第五話「鏡に向かってどちら様? なんて妙な話だ」
「ずいぶん行儀の良い嵐が過ぎ去っていきましたね」
もちろん皮肉ですが、と呟きながら鏡夜は服をパンパンと両手ではらった。どうせ呪いの権化たる鏡夜は汚れないのだが、壮絶とも言える蝶の衝撃が残って煩わしかったのだ。
鏡夜は窓の外を眺めてみる。火災や交通事故などは見えている範囲では起こってないように見えた。塔京中から蝶が噴き上がったにも関わらず混乱は驚くほど小さかった。戸惑った人々や人外が外に出て周囲を見渡しているぐらいである。
緻密制御にもほどがあるのではないだろうか。どこまでの範囲の蝶を、どこまで精緻に動かせば現在の状態になるのか。
鏡夜は病室の蝶番が外れたドアから出る。
廊下もとんでもないことになっていた。ボロボロのズタズタだ。こうして廃墟のごとき有り様になったのを見ると、決着の塔攻略支援ドームとは塵一つなく、傷一つない綺麗な施設だったのだと痛感せざるおえない。
もちろん、見える範囲に蝶の一匹も残っていなかった。
華澄は病室のドアから顔を出して廊下を見て顔を顰める。鏡夜は振り返って静かに言った。
「別に貴女のせいではありませんよ。仕方のない――」
「いいえ」
華澄は食い気味で鏡夜の言葉を遮った。
「エージェントが仕方ないで片付けるつもりはありませんの。そもそもわたくしは、捕らえられるつもりでした。ドーム中になんらかの神話的な目があることはわかっていましたが、それがどれほどのものであろうとも、わたくしたちなら対処できると。ああ、なんと甘い。コンセプトではなく、スケールを超えられましたわ。塔京すべてに仕掛けたソレを、ただ逃げるためだけに使うなんて。……流石、魔術師ですの」
もちろん皮肉ですのよ、と華澄は鏡夜の言葉を借りるように呟いた。
お淑やかに華澄へ歩み寄ってバレッタが口を開いた。
「くすくす、エーデルワイス様はこちらに向かったようですね」
「ああ、過去観測ですか、お願いします。どちらに行ったかだけでも把握しておかないと」
鏡夜の頼みにバレッタは頷いて先導して歩き始めた。
バレッタは廊下を油断なく観察しつつ、説明するように謳う。
「ドーム中の様々な物が蝶に変じて、エーデルワイス様の周囲に集まっていきました。そしてその大質量を引き連れて……。おっと、職員が巻き込まれていますね」
鏡夜は横たわっている黒スーツの職員を見て眉をしかめる。死んでいるのか? と思ったが、呼吸は上下しているようだ。……鏡夜へ殺到した蝶は攻撃を受け続けると死ぬと理解できる程度には容赦なかったのだが。この手加減もまたリコリスが制御したものなのだろう。
決着の塔では殺しはできないが、そもそも〈Q‐z〉は人類にしろ人外にも――この区別に意味はないが――殺傷するつもりはないようだ。
希望の火を絶やす云々の言い回しを考えるに、まぁ、何か信念があるのだろう。素晴らしいことだ。
「かぐやさん、ちょっとどれくらい怪我してるか調べてもらっていいですか?」
「あいあいさー」
かぐやは廊下で倒れている角が生えている男性職員に近づくと、傍にしゃがみこんで目を光らせて検査する。
「気絶してるだけだね」
「くすくす、蝶の嵐に巻き込まれた衝撃のせいでしょうね……」
