中 人類の死、決戦の地
これが私の中に十全な形で残存している最古の記憶だ。それ以降の記憶は、力一杯絞ってようやく二、三滴得られる果汁のごとき残滓としてしか残っていない。
記憶ではなく今の状況から帰納的に推測できるのは、あの後私は《神》の言うとおりに生き返ったということだ。生き返るというよりは転生という言葉が適当かもしれない。
それから私は体内に煮えたぎる恨みを燃料に、必死で身体を鍛え《神》の居場所を探し出して挑みかかった。何度も何度も、殺されては転生した。たとえ骨の髄まで焼き尽くされても、切り刻まれ原型を留めぬほどバラバラになっても、次の瞬間に私は生まれたばかりの赤子となってどこか違う場所に再誕したのだった。
《神》は強かった。挑んでは殺され、挑んでは犯され、挑んでは愛する者を殺され、挑んでは愛する者を犯された。時には生殺しのまま残虐な拷問を受け、時には私の刃に斃れたふりをしてぬか喜びさせてから、起き上がりざまに首を撥ねられた。
《神》は挑む私を、まるでそうする義務があるかのように考え得る限りのあらゆる手を使って殺し続けた。最大の苦痛を与えようと、あの手この手を使って。
それでも私は転生した。紋章はまだ肩に残っていた。殺さねばならないという意志は潰えなかった。一度たりともその使命を忘れることはなかった。
私の中の時間は、あの日《神》とその一味によって村を滅ぼされてから一秒たりとも進んでいない。しかし歴史の針は着実にゆっくりと未来に向けて刻み続けた。
人類の歴史は、そのまま《神》との戦いと言い換えることができる。《神》を殺そうとしたのは私だけではない。《虐殺神》としてあらゆる地に《神》は現れ、手当たり次第攻め滅ぼした。対抗するために人類はあらゆる兵器を開発したが、《神》にはその一つとして効かなかった。《神》は不死身だったのだ。
そしてついに、人類は《神》に対抗する手段として悪魔の力を手に入れた。
この宇宙を構成する最小単位の物質から途方もないエネルギーを生み出す技術を発見し、それを《核兵器》と名付けた。
最も先に《核兵器》を造りだした国は、嬉々としてそれを《神》の頭上で爆発させた。巨大なキノコ雲が世界の終焉を告げる祝砲のように地から沸き上がり、それを肉眼で確認できるあらゆる地を焦土に化した。その瞬間にすべての命は雲散霧消し、ただ《神》だけが虚ろな目をして立っていた。
その場に居合わせた私は消滅の瞬間に目にした《神》のその普通でない表情が、やたらと脳裏にこびり付いたのだった。
《神》を殺せず、ただ人民と資源を大量に失っただけの被爆国は投下国を恨んだ。挙国一致の勢いで《核兵器》を急造し、冷静さを失ったまま報復の火を放った。
たちまち《核兵器》は全世界に広がり、《最終戦争》の火蓋は切られた。
戦争は技術革新をもたらし、《核兵器》は更なる火力をもってありとあらゆる地を死の灰で埋め尽くした。
もはや私も神に立ち向かうところではなかった。
《核》で蒸発した私の身体は少し離れた場所で復活し、再び《核》の炎で燃やし尽くされた。それから、転生しては残存する放射能で被爆し苦しみの末に死亡し、また転生しては被爆して死ぬ――それを延々と繰り返した。地獄の苦しみだった。
まるで死ぬために生まれるかのよう。私の命は数時間も持たぬまま死と生を繰り返す無限の輪廻。どんな仕打ちを受けても消えなかった意志の炎もかき消えてしまうのは時間の問題だった。
しかし、終わりのない争いはない。人類を極限の狂気に追いやった《最終戦争》は滅亡という最悪の結果で終幕を迎える。
黄土色と化した世界。人類はそれまで紡いできた歴史の針を原始まで巻き戻した。原始といっても、生命の息吹に満ちたそれではなく、草木一本も生えることない不毛の地と化した暗黒世界である。
人類が消えてからもしぶとく残り続けた放射能が自然除染されて、ようやく私は本当の意味で生き返った。無限の輪廻から解き放たれたのだ。
そして今に至る――。
生き残ったのは《神》と私のみ。
人類の歴史が終わった今、いよいよ私達二人の戦いもこれで終わるのではないか。私にはそんな強い予感があった。
十五年。長くて短い、完全に静止した光景を時間は絶え間なく進んでいった。
十五歳。まだ肉体的成熟は半ばだ。しかし《神》の前では誤差にすぎない。私は忍耐の限界を迎えていた。
何かの残骸から鉄の棒を拾い上げた。黒焦げ錆び付いたそれは、武器としてはあまりに頼りないがないよりはあった方がましだろう。同じ意味で布きれで全身を覆う。最後の決戦の場に、真っ裸というのは情けなさ過ぎる。
《神》の居場所はなぜか本能的に探知することができた。もしかしたら紋章の持つもう一つの機能なのかもしれない。
凹凸を永遠に失い、やたらと見渡しの良い風景。
長い長い、しかし終わりが見えている旅の末に見つけた《神》は何もない地面に胡座をついて座るその後ろ姿だった。相変わらずの巨大な体躯に隆々とした筋肉。
しかし、その姿はなぜか私にはとても小さく頼りない姿に見えた。
私は歯を食いしばる。怒りがふつふつと湧いてきた。
最後の決戦という時に、どうして!
