第二話「呪われた幸運」
「………」
桃音はへらへらと笑う鏡夜を一瞥すると、すたすたとテーブルに近づいて、四つある椅子のうち一つを引いた。そして、キッチンへ向かう。
(……座れ、ってことか? いきなり戦闘にならなくてなによりだが。襲われたらやべぇ気がするし……)
鏡夜は決して背の低くない自分を、腕の力で掴み、背負い投げた桃音の、あの力強さに心の中で身震いする。
鏡夜は恐る恐る椅子に座った。桃音は鏡夜に背を向けてなにやら作業をしている。何をしているのか目を凝らしてみれば、紅茶をいれていた。
……それ以外の、不審な動きは見られなかった。警戒している様子もない。
しかし、ここでボケっと座って、彼女に付き合ったところで何が解決できるのだろうか、と鏡夜は思う。彼女は会話できない。発話できないならまだしも、コミュニケーション全般が不可能であるらしい。
詳しい話を聞くのは絶望的だ。そもそも、こちらの話が通じてるかも――。
(いや、さっきの冒険者たちは普通に口頭で話しかけてたな。聞くことに関しては制限がない感じか?)
鏡夜がそんなことをつらつら考えていると、桃音は鏡夜の方へ振り返った。手にはトレーを持ち、トレーの上は美しい白磁のポットとティーカップが二つ乗っている……。というかポットやカップのみならず椅子もまた微細な文様が描かれている。高級志向なのだろうか。
彼女は鏡夜の傍まで近寄ってきた。鏡夜は桃音から目を離さないよう凝視し続ける。桃音はテーブルの上にトレーを乗せると、二人分のカップに紅茶を注ぎ、一つを鏡夜の前に置いた。
「これは、ご丁寧にどうも~、いやぁ、紅茶はあんまり知らないんですけど……」
鏡夜はカップに注目した。毒でも入っていたら嫌だ。
紅茶から異臭はしない。色も透き通った琥珀色だ。そもそも同じポッドから、いれた紅茶なのだからカップに細工していない限りは何も起こらないはずだ……大丈夫だろう、と鏡夜は結論付けてカップを手に持った。手袋越しでもすぐにわかった。カップがすでに温かい。どうやらキッチンで予め温めていたようだ。 凝った工夫に感心しつつ、一口飲む。鏡夜はどちらかと言えばコーヒー派だったが紅茶も嫌いではなかった。香りが口内から鼻孔へ満ちるような、とても美味なダージリンだった。
「うん、なかなか美味しいですね。貴女の腕がいいんでしょうか?」
向かい側の椅子に座った桃音は、自分の前に置いた紅茶に手をつけることなく、薄く微笑んで鏡夜を見つめている。
「………」
……茫洋と、無言なので桃音が何を考えているのかはさっぱりだった。
「おやおや、この程度の賛辞で喜んでくださるなんて……ま、お世辞じゃありませんよ。正当な評価です」
さっぱりなのだが、鏡夜はその微笑みから勝手に桃音が喜んでいると解釈して答えた。
というか一瞬でも黙ると気まずくなって、雰囲気に敗北して痛い沈黙を選んでしまいそうだった。つまり、舐められる。なので無理にでも会話を強制的に続行する。そんな決意を固めつつ鏡夜はカップに入った液体を見下ろした。液体の表面に自分の姿が反射して鏡のように映る。
(……………!?)
髪が、灰色だった。
目は、赤色だった。
華美なスーツを着た灰髪紅眼の男が、琥珀色の鏡に映っていた。
だが、それはおかしい。……鏡夜は幻視するように回想した。
己の髪は黒髪で、己の瞳は黒目だったはずだ。黒目黒髪の日本人だったはずだ。自分は、こんな、外連味のある洋装の怪人ではなかったはずだった。
(……たぶん、目覚めた時から、こうだったな。服に加えて、髪や眼まで変わっていやがると。……身体に何をされたんだ……?)
「いやぁ、実はですね、困ったことが起きまして?」
鏡夜は動揺する両目を隠すように帽子を目深に被り、軽快な調子で口を開いた。
「さて、どこから話したものか……というか、聞いてくれます?」
「………」
不語桃音は、鏡夜から目を一切逸らさず、微動だにせず座ったままだった。
どうやら、聞いてはくれるらしい。
「実はですね、私、なんで私がここにいるのかよくわかってないんですよ。気づいたら奥の方に行った洞窟で倒れておりまして」
鏡夜はオーバーなアクションで嘆く。不安に怯える姿を打ち消すように、大げさに。演技臭く。
あくまで舐められないようにする。それが前提だ。
「なので、不法侵入ってわけではないんですよ? ホント」
「………」
(おおう、訝し気な顔してんなぁ……まぁ、そりゃぁ、なぁ)
意味がわからない、というのが正直なところだ。鏡夜自身でさえそうなのだから、彼女にわかるわけもないだろう。
しかし、言葉を止めるわけにはいかない。困惑し、止まってしまえば弱さの露呈だ。 それは決して悪いことではないけれど、意地を張るという面では命取りではある。
「いえいえ、心配していただかなくても大丈夫です。いろいろあるとはいえ、五体満足ではありますし……なんとかなるでしょう。結果的にとはいえ、侵入した形となってしまい申し訳ありません」
鏡夜はもうほとんど口から出まかせ、表面上の繋がりだけで言葉を紡ぐ。まだいける。自分の言ってることはギリギリ把握できている。
「ところで……ついでと言ってはなんですが、このあたりのことがわかるアテ、あったりしません? いや、お手間だとは思うんですけど。流石に、このままだと五里霧中極まりないっていうか~。ほとほと困っちゃう感じでして」
桃音は数秒ほど何かを考えるように視線を彷徨わせる。彼女はテーブルの上に置いてあったラップトップPCに目を止めると電源を入れて、キーボードを操作し始めた。
(なんだ……? コミュニケーション不能なのにパソコン操作はできんのか。わけわかんねぇな……。入力した文章を見せればいいだけなんじゃねぇか?)
そして、カタッ……と最後のキーを入れると、桃音はラップトップPCを回転させた。
画面とキーボードが鏡夜の方へ向く。
「えーと、何々……? ……観光サイト? 『日月の契国 塔京 貝那区に存在する絢爛の森は契暦999年8月12日現在』『不語桃音さんという人間の女性によって管理されています』『不語さんは〈疲れない/喋れない〉という呪いを保持しており』『契国最強の個人と目されています』『絢爛の森には自然や神代の痕跡を保護するため、許可を得た冒険者や研究者のみが立ち入り可能となっています』『間違えて侵入しないよう注意してください。不語さんから攻撃される恐れがあります。 ※危険度:大』」
「………」
桃音は鏡夜が読み上げているのを見つめながら、ようやっと自分の紅茶を飲んでいる。どことなく得意げに見えるのは、困っていた鏡夜を助けられたからだろうか。
対して、当のそれを見せられた鏡夜は、ため息を吐きたい気分でいっぱいだった。
桃音から身体ごと視線を横に向けて、口を開く。
「東京は知っていますが、塔京? ……日月の契国というのは寡聞にして聞いたことがないですね~。あと、契暦? 西暦ではなく? 貝那区ってなんでしょう? ……絢爛の森とはまた大層な……」
嗚呼、とごちて。
「なるほど、異世界ですか……いえ、なんとなくそうだとは思ってたんですけどね」
夢のように荒唐無稽すぎるだけならまだしも、完全に記憶の日本からズレた固有名詞が出てきた時点で鏡夜は疲れ交じりにすっかり納得してしまった。桃音はそんな鏡夜をうかがうように覗き込んで来た。
「………」
「ああ、いえ、不語さん。教えていただきありがとうございます」
鏡夜はラップトップPCの画面を手のひらで指し示しつつ言った。
「しかし……そうですか……別世界ですか……」
愚痴るように確認してから、鏡夜は気づく。
(いかんな、意地を張る余裕がなくなってきてる。ここで折れるのはまずい。何も解決してねぇんだから。しかしマジでどうするか……とりあえず現状の把握を済ませてから、か? 正直な話、全部放り投げて目の前の不語さんに助けてー、なんて言っちまいたいが、流石にそれは、なぁ……)
今でも鏡夜は警戒を解いていない。騙している可能性、不意打ちをかましてくる可能性はまだある。安心しているフリをしているだけに過ぎないのだ。
鏡夜が鏡夜なりにシビアな黙考をしているとカツカツとテーブルを指でたたく音がした。
「ん?」
鏡夜は注意をその音に向ける。桃音は不服そうにテーブルを人差し指で叩いていた。
「……んー。何かにいらついているのはわかるんですがー……ちょっとわかんないですかねぇ」
鏡夜はわざとらしく首を傾げて視線を不語にまっすぐ向けた。
「………」←弱点:【喋れない】【格好良いもの】
「んん……?」
なぜか、弱点が見えた。鏡夜は一度視線を下に向けてから再び桃音へと向けた。
「………」←弱点:【喋れない】【格好良いもの】という文が浮かんで見える。見間違いではないようだ。
なぜ今まで気づかなかったのか……。本当に、身体に何をされたのだ己は、と鏡夜は自嘲する。
けれど、ひらめくものがあった。もし、これが本当なのならば。これが真実であるのならば。
……意地を張り続けた甲斐があったかもしれない。
「桃音さん」
鏡夜は、柔和な表情で不語桃音の、下の名前を呼んだ。そもそも最初から妙だったのだ。
先ほどの観光サイトの情報が正しかったのならば鏡夜は、彼女の知らぬ、打ち倒すべき侵入者の外敵だったはずだ。 冒険者を偽る賊であったはずなのに、最初は手荒かったとはいえ今は丁重に扱われている。
そもそも、あの背負い投げも、あの冒険者たちから鏡夜を隠し、庇うためだったのではないか……?
で、あるのなら。それはつまり。
桃音は鏡夜を見返した。
……突然下の名前を呼んだから、桃音は驚いているように見える。しかし、それは不快な様子ではなくむしろ喜色を見て取れた。
「すこーしばかり協力していただけませんかね? いえいえ、貴女にも得がある話ですよ。なんとですねぇ。私を保護していただくと……私のような同居人が増えるんですよ! そりゃぁ、戸籍とかはありませんけど……きっとほら、楽しかったりしますよ? どうです?」
不語桃音は……顔を赤くした。
(いよっし! いよっし! この人、めっちゃチョロい!!! 桃音さん……この姿を格好良いって思ってやがる!! この姿と格好つけることこそがこの女の弱点! 安心だと決め切っていいなコレ! いやぁ、ついてるついてる。めっちゃラッキー。舐められてはいけないって金言を信じて格好つけててよかったぜ! この脱げねぇ服も今だけは感謝してやる……)
「わー。ありがとうございます。ものすごーく助かります」
鏡夜はニコニコとした笑顔を浮かべた。
反面、内心ではホッとしていた。本当に綱渡りだった。偶然に偶然を重ねた奇縁の糸を渡り切った今に、笑う。未だに無知の闇の中で沈み、目標すら定められない身の上だが。今だけは、自分は恵まれていると笑えた。