「でしょうね」
それ以外の要因はないと思う。鏡夜はなら大丈夫かと判断して、バレッタについていく。仲間たちも周囲を警戒しながらついてくる。
辿り着いたのは受付エントランスだった。ここも台風にさらされたのごとき有り様だった。あらゆる塗装が剥げ、備品も分解されたのかと誤解するぐらい散らばっている。リコリスがパーティメンバーとしてドームの中をうろつき、触ったものだけが蝶になったからか。なくなるものも残っているものも規則性なくバラバラだった。
受付に職員はいない……というか誰もいない。
バレッタはぐるりと一回転する。
「くすくす……あちらの」
バレッタはドームの入り口を指さして言った。
「出口から外に出たようですね。多くの蝶を纏いながら」
「外ですか? ダンジョンの中ではなく」
鏡夜はてっきり【決着の塔】の中に入ると思ったのだが。あれほどの蝶を中で自在に操られれば障害になるだろうし。なにせまともに先も見通せなくなるほどの量と、当たれば鏡夜がダメージを受けるくらいの硬さがあるのだから。
「くすくす、全ての蝶を纏って出ていったわけでないですね……目測の概算ですが、おそらく半数。残り半数は……あのステージホール、【決着の塔】の入り口の方へ向かっています」
「あ、さいですか」
虎の尾を踏んだ気分だった。いやエーデルワイスは当初から、どこかで、本人曰く二十年程度で、蝶のギミックを使うつもりだったと述べていた。遅いか速いかの違いであり、速いことは鏡夜の歓迎すべきことだった。
もちろん最高は、全部の罠と作戦を発動させる前に〈Q‐z〉を無効化することなのだが。
憂鬱である。まだ厄日は終わってないのかとため息を吐く。流石に、あの数百万を超えた蝶はどうにもできなかった。
すると鏡夜は、受付後ろ、関係者専用の出入り口の向こう側から男性の声と女性の声が聞こえてきたことに気づいた。
二人とも聞き覚えのある声だ。受付後ろの扉が開く。
「!」
「なんと」
「……」
鏡夜と華澄、そしておそらく桃音が全員驚いた。なぜならそこから現れたのは――。
「何があったのかな」
日月の契国の王、柊釘真だった。こんな大事件が起こったにもかかわらず、まるで意に介していないとばかりに堂々と受付から鏡夜のいる方向へとやってくる。要人なのに安全確認などしなくて大丈夫だろうかと疑問をいだく鏡夜へ合わせたわけではないだろうが釘真へ話しかけていたもう一人の人物――染矢令美が言う。
「柊王! 危険です! まだ残党――残蝶がいるやも――!」
「いないさ。いないとも。嵐はもう過ぎ去っている。そうだろう、灰原鏡夜くん」
鏡夜は片眉を上げつつ応えた。
「ええ、おそらくは……ところでなんで私に聞くんです?」
「おや、とぼけるのかい。私は恐らく君たちが原因かあるいはその起点だと予測しているのだが、それは間違いなのかな」
流石は鏡夜が契国人ではないと見抜いた柊王。鋭い。だがその鋭さはいま発揮してほしくなかったと鏡夜は微笑の仮面を被る。
「違いますねー。もちろんこれは卑劣な敵手、〈Q‐z〉の仕業ですよ、そうでしょう?」
鏡夜は同意を願いように周囲へ目線をやる。
華澄は柊釘真を無表情で見やっていた。桃音は――。
(おや?)
