それまで
私は、何を気にしなければならないのだろう。
突然の来訪者が帰ってもう一時間は過ぎたはずなのに、早苗はただ自分の部屋で、焦点の合わない視線をどこかに向けては、はあ、と溜息を零していた。
母が何かしたのだろうか、父が何かしたのだろうか。いや、悪い事とは限らないはずだ。警察の人が来るのは悪い事をしたから、そんな決まりはないはずだ。
――そう、何度も何度も言い聞かせるのに、胸騒ぎが止まってくれない。
早苗は、自分は割と恵まれた環境で育った、と考えている。かといってそれをひけらかす様な事もなければ、もっと欲しいと欲張るようなことも無い。
小さな頃は割とワガママだったが、父は一人娘の早苗を特に溺愛し、早苗のワガママを聞いてしまう父に、母が呆れるシーンも多かった。
でも両親はとても仲睦まじく、私が将来誰かと結ばれたらあんな風になりたいと思うことも多かった。両親が喧嘩しているのも見たことは無いし、早苗自身も両親と、喧嘩と言える様なことはしたことがなかった。
所謂反抗期も静かに過ぎ去ったし、両親にとっても自慢できる娘であれたらと考える事は多い。無論、両親の誇りになる前に、自分をより良くしたいわけで。
ただ、静かだった。騒がしいのは早苗の胸の中だけである。ただ警察が家に来ただけ、両親に用事があってきただけ、両親の事を知っているから、私の事も知っていただけ。
そうだ、それだけだ。それだけなんだってば。
「――――ああ!」
音。振動。飛び起きた早苗はその主に気付き胸を撫で下ろす。
着信音を鳴らすスマホを手に取り、その画面を見て、また、ざわめきが襲ってきた。
「…お母さん。」
出ようか。
出なきゃ。
何故か重たい指と、何故か震える指先はもう何コールかの後に、通話ボタンをタッチした。
「――もしもし?」
「あ、早苗? あなた外に居るの? 家の電話にかけたけど、出なかったから。」
…気付かなかった。そんな何でもない言葉すら、一度出しかけて飲み込んだ。電話の向こうから聞こえる、母の仕事場の音が妙に、耳を、痛くする。抑えきれないざわめき故か、我が家の静寂故か。
「ごめん、自分の部屋に居たから…」
「そう? それならいいんだけど。今日は何か予定、あるの?」
普段の他愛ない会話なのに、どうしてこうも心苦しくなるのか。
私は、何かを後ろめたいと思ってしまっているのか。
――言って、しまおうか。それで私の胸は楽になる―――はず。
「――…あ」
――何と、言えば、いい。何と言えば、楽になる。十八年もの間安穏としてきた少女に答えが出せるはずもない。ほんの一瞬、そう、ほんの一瞬だったはず。その一瞬の葛藤は、母には長かったようで。
「――…なえ、早苗? どうしたの、早苗。」
「―――あ、…ごめん。裕子と、買い物に行こうかって話してる。」
「あら、そうなの。遅くならないようにするのