第四話「自分勝手なせんたく」
桃音がトレーに乗せて夕食をテーブルに運んできた。ステーキだった。じゅうじゅうと鉄板の上で焼けている。
「ああ、手伝います?」
鏡夜はソファに座ったまま声をかけたが、桃音は鏡夜に視線を向けることもしなかった。ともすれば無視に近い無礼な態度だが、鏡夜はすぐにピンとくる。
これは必要ない、という意味だなと。なのでソファに座ったまま、桃音がテーブルへ夕食を運ぶ様子を見る。
食器はいろいろ種類があって、来客用と彼女自身用の区別が鏡夜にはつかない。なるほど、これは余計な手出しは不要だろう。
表面上は無礼だが、その実は気を使ってくれている。せいぜい数時間ほどの付き合いだが、鏡夜はそんな彼女の性質がわかった。
これは親しまれるな……そういえばあの冒険者も〈桃姐さん〉と呼んでいた、と思い出しているうちに桃音は夕食を並べ終わった。
桃音は一つ椅子を引っ張ると、それを放置して、その向かい側に座った。
「ああ、まぁ、そこに座れと」
あの小屋でも同じことをしていた。コミュニケーション不可能者である彼女にとって最大限の合図だ。謹んでお受けしよう。
鏡夜はソファから立ち上がってその椅子へ座った。
夕食は和やか……? に進んだ。相互会話はできないので、一方的に鏡夜が話しかけている形だ。もともと鏡夜はかなり饒舌な性格である。思考も割合深く、返る言葉がなくてもそう簡単に話は尽きない。それに……反応がないわけではなかった。
地味で陰気な調子は崩れないが、桃音は茫洋でありつつも多彩な表情を示す。
それで何か確固とした意思表示が伝わることはないが、話す甲斐はあった。壁に話しているわけではなく、一個の人間に話しているわけであるし。ちなみに話題はとても当たり障りのないことだ。
元の世界では学生だったとか。好きな飲み物はコーヒーだとか。
いや、貴女に小屋で貰った紅茶も最高でしたけどね、とフォローしたり。
そんなことを鏡夜は情感たっぷりに話した。
あっという間に夕食のステーキを食べ終わった鏡夜と桃音は二人で食器を片付けた。……夜もすっかり更けてきている。
そしてそのあと、鏡夜はバスルームにいた。お風呂が沸きました、と備え付けの機械パネルに告げられてから、じーーーっと桃音に見つめられて、ああ、先にお風呂に入ってほしいんですね、と気づくまで十分ほどかかったが……正直な話、気づきたくなかったのが本音だった。というかいつのまに沸かしたのだろう……。
鏡夜は自分が足を伸ばして、のんびりと入れるだろう大きなユニットバスを完全灰銀スーツ装備で途方に暮れて見下ろす。
頭に嵌っている帽子を引っ張ってみた。脱げない。上着やシャツのボタンは外せるが腕はまったく脱げない。ワイシャツの裾を掴んで、子供のようにバサバサしてみるがどうしようもなかった。
「風呂、入りてぇ……」
灰原鏡夜。毎日必ず夜風呂に入り、朝シャワーを浴びる男である。というか、靴も脱げないから土足で風呂場に入ってしまっていた。なにをしているんだ、と鏡夜も思うが、それほどまでに風呂が恋しかったのだ。名残惜しそうに、しっとりと濡れているユニットバスの縁を指でなぞる。
……手袋についた水分が一瞬でなくなった。
「……ん?」
右手をぐーぱーしたあと、鏡夜は思い切ってその手をユニットバスの中に突っこんでみた。
右手を持ち上げる。ざぁーっ、と水滴が手袋から垂れたその瞬間。
まるでドライヤーをかけたように……さらに早送りするように、じっとり濡れた手袋は乾き、元に戻る。
「………………」
そういえば、洞窟で、自分は寝転がっていたはずだ。背負い投げで吹っ飛ばされもしたはずだ。しかし、服には、汚れ一つない。どうやらこの服は、自動クリーニング機能があるらしい。
……鏡夜は、思いついてしまった。いや、流石にそれは……だめだろう。倫理的に、この後には家主である桃音が入るのだ。倫理を捨ててしまうのか、灰原鏡夜。
「“あ~~~~~~さいっあくっ……!」
やってしまった。鏡夜は気を遣うことを放棄して、服を着たまま風呂に入った。温かい湯船が身体の筋肉を緩め、神経を癒す――。が、絶望的なまでの、服のべちょべちょとした触感が全身に密着して気分は最悪だった。
故に、〈あ~~~(リラックス)さいあく(ストレス)〉なんて妙な言葉を漏らしてしまう。鏡夜の視線の先では、水面から灰色の影が揺らめいていた。着衣水泳ならぬ着衣入浴である。
「元の世界に帰るとかどうでもいいわ~~~。服が脱げないと死ぬぜこれ。ストレスで死ぬ」
腕を湯船から持ち上げる。相も変わらず、濡れた服は急速に乾く。まるで魔法のように。元に戻る。その荒唐無稽さに、ついつい愚痴を垂らす。ずっと意地を張り通しだったせいか、声も不機嫌そのものだ。