どこだと探すと、珍しいことに、心あらずと言った様子ではなく、鏡夜の袖を掴んでいた。表情は不服そうにも不機嫌そうにも見える無表情だった。怖がっているわけではないだろうが、桃音にしてはかなり珍しい反応だった。
誰も口を開かないので、主に気を利かせたのかかぐやが大きく頷いた。
「間違いないわ。悪戯好きのあやかしの仕業ね! ずっと病室にいたのに気づかなかったの!」
「へ? どういうことです?」
染矢が疑問符を浮かべる。
「あの、黒髪の妖精女王のことよ!」
「くすくす、久竜晴水パーティメンバー、リコリス様が、〈人形使い〉だったのです」
バレッタの言葉に釘真は、ほうと、感心したように呟いた。
「なるほど、彼女がアルガグラムの魔術師だったわけか。それならばこの大騒ぎも納得しよう」
鷹揚としているなぁ、まさに大人物、と鏡夜は尊敬を新たにする。もしも鏡夜が釘真の立場だったら、意地を張りつつも驚きの反応くらいは浮かべてしまうだろうが、それもないとは。
鏡夜は大げさに頷いた。
「その通りです! まさに大敵と呼ぶにふさわしいでしょう! それほど罪深く、全ての責任は彼女にあるのですよ! 絶対!」
釘真は全力でリコリスへ責任を押し付ける鏡夜の言い分を聞き、愉しげに笑った
「まぁ、君の言い分はわかったよ」
鏡夜はほっ、と息と吐いた。すると釘真は、華澄の方を見て言った。
「さて、しばらく待ってくれ。まだ彼と話すことがあるんだ」
「……」
「?」
華澄は開きかけた口を閉じて押し黙った。鏡夜はその様子へ少し疑問を抱いたが、今はこの国で一番偉い人間が目の前にいるのだからそこに集中するべきと判断して、釘真へと向き直る。
「さて、私はここから忙しくなってしまうだろう。だから鏡夜くんへの用事をここで済ましておきたい。なに、ただ一つの質問だ。いいだろうか?」
「……別に構いませんが」
どう考えてもドームのみならず塔京がえらいことになっているだろうに、それよりも優先するべきことだ、と明言され鏡夜は身構えた。
「君は〈決着〉についてどう思う? 正直な想いを聞かせてほしい」
「…………どう思う? ですか?」
「ああ」
まるで悪戯を成功させたように笑う釘真へ聞き返す。
「君は全ての挑戦者と私にその問いをしたのだろう? だったら君自身にもしなくてはフェアではない」
「………」
鏡夜はその問いを自分へ聞くことはしていなかった。だがそれは逃げていたからではない。聞くまでもないことだったからだ。鏡夜は自分のため以外に〈決着〉を使うつもりはない。ただの手段に思いも何もない。
なるほど、勇者は〈決着〉をどうでもいいものだと言外に示した。英雄はあるものはしょうがないと呟き、魔王は負債と吐き捨てて、聖女はチャンスだとほくそ笑んだ。そして契約の王は、妥当だったと評した。
では鏡の魔人、灰原鏡夜にとってあの老龍が立ち塞がり、〈Q‐z〉さえも妨害する、世界を変える力、千年を超えて現代にある〈決着〉とはなんなのだろうか。
「……ッ」
鏡夜は、自分の願いを叶えるための手段でしかないと口にしようとして、喉で言葉が突っかかった。
つい先ほど、蝶の嵐のその前に、鏡夜は言葉で失敗した。その失敗の記憶が鮮明なせいか、こうやって改まって問われると、本当にこれが正しいのか自信がなくなり、言葉に音が伴わなくなる。
確信が霧散して、後に残った答えは……。
「……わかりません」
そんな、まるで教師に指名され答えることができない学生のような返答のみだった。
釘真は意外そうな面持ちだった。鏡夜も自分に対して意外に思っているのだから当然だろう。意地と虚勢の魔人なら、ここは不敵な解答が正解だったはずだ。舐められないために、全ては私のためにあるんですよ、くらいは嘯くのが、冒険者の金言を全うするいつもの態度だったはずだ。
だが、奇妙なことに鏡夜は、この解答だけは失敗ではないという確信もまたあった。百点満点ではないだろう。だが、今、鏡夜ができる答えとしては最上だ。極めて軽薄な男ではあるが、学習能力はあるのだ。
釘真はしばらくしてから頷くと、鏡夜がいつもやっていた問いをなぞるように二度目の問いを発した。
「では、君は〈決着〉を手に入れたらどうするのかな?」
一つ質問が、と前提を置いていながら二つ目の問いを飛ばす。諸人から見れば気紛れで不躾な発言の展開。しかし、鏡夜と釘真から見ればこれは、お約束である。ここで質問は一つだけと言いましたねと、指摘することは無粋でしかない。舐められる。
それに、鏡夜は、この問いには正直に答えられる。
「私の呪いを解きます。できればそのことで発生する不都合も解決します」
言葉が違うとか、もしかしたらこの異世界では素の状態だと適応できないかもしれないとか、格好良くなくなったら桃音の家に世話になることができなくなるとか、その辺の、呪いの恩恵によって成り立っている全てをも解決する。
それが鏡夜の絶対的な大目標だ。そしてもしもそこまでやってまだ〈決着〉に融通が利くのならば――元の世界に帰ってもいいかな、と。
希望的観測も混ぜればそうなる。
釘真はエレガントな微笑を浮かべた。
「なるほど、そうなると鏡の魔人はいなくなるね」
二人の少女が小さく息を呑んだ。しかし鏡夜は仲間たちの顔色の変化へ気づくことなくその通りだと頷く。
「ええ、私という魔人はいなくなります。もしかしたら、灰原鏡夜そのものがいなくなるかもしれませんね」
鏡夜は柊釘真相手だからか、異世界関係の情報はぼかしつつも、実直に解答した。
もしも、鏡夜がこのやり取りで起こっている出来事を正確に把握することができたなら、先ほど桃音にしてしまった失言など些事とばかりに血の気がなくなるのだが……。
どれだけ強靭で、どれだけチートで、どれだけ機知に富んでいても、神ならぬ人間には、全てを見通すことはできないのだ。
釘真は微笑をさらに深めて、もはや笑みを浮かべていた。そして鏡夜へ親しげに語りかける。
「そうか。私は君を応援しているよ。〈決着〉についてどう思っているかは――もしも機会あれば、いつか教えて欲しい」
「ええ、もちろん!」
「では、私はもう行くよ。ああ、令美くん、ドームの後始末は君に一任する。それと、どこかの会議室を塔京緊急対策室として確保しておいてくれたまえ。準備ができたら私へ連絡を入れるように……では」
「ちょ、ちょっと待ってください! 柊王! あの塔京ってどういうこと……! あ、すいません、今日はドームを閉めるので、その、後日来てください! では!」
染矢は大げさに一礼すると、スタスタと歩き出した柊王を追いかけていった。
「やー、流石ですね! あれほど冷静とは! 上の人がどーんと構えているとやっぱり安心しますよねぇ」
鏡夜はうんうんと感心する。
「………。……あれ?」
鏡夜は華澄へ目を向けた。いつもなら華澄が賛成にしろ反対にしろなんらかの反応をするのだが、いつまでたっても来ないので鏡夜は華澄の顔をうかがった。
華澄は冷静な表情を浮かべているが、鏡夜へ視線を向けていなかった。ボロボロになった天井を見上げている。
「華澄さーん?」
「……ああ、なんですの? 灰原さん」
「いえ、大丈夫ですか……ってそういえば華澄さん、柊王陛下に何か言うことがあったのでは?」
そういう様子だったのだが、どうやら話そびれたようだ。鏡夜は心ここにあらずな華澄へ気を利かせて提案する。
「えーと、呼んできましょうか?」
「……いえ、よろしいですわ。わたくしが〈人形使い〉について詳細に報告する時にでも、聞きますわ」
「そうですか? それならいいのですが」
どうにも極端なことが起こりまくる一日だ。鏡夜と桃音とかぐやは、華澄とバレッタと別れて帰路についた。
華澄は鏡夜のパーティメンバーであると同時に柊釘真王直下〈Q-z〉事件特別対策本部 外部特別顧問である。
その仕事を果たすために受付後ろの関係者出入口へ去っていく華澄を思い返しながら、鏡夜は桃音の家のドアを開ける。
「ただいま帰りましたー」
「はーい、お帰りなさい、我が君!」
「……」
鏡夜はとすっとソファに座る。今日は本当に疲れた。桃音は立ったままである。
「おっと、私が夕食を作ってあげるよ。豪勢なのをね!」
「それはいいですね!」
「……」
かぐやはルンルンとキッチンへと帰って行った。桃音はリビングでぼーっと突っ立ったまま鏡夜を見ている。
鏡夜は桃音を見返した。
「………」
「………」
桃音は何を言うでもなく、何を伝えるでもなく、立ったまま鏡夜を見下ろしていた。
(誰か助けてくれ)




