桜の花には敵わない
2018/4/4 の私の活動報告で実施した「第八回 かっぽうミニ企画」のお題「タイトルに『桜』、本文に『食洗機』の入る詩または小説」に、お題を出した私自身が挑戦したものです。
食洗機は桜を恨んだ。
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俺は年中、人間のために働いている。体内を泡だらけにして、水をまわして……、にもかかわらず、人間の心はいっこうに俺へ向こうとはしないのだ。
俺はシンクへ備えつけられて、四年ほど、ここで働いている。ここの人間が特別ずぼらであるのか、はたまた人間とは元来そういったものなのかわからぬが、俺が仕事をしているいないにかかわらず、俺の体内は四六時中、食器で埋めつくされている。貝殻の形をした器、色とりどりの箸置、色のはげた茶碗と箸、桜の花の絵のついた土産物の湯呑み……、桜という言葉を思い起こした俺は、余計に気分が悪くなった。
四月。
この日はキッチンの窓が開いていた。この家の人間は、花粉症がひどいと言いながらいっこうに注意をしようとせぬ。窓を閉めなくば花粉が舞い込むという自然の理法を知らぬはずもないが、ともかくこの日は、キッチンの窓が開いていたのだ。
穏やかな風に乗り、一枚の白い花弁が、俺の目の前へ舞い込んできた。
窓の外に桜のあることは知っていたが、じっさいに間近で花弁を見るのはこのときが初めてだった。うすく白い花弁は、ひらひらとシンクの水滴のうえへ降りたつと、水へ滲んでいった。……いつか、家の小僧がテレビでパラシュートなるものを見て感動していたのを覚えているが、このとき桜の花弁は、あたかもそのパラシュートが役目を終えて、ちいさくしぼんで身体を休めるように、ゆっくり水へ浸っていった。その様は、とてつもなく美しく、穏やかなものに思われた。
俺はしかし、すぐにこの桜の花弁を憎むようになった。いつのまにかキッチンへ入っていた家の人間が、俺と同じように桜に魅せられていることに気づいたからだ。母親は小僧の名を呼んだ。小僧はすぐさま駆けよると、母親の腕に抱かれ、シンクの花弁をのぞいた。
気づけばそれは一枚でなく、三、四の花弁がシンクの水滴をベッドに身体を休めていた。そうして親子の視線は、窓の外の、桜の樹へと向けられた。
「春だねえ」
「うん、春だねえ」
俺は年中、人間のために働いているというのに、人間は俺を見ようともしない。
ここの人間が特別薄情なのか、はたまた人間とは元来そういったものなのかわからぬが、ともかく俺は、桜の花には敵わないということだ。
人間ってね、実用的じゃないものに心惹かれるんですよ。
私もそうです、物語にしたって、ただ単に美しいものが好き。教訓とか寓意とか、そういうお話よりもね。
食洗機さんには悪いけど、ね。