「これがカッコいいねぇ……? 趣味が悪いっつーの。おっと、おっと、桃音さんの趣味が悪いってわけじゃなくな。服が脱げない、この呪縛の趣味が悪い」
シャンプーやボディーソープもあったが、使えなかった。髪につけて泡立てようとしても泡立たない。首元にもつけてみたが、服に染み込んだお湯のように、嘘のようにきれいさっぱりなくなってしまった。
もう一言、“あ~~~~と、おっさん臭い声を上げると鏡夜は風呂から出た。
鏡夜は一呼吸した後、流石に罪悪感があったので湯船を見てみたのだが……ゴミ一つ毛一つ浮いてなかった。目を凝らしてみるが、ない。……異常なまでに綺麗だった。自分が入る前とまったく同じに見える。ならいいや、と鏡夜は見切りをつけた。汚していないのだからセーフだとは、冗談でも思わないが、汚しまくった湯船にするよりかはマシだろう。
脱衣所の鏡で自分を見た頃には服が綺麗さっぱり乾いて元のようになっていた。洗面台横の籠に準備されていた、これまたお客様用だろう男女兼用パジャマが悲し気に己を見ている気がして鏡夜は空笑いをする。
洗面台正面の鏡に映るのは鏡夜だ。ただし、昨日とは姿が違うが。
灰色の髪、紅い目。帽子も手袋もポーラータイもベストもジャケットもズボンも明度が違うとはいえ灰色一色。
灰原だから灰色とでも言うつもりなのだろうか――? そしてその男は不機嫌そうな顔で、口をへの字に曲げ、鏡の中から鏡夜自身を睨みつけていた。
「ああ、駄目だぜ、こんな面じゃぁ舐められる。弱い犬ほどよく吠える。脆い奴ほどしかめっつらってなぁ」
だが、その己の弱さも脆さも……鏡夜は決して嫌いではなかったのに。
「……はん」
鏡夜は昨日までの常人だった己に思いを馳せながら、右手で鏡をなぞろうとした。手が鏡の中に入った。
「………ああ?」
手先から肘まですっぽりと鏡に入る。驚いて、バっと腕を鏡から抜き取った。顔の高さまで避難させた手のひら含め、右腕にはなんの異常もなかった。
「……?」
怖々と、もう一度右手を鏡に近づける。鏡の表面に触れようと思えば、思った通り触ることができた。通り抜けようと念じれば、これまた、ぬっと腕が鏡の中に入り込む。
「……よーし、わかった! 髪と目と服だけじゃねぇな!! まだ、なんかされてるわこれ!!」
鏡夜は手を抜き取ってやけっぱちに小さく叫ぶ。苦悩に浸る暇すらない。不明な能力と不明な転移と不明な拘束と不明な欠点でてんてこまいだ。
風呂に入ったのだからリラックスさせてほしかった。この現象も要検証だ、と鏡夜は脳内で吐き捨てる。
ただ今日は疲れたので検証は明日に回すことにした。鏡夜はリビングに戻りソファで紙の本を読んでいた桃音に声をかけた。本の表紙には、『枕草子』と書いてある。
「いやぁ、いいお湯でしたよ。桃音さん」
桃音は本から顔を上げ鏡夜を見る。鏡夜の頭の先からつま先までじっくりと視線を動かす。鏡夜が勝手に推測するに……鏡夜の服装がまったく変わっていない、つまり着替えていないのが気になるらしい。着替えを用意した当人としては、当然だろう。
「あー、実はですね桃音さん、私、諸事情で服が脱げないんですよ。一緒にするのもなにかと思いますが、貴女が喋れないようにね。……なので、服を着たまま入りました!」
……無表情、の桃音。が、鏡夜ここで動揺しない。飄々と続ける。
「ああ、安心してください。お湯はまーったく汚してないんで。あはは、もしかしたら私、老廃物を出さないスーパー生命体なのかもしれませんね」
もし他に言葉を紡げる者がいるなら、いやお前さっきトイレ行ってるだろ、と突っ込みが入るかもしれなかったが、残念ながらその突っこみを入れる人はこの場にいなかった。
桃音は『枕草子』を閉じると横に置いてある小机に本を置いた。そして鏡夜の隣を通って脱衣所へと向かう。桃音の感情が殊更見えず、鏡夜は彼女が何を考えているかがわからなかった。鏡夜の胸中は着衣入浴の罪悪感やら不安感やらで荒れ狂っているが、はぁ、とため息を吐いてそれを脇に置いておく。
苦悩したところで、それはどうしようもないことだ。
鏡夜はソファに座ると、肘をついてテレビに注目した。あと少しで開幕式が始まる。テレビ画面の左下部分に表示されたカウントタイマーが、刻一刻と00:00へと向かっている。
お風呂のことに関しては、やってしまったことは変えられないし、明日からもやるつもりだった。そしてまったく同じ状況になったらまた同じ行為を鏡夜は選択するだろう。
なので、後悔なんてする余地もなかった。ただ服を脱ぎたいと本日何十回目かの願望を抱くだけだ。