5話 緋に佇む白の戦姫 Ⅱ
とても怖かった。ただの暗闇が広がるだけのこの空間が。
自分が生きているのか、それとも死んでしまったのかさえ分からなくなる、そんな状態まで狂ってしまえればいっそ楽だったのだろうけど、現実は甘くない。臭い、痛覚で、音で、生きることが分かってしまった。狂えなかった。だから、狂えないこの暗闇がとても怖かった。
その空間は、ガタガタと不快な揺れが気持ち悪くて、鉄と鉄が擦れる音が絶え間無く響いていて、とても錆び臭くて、手足が硬いもので繋がれていてそこがとても痛くて、誰かがシクシクシクシクと泣いていて、誰かがケタケタケタケタと嗤っていて、誰かがブルブルブルブルと震えていて、誰かがカチカチカチカチと歯を鳴らしていて、誰かが唸っていて、誰かが叫んでいて、誰かが、誰かが、誰かが、誰かが、誰かが、誰かが、誰かが、ダレカガダレカガダレカガダレカガダレカガダレカ。
それをしているのは全て自分であることをこの時のヴェイグ・ローニ・アールヴルは気づかなかった。彼は狂ってしまいたいと願いながら、しかし狂っていないと思ってた、が、もうこと時には狂ってしまっていたのだ。
狂人を乗せた馬車はゆっくりと奴隷市場へ向かって進んでいく。ゆっくり、ゆっくりと。
そして、狂人もまた、ゆっくり、ゆっくりと狂人となっていった。
彼はこの馬車から抜け出し、御者の首を自分の腕を拘束していた鎖で絞め殺してから原始の森へと向かった。
それが、今から10年前の話である。
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ゆらり、ゆらりと揺れている。
それに準ずるように鎖の擦れ合う音が鳴っている。
誰かが喋っている。瞼が重くて目が開けられない。意識がまだ覚醒仕切っていないせいだろうか。体がだるくて動けない。
誰かが喋りかけている。このまま二度寝をしてしまおうか。ここしばらくちゃんと寝れていなかったような気がする。
誰かが喋りかけている。きっと疲れが溜まっていたのだろう。まぁ、たまには二度寝も良いではないーー
「おーい。そろそろ起きないと首チョンパするっスよー」
「ーーぅあ?」
「だーかーらー、さっさと起きないと首チョンパするって言ってんスよ」
ーー、あ。そんな呑気なこと言ってる場合では無かった。
「どうしたんスか?鳩が豆鉄砲食らったような顔して」
霧がかっていた思考が明瞭になるにつれ、ヴェイグは、捕まる直前までの記憶を掘り返した。
そう、あの時、あの村で白い髪の女を見て、それから急に視界を塞がれたんだ。ここはどこだ?
ヴェイグは辺りを瞬時に見回した。
手足は枷を付けられ壁に鎖で固定されていた。今喋りかけていた(今も何か喋りかけてきている)のは髪が赤色でショートカットのやけにうるさい俺と同じ18歳ぐらいの女だった。奥にももう1人、薄い青色の髪が背中まである小柄な(これまた)女だった。
俺は檻の中、手足は使えず、相手は檻の外、敵のアジトの可能性あり、だったら…
「おーーい、人の話を無視するなぁ。失礼っスよー」
「ん?あぁ、すまんすまん。ーー風の刃ーー」
その呪文を唱えた途端、無数の風で出来た不可視の刃が2人の女を襲った。
殺った!呪文を唱えてから発動までのタイムラグはほぼ無く、強襲ということも相まってヴェイグはそう思ったが、しかし、実際には青髪の女のたった一言によって意味を変えた。
「ーーー霧散せよーーー」
このたった一言が刃をただの風に文字通り霧散させてしまった。
そのため、女2人の髪をなびかるだけになってしまった。ヴェイグは唖然として声も出せなかった。
「もぉ、ビックリするじゃないっスかぁ!急に襲うなんてー!ひどいっスよ!せっかく起こしてあげて、話し相手にもなってあげようとしたのにぃ。あ!まさか、私の体が目当てなのね!そうなのね!私致命傷を負わせて、動けないように拘束して弄ぶ気だったのね!そんないやらしい目で見て色々想像してたのね!変態!もぅこうなった痛い!痛い!痛いヴィズ痛い!」
突然割って入った青髪の少女は女の耳を思いっきり引っ張っていた。
「…ナール、少し、黙る…」
「分かった!分かったから!耳!耳痛い!引っ張らないで!千切れるぅぅ!」
ヴィズと呼ばれた少女がうるさい女の耳から手を離すとナールと呼ばれたその女は部屋の隅の方で拗ねだした。
「…一体何なんだアンタらは。今更俺達を、エルフを虐殺した理由は!俺を捕まえた理由はなんだっ!」
「…」
「おい!聞いてーー」
「ーーー少し黙るーーー」
今度はその一言で言葉が発せなくなってしまった。ヴェイグは動揺を隠し切れずにいた。魔法が無効化され、呪文でもない、たかが人間の言葉に半強制的な効力があることに。
「…お前、立場、弁える。お前、狩られる側。ボク達、狩る側。…その、空っぽな頭に、叩き込め、下種」
「っ!」
ヴェイグは、怒りで頭が埋め尽くされた。エルフを下種と呼んだこと。偉ぶっていること。そして何より、この状況では反論の余地が無い自分に対して憤りを感じていた。
すると、今度はさっきまで拗ねていた女が割り込んできた。
「それまでにしとくっスよヴィズ。それ以上やると、あの『姫人形』に殺されるっスから」
すると、少女はこちらを睨めつけながら渋々といった感じで、
「ーーーもういいーーー」
と言った。そうすると、声が発せれるようになっていた。
ヴェイグにはもう理由が分からなかった。だから、一番聞きたいことを聞くことにした。
「なぁ、俺の仲間は、原始の森にいたエルフは無事なのか?」
すると、ナールは微笑みながら、
「原始の森に生存している全エルフは全て私達、帝国改革軍の監視下に置かれているっス。こちらから何かするつもりはありません。アンタらがなにかすれば別の話っスけどね?例えば、あの村みたいに、ね」
と、ケロッとした感じで言ってのけた。
ヴェイグは今すぐ目の前の女のことを殺したい気持ちを抑えて、質問を続けた。
「なにが、目的なんだ」
それは突然だった。
「んー。偉っそう」
冷えきった声で、無感情な声でそう言い放つと、ナールは右脚でヴェイグの腹を蹴り飛ばした。確実に女の蹴りの領域を超えていたそれの威力は計り知れず、ヴェイグはただ呻き声をあげた。手が鎖で固定されているので腹を抑えることもできず、ただ呻き喘ぐことしか出来なかった。
立て続けに顔や腹、腕などを蹴られ続け、動くこともできず、呼吸をすることも困難になり、次第に意識に暗幕がかかり始める。
すると、ナールはため息を零しながら、
「また、来るっス。次までにその軽薄な態度を改めておいてくれると手間が省けるので、お願いしますよー」
そう言い残し、ナールはヴィズと共に部屋から出ていった。
ヴェイグに出来たことはただ、その暗幕が降りるのを待つことだけであった。
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カツカツと、2人の足音が誰もいない廊下に響いていた。
「…どうして…蹴ったの?」
隣を歩く可愛い親友が尋ねてきた。
私はいつものように仮面を被って、にこやかに答える。
「もちろん、ムカついたからッスよ。あぁ、スッキリした、スッキリしたぁ」
「…嘘。ナールは、人を蹴って、気分が晴れるような人、じゃない。わかる…そのくらい」
この子は本当に可愛いし、人の踏み込んで欲しくないところに入ってくる嫌な子だ。だから、そんなことをさせている、仮面を被らなきゃいけない自分がもっと嫌になる。本当に。本当に。
「ーーそおッスねぇ。嘘はやっぱバレるッスねぇ」
「…理由、なに?」
「理由、ね…。彼にはこれから我々の役に立ってもらわなくてはならないっス。そのための激励みたいなものっスよ」
そして、自然と声は低いて冷たいものに変わって、
「我々の、私達の目的。今の腐った帝国を壊すために。そして、あの悍ましい者共を、最悪の災厄『ドラウプニル』をこの世から消滅させるために」
と、言葉にした時に固く握りしめられた拳から、血が流れていることをヴィズだけが気づいていた。