私が近づくと、まだ音が届かないはずの距離のところで《神》は振り返った。
「おお、まだ君が残っていたか。すっかり忘れていた」
「立て」
「おいおいつれないじゃないか。今や君と俺はこの世界に二人っきり」
「立て! 殺すぞ」
声が震えた。くそ。
《神》がゆらりと立ち上がった。こちらを振り返り、例の笑みを浮かべた。
「せっかく真面目な雰囲気にしてやろうと思ったんだがな。ま、仕方ない。早く俺に相手して欲しいんだろ?」
「そうね。最後の相手をしてもらおうかしら。貴方の血と命をもって」
鉄の棒を振りかざす。勝てる見込みはまったくない。が、挑まなくては話にならない。
たとえ五劫に一の可能性しかなかったとしても、無限回の試行をもってすればいつかは《神》を殺すことが出来る。私はそれだけを信じ、今まで生きて死んできた。
「最後、か」《神》はぽつんと吐き出すように言った。「いったい俺は何度君をこの手で汚してきたんだろうな」
「この身体は純潔よ。傷一つ受けていないわ」
「『まだ』、な」
その時だった。
私は思わず身構えた。《神》の全身から黒き殺意が迸った。
が、すぐそれは止んだ。
「冗談だ」
「ふざけるな」
目の前が赤くなった。
「昔から君のその真剣な反応が面白くてね。ついからかってしまう」
戯けた様子を見て、ふつふつと怒りが湧いてきた。その「つい」で私は何度苦患を受けてきたことか。
もう何も言うべきことはなかった。
殺す。
私は駆けた。おそらくは過去を生きた人類の中で最も速く。身体能力の問題ではない。何千年も生きてきた中で、体得的に脳のリミッターの外し方を知っていたのだ。身体が悲鳴を上げようと、もはやそんなことは関係ない。
もはや普通の人間ではなくなってしまったのだ。
しかし《神》は私の刃をいとも簡単に受け止めた。片腕一本で、化け物となった私の身体はどういうわけか微動だにすることができなくなった。
「ぐ、離せ!」
「そう慌てるな。最後、と君自ら言ったではないか。ただの一騎打ちではつまらないだろう。話をしようじゃないか。俺も君も、随分年を取った。長話ぐらいしてもバチは当たらないはずだ」
私に選択肢はない。生殺与奪はおろか、指一本動かす権利も今や《神》の腕一本に左右されている状況では。
「……俺はな、ルルよ」
私の脳がずきりと痛んだ。始まりの名前。繰り返される転生の中で、すっかり捨ててきたはずの名前を《神》は当然のごとく口にした。
「いつかはこの時が来るのを覚悟していた。万物の霊長たる人類も数多ある他の種族と同様に滅び、《神》である俺のみが一人残される時が。途中から君も加わったことで少し予想はズレたが、一人も二人も変わらない」
「貴様が人類をそうさせたんだろう!」
《神》は首を振った。
「同じ事だ。俺が《虐殺神》となろうと《傍観神》となろうと、結末は変わらないんだ。君たちはそうと信じたくないだろうが、どんな種でもその命が有限である限り滅亡は必然だ。ましてや、同族殺しの性癖を持つ人類においていわんや、だ」
私は長い間を不本意ながらも共に生きてきて、これほど真面目に話す《神》を見たのは初めてだった。くそ、これでは殺しても。
「じゃあ、私はどうすれば良いというのよ」
言葉が濁った。くそ。とうに殺したはずの感情が零れてくる。
「滅亡が必然だって?この時が来るのを覚悟していたって?訳が分からない。殺しに来いよ。私のパパを、ママを殺した時のように、かかってこい!」
しかし、《神》は首を小刻みに振った。
「今はそんな気分じゃないんだ」
「そんなの勝手すぎる! あれだけ好き放題に私を殺し、犯し、恨みを買ってきたというのに、いざ復讐しようとするとしんみりして『随分年を取った』? くそ、なんだよそれ。一体私は何の為に……」
私は膝から崩れ落ちた。どうして。もはや私の前にいるこいつは、《虐殺神》なんかじゃない。昔の蛮行を悔やみながらも懐かしむ、すべてを知ったような気の老人になってしまった。
これでは奴を殺す意味が無い。情けない。タイムアップだ。意志が……私が生きてきた意志が消えてしまう……。
死。それも、消滅を伴う本質的な死。ついに私の眼前にそれが迫ってきたのを感じた。
だとすればせめて私自身の手で……。
「待て」
ジャキン、という低い金属音。首筋に当てようとした刃がどこか彼方へ飛んでいく。
「な、ど、どうして!」
こいつは自分で死ぬことさえ許さないつもりか!
「早まるんじゃない。これから俺をしようとしているのは償いだ」
「償い?」
どういう意味だ。この期に及んでまた私を何らかの策略に掛けようとでもいうのか。少なくとも、奴の言葉は決して額面通りに受け止めてはならない。真剣そうな表情も演技かもしれない。
「そうだ。せめてもの、な。俺は君がやってくるまで一人で考えていた。このままでは俺はずっと暇だ。ふたたび猿から人類に進化するのに賭けるか? あるいは……そう、俺と君とで子を為すかだな。二人で第二のアダムとイブになるわけだ」
「馬鹿な!」
私が怒鳴ると《神》は目線を下げ、両手の平をヒラヒラと顔の横で振った。
「冗談だ。どうせこの地はもう不毛だ。人類がまた栄える環境じゃない。俺が思いついたのはもっと根本的な解決策さ。そしてその策は、俺だけでなく君をも救うことになる」
《神》が何を言っているのか解らなかった。今の私を救う? どうやって。《神》が死のうと私が死のうと、それはもう救いじゃない。苦しみの輪廻からの解放……と言えばそうなのかもしれないが、絶望が晴れるわけではないのだ。
いったい何を考えているというのか。
「しかし、だ」《神》は大儀そうに立ち上がり、私の方へと向かって来た。「その為にはひとつ前準備が必要となる」
「な、何をする気だ」
私は無駄だと知りながらせめてもの抵抗に刃を構えた。膝が震える。
《神》は笑みを浮かべた。フラッシュバック。この顔は――。
「また、俺への憎しみを植え付けるのさ」
手が私の身体に伸びてきた。抵抗する力はない。
私は目を閉じ、すべての神経をシャットアウトした。
行為の最中、私は無意識の内に泣いていた。
どうして。なぜ私はまたこの男に身体を蹂躙されねばならないのか――。奴の欲望は常軌を逸していた。滅亡した世界で、たった一人のちっぽけな女を犯し傷つけ殺すことに情熱を燃やす余裕があるのだ。狂っている。
ダメだ。目を瞑っていては。このままでは私はこの狂人に何も出来ないまま死ぬだけだ。
誓ったじゃないか! 私は《神》を殺すと。そして、パパとママの敵を取ると!
私は《神》を睨み付けてやろうと目を開いた。
視界に浮かんだ奴の顔は――。
泣いていた。すぐに私と目が合った。そして、ふたたび笑み。
「それでいい」
奴の手が私の首筋に飛んだ。
すぐに視界が赤く染まる。
――私は、また殺された。