないんじゃないか」と春原が心配そうに言う。
私はうなずいた。
「やっぱりな。前、腕をつかんだ時、細く感じたから、少し気になっていた…。ちょっと待ってて。そこにあったコンビニで何か買ってくる」
数分後、春原はコンビニのビニール袋を手にさげて帰って来た。中には、肉まんとあんまん、それぞれ2個ずつ入っていた。
私たちはベンチに座ってそれを食べた。
「あのさ、もう一つ聞いていいか」
「なに」
春原は少し遠慮するように
「リストカットはまだしてる?」と言った。
「もう、していないよ。あの時、春原君がカッター捨ててくれたし。なんだか、したいという気が起こらなくなった」
「今は大丈夫?あいつ…お父さんからあんなこと言われて身体は苦しくない?」
うん、と私は答えた。嘘ではなく苦しさはなかった。
「そうか、良かった。それにしても、いい公園だな。砂場もブランコもあるし、広い」
「私はあまりいい思い出ないな」
「なんで」
私は春原に公園の思い出を話した。いつも砂場の隅にいたこと、仲間に入れてと言えなかったこと。
春原はそれを聴き
「理央とさ、おれ、その時出会ってても良かったかもな」
と言った。
「どういうこと?」
「昔のおれだったら、一人でいる子は誘ってあげられたと思う。かっこつけているみたいだけど、そういうのほっとけなかったから」
春原は鞄から紙を出し、それに何か書いた。
「これ、おれが住んでいるとこ。前、言ったようにおれ一人暮らししているから、家にいるのが嫌になったらいつでも来て」
そう言いながら私の手にその紙を乗せた。私は「いいの」と尋ねた。
「ああ、大丈夫。本が山のようにあって散らかっているけど、それでもよければ。大丈夫?あの家にこのまま帰れる?」
私はうなずいた。
「もう気にしないことにする。頑張れば愛情をまた得られるんじゃないか、と思ったこともあったけど、さっきのを見てあきらめた」
そうか、と言い春原は言った。そして少し真剣な表情になった。
「それと…。さっきあいつらにも言ったけど、お姉さんが死んだのは理央のせいじゃないとおれは思う。お姉さんは気付けなかったんだ。理央という最大の理解者が傍にいたことに」
「えっ」
「理央だったら、お姉さんがどんな姿を見せても、お姉さんのこと好きだっただろ?」
私はうなずいた。
「だったら、理央はお姉さんにとってのアキで良かったわけだよな。今日、色々なことを言ったけど、理央はお姉さんの死から逃げていない。向き合おうとしている。それはすごいことだと思う」
そこまで言うと春原は照れたように言った。
「さっきから理央って呼んでるけど、嫌だったかな。つい興奮しちゃって。でも、おれたちよく考えてみれば友達なんだし、これでもいいのかもな」
「友達?」
「お互いの気持ちであったり、境遇だったりを正直に話してる。こんなに色んなことを話したやつはこれまで一人もいない。もう、友達だって言っていいだろ?」
私は「友達」という言葉に戸惑い、何も話せなかった。春原はついでに買ったやつ、と言って数種類のお菓子を私に渡した。
じゃあ、と言い、去る春原の後ろ姿が見えた。その背中を見ている内に、沸き上がったことのない感情が体の中を駆け巡る。
昔、読んだ本を思い出す。クラスメイトの少年に恋する少女の話。
少女は少年に好きだと伝える。しかし、それがきっかけで、二人は友達ですらなくなってしまう、そんな話だ。
恋をしたことがなかった私はその少女の気持ちをあまり理解することができなかった。
今、抱いているこの気持ちがもし恋だとしたらどうなるのだろう。
そうではない。そんなわけがないと私は思う。これは友達と言ってくれた嬉しさだ。
私には今まで友達と呼べた人はいなかった。
春原はもう一度、振り返り、こちらに手をふる。
今は振り返ってくれるんだね、そう思い、私は小さく手をふり返す。
家に帰ると両親が夕食を食べていた。私のぶんは当然のように用意されていない。
「お父さん、お母さん」
反応がないことはわかっていたが、私は続けた。
「二人が私を子どもだと思わないように、私もあなたたちのことを親とは思いません。お金を出してもらっていることはありがたいとは思うけど。今まで、色んなことをされても我慢できた。でも…友達を傷つけたことだけは許せない。春原君は私の大切な友達だよ。二人にとって価値のない私を必死に守ってくれた、私に生きろといってくれた。だから…」
やはり、反応はない。でも続けてやる。
「これまで通り私を無視してください。私はもうあきらめるから」
かちゃかちゃという食器の音だけが響く。私は2階に上がり、自室へ入った。
春原が買ってくれたお菓子の一つを開けた。チーズ味のクッキーだった。私はこのお菓子のお礼も春原に言っていないことを思い出した。




