思春期の記録
父とのケンカを通して思ったことを文にしました。
自分には読んでもらうための手段がこのサイトしかなかったため、サイトにあまりそぐわない内容だとは思いますが、どうかお許しください。
努力ってものは、私にはよくわからない
父は絵本作家を職業としている
創作を職業として生計を立てていることは本当に凄いと思う
私が幼稚園の時は
母は専業主婦であり、父の収入だけで家族4人の生活がまわっていた
それが今や
母は毎日、朝早く家を出て工場で働き
夜遅くに帰ってくる
たぶん父より母の方が収入が多いだろう
だが仕事を始めてどんどん痩せていった母を見て
仕事の苦労は私でも容易に想像できた
母が働き始めてから数年が経つが
家計は悪くなる一方のようだった
兄が私立大学に入り
今までさほど気にしていなかった私も
家計事情を意識するようになった
そうして高校生になった私は
いろいろと、考えるのである
私は父を尊敬していた
とても優しいし、真面目な性格で、勤勉で
自分の決めた習慣を守り
コツコツと積み重ねができる人だ
母が働き始めてから家事もこなすようになり
認知症の祖母をとても気遣っていた
祖母が入院してから他界するまでの間も
毎日毎日声をかけ、プリンを食べさせていた
真面目だが抜けていることも多く
私は昔から
そんな父をバカにしつつも、心から尊敬していた
誇れる父だと思っていた
憧れの存在といってもいいかもしれない
しかし最近になって、私の父に対する評価はどんどん変化していた
仕事時間に収入が比例するような仕事でないことはよくわかっているつもりだった
それでも
ひどく疲れて帰ってくる母や
友達の父親の生活の話を聞くと
どうしても反感を抱いてしまうのだ
「4時間ぐらい」
1日に机に向かう時間を尋ねたら
父は平然と、そう答えた
わたしはどうしても以前のように父を評価できなくなってしまった
そして
わたしはこの気持ちをどうにか父に伝えようとした
最初は
そこまではっきりと話をするつもりではなかった
でも抑えきれなかった
当然、ケンカになった
口論の末に、わたしは父にこう聞いた
「もう少し努力することはできないのか」
普段のわたしの生活態度からして
わたしがこんなことをいえる立場ではないとわかってはいたが
怒りに任せてわたしは聞いた
「これ以上なく努力している」
父はキッパリとこう言った
私はそれを聞いてどんな話をしたのだろう
あまり覚えていないが
「努力しているようには見えない」
だとか
「母の前でもそんなこと言えるのか」
というようなことを言ったのだと思う
「お前に俺の苦労はわからない」
そう父は連呼した
私は以前から
この言葉を何度も聞いていた
ケンカをするたびそうだった
お前にはわからない
わかるはずがない
「せめて少しでも、今の生活を改善して、仕事時間を
増やせないのか」
その言葉をかき消すように、父は言った
「今が精一杯だ」
「俺は毎日毎日必死に仕事をしている」
「必死に努力をしている」と
私は泣いた
何の涙かわからずとも泣いた
そして沈黙の末
カスカスの声で、私は言った
「ごめん」
そしてそれ以上何も言わなかった
自分は成長したなと感じた
抑えた自分を褒めたかった
でもこの気持ちを放っておけるほど
大人でもなかった
この気持ちをどうにか発散したかった
だから私は
しっかり言葉にして閉じ込めようと思った
この気持ちは、とても当たり前のことだった
今まで言葉にできなかっただけで
ずっと前から抱いていた気持ちだった
でもそれを言葉にすることで
それのなすものは大きく変わると、私は思った
「しょせん思春期真っ只中の子供の意見だ」
ということを理解した上で読んでほしい
人の言う努力とは、何を指すものなのだろう
父の言う通り
努力も、苦労も
本来は誰にも理解しえないものなのだ
父はキッパリと、自分は努力していると言った
私の目からは、とてもそうとは思えなかった
努力とはそういうものだ
他人があれこれ言えるものではないのだ
本人が主張したら、それは存在するのだ
真偽は別として
それは確実に存在することになるのだ
だとすれば努力は
他人には評価できないものだ
だが一般に
「この人は努力家だ」
と評価する人がいる
私だって
努力家だなぁと思う人はたくさんいる
勝手に人の努力を評価している
どうしてそんなことができるのか
それはやはり、人と人を比べているからだ
人の言う努力とは結局
他人と比べて
より頑張っているか、ということだろう
だが努力とは
本人が主張しない限り存在しえない
本人しか理解できず、基準などない
それを踏まえて私が父に言いたかったことは、
「私の理想の努力をしてくれ」
ということだ
これは間違ったことだろうか
私の言動は、父に対して
自分の思う努力を基準とし、押し付けたことになる
だがこれは、ひどく一般的な行為だろう
相手にに対しそのような気持ちを抱いてしまうのは
仕方のないことだ
なら、そうするしかないではないか
誰しもそうするように
父が私に対し、努力しろと言うように
だからこれは、当たり前のことだ
誰しも心ではわかっていることだ
だとすれば努力というのは
言うほど価値のあるものではないのだ
大事なのは
「努力すること」ではない
「他人から見た努力を想像すること」なのではないか
人から見た自分を想像し
「人が求める努力家な自分になること」ではないか
「相手の期待に応えること」ではないか
私たちは日常的に
かつ頻繁に
「努力しろ」というれど
努力することに、意味などないのではないか
ここまで長々と書いてきたが
初めに言ったように、これは当たり前のことで
本人の言う「努力」と
他人が相手を評して言う「努力」とは
明らかに意味が違うということだ
努力とは
不確かで
曖昧で
とても都合の良い言葉だと思う
父の主張する努力とはなんだ
努力とは、なんだ
読んでくださった方、ありがとうございました。
自分としてはこのサイトに投稿できただけで
気持ちがだいぶスッキリしました。
私の意見に対して反論等あるかもしれませんが、
一意見として胸に留めていただけると幸いです。