3話 殻と自我とスクランブルエッグ
ーーいつか人は自分の世界という殻から嫌でも飛び出さなければならないーー
では、『いつか』とはいつだろうか?嫌でも自分の殻を割らなければならない、そんな『いつか』などいつくるのであろうか?
人によってそれは違うであろう。もっと先のことかもしれないし、もう目前まで迫っているかもしれない、もしくはーー
ーーコンコンピキッ、パカーー
今日は水曜日、3・4時間目、家庭科の時間。この時間は主に調理実習で今回はオムレツを作るという課題が出された。
当然、「実は俺のステータス、料理にポイント全振りしてんだわ(笑)」とか、そんなんはなくてただただ普通の腕前である俺は、黙々と目の前の卵を割っていく。
1つ、また1つと割っていく内にふと思うのだ。
この卵がもし、自分だったら、と。
人は、自我が芽生えると自分の世界という1つの殻を確立する。
区別するならそれは、子供であろう。子供はまだ、外の世界を知らず、物事を自分の尺度で図り、思考し、想像し、判断し、決定する。
だから、子供の意見というのは、世界で一番純粋な解答ではないだろうか。
世界に毒されず、人に毒されず、ただ自分の思うがままの気持ちを伝えることが出来る。それはある意味、自分の殻を持つことで生まれる一種の正義に当たるのではないだろうか。
しかし、この殻はすぐに外の世界の人々によりヒビを入れられることになる。
小学生の高学年になる頃だろうか。まだ、低学年だとチラホラとしか見えないが、高学年にもなると、子供は『空気を読む』ということを覚える。
今はこれはダメだ、とか、そういうこと諸々を感じ取ることを覚えてしまう。
確かに、それは世間一般からしてみれば、当たり前である。常識である。普通であり、出来なければならないことであろう。
が、しかしそれは、確かに殻にヒビを入れられ、その隙間から一般論とかいうエゴに毒された結果でもある。
中学生になると様々な毒に侵される。
『相手に合わせる』『メリハリをつける』『時間通りに動く』etc…。
もう、殻はヒビだらけで、隙間だらけで。
中身はゴチャゴチャ、黄身も白身もグチャグチャである。
そして、高校生になっても、外からの攻撃は止むことなく、一般論、常識、普通、世間一般、定石、当たり前等など、銃弾の雨は止むことを知らず、容赦なく殻をたたき割りに来る。
もう、殻はヒビだらけで、穴だらけで、風通しが良すぎて、風邪ひきそうで。
しかし、殻はまだ残っている。
例え、どれだけヒビが入ろうと、どれだけ風通しが良くなろうとも、この殻は自らが、内側から割らない限り決して消えることは無い。
そして、人はそれを行わなければならない時が来る。
人は、社会というミキサーの中に飛び出すためには自らが割り出て行かなければならないのだ。
自ら飛び出た人達は、ミキサーの中でかき混ぜられる。
グチャグチャに、一緒になるように、様々な調味料を加えられて同じ味に統一されて。
そして、社会に焼かれて、グチャグチャのスクランブルエッグの完成である。
この世界の普通とやらは確固とした自我を示すのではなく、正義を振るうエゴイストになることでもなく、統一化された卵が、ルールを守り、空気を読み、雰囲気を感じ取り自我を殺すことを指すらしい。
それが出来ない者は、切り捨てられ、異端と蔑まれ、異常者と罵られ、人間失格と貶められる。
黄身も白身もゴチャゴチャになったスクランブルエッグは、それこそ自我と自我がゴチャゴチャになって、1つになった社会そのものみたいではないだろうか。
今回の課題はオムレツだったはずだ。
しかし、どうしてだろう。『無駄ごと』してたからだろうか。
目の前にあるのは、どこからどう見てもスクランブルエッグであった。
約1ヶ月強ぶりに更新しました!
また、時間がある時に更新したいと思うので、時間が開くかも知れませんが気長にお待ちいただければと、思います。
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『普通』とか『当たり前』って本当に大っ嫌いです