エピローグ
かつて聖女と呼ばれた魔女は鍵をにぎりしめる。それは彼が死んでから彼女が抱いた想いの結晶。抗いきれぬ絶望の権化。
魔女は扉の前に立つ。今から彼女が為そうとしていることは禁忌で、世界の均衡を大いに揺るがすものだ。今まで紡がれてきた人の思いを踏みにじる行為だ。
それでも。と、魔女は唇を噛み締める。
それでも、耐えられないのだ。このまま彼がいない世界を紡いで欲しくなかった。
ただのエゴだった。世界の全てを賭けるには、あまりにも軽く、本来ならば天秤にかけることすら許されないちっぽけすぎるもの。だが、それを彼女は世界と引き換えにするほど思ってしまった。抱いてしまった。いまさら後に戻りたいと思わない。戻りたくてももう戻れないのだ。今から行う行為は過去に戻る訳ではなく、世界の改変なのだ。そこに正義などない。
魔女は迷いを断ち切るように顔を上げ、鍵を扉に差し込む。ゆっくりと右に回すとそれはカチリ、と鳴った。
「凄いな。まさか人間がこの扉を作るなんて考えてなかった。」
突然目の前に現れ、そう呟いた眉目秀麗な人物はきっと。
魔女は、はっ、と短く息を吸った。
「ただの人間ではありませんので。」
「なるほど、『神殺し』か。」
目の前の人物は可笑しそうにククッと喉を鳴らした。
「いいぜ。我が名は時の神、アレジシェンタ。お前の望みを聞こう。
『汝、何を求むる者か、汝をもって証明せよ』」
何年もかけて準備した言葉を魔女は紡ぐ。
「我、時を求めるものなり。求むものの鍵として我、セイ・アルタルテ・トゥルデドゥール・を定義する。」
時の神は意外そうに片眉を上げた。
「ほう、代償は。」
「私と、私に付随するものの全て。」
魔女が応えると神はフッと笑った。
「面白い。神であれば俺の女にしたものを。」
「お断り致します。」
「つれないな。いいだろう、叶えてやるよ、その望み。
『我、時を司る者なり。アレジシェンタの名において、世界の箍を外そう』」
そして、扉は淡く輝く。
「決して暴走するな。お前はもうどの世界にも属さない。」
時の神はそう言い残して去っていった。
魔女はきつく目をとじ、彼女の最愛を思った。もう二度と彼に会うことは叶わない。彼女の最愛である彼は、もうこの世界のどこにも存在せず、また、彼女がこれから訪れるどの世界にもいないのだ。それでも、せめて。救いたいと思うのは罪だろうか。
かつて聖女と呼ばれた魔女は、扉を開き、まばゆい光の中を進んだ。
二度と戻れない世界に愛を込めて、かつて聖女と呼ばれた魔女は嗤った。そしてその姿を背にパタンと扉は閉じた。
聖女と王子の世界が終わる。
* * * *
Story.1 聖女に世界はいらない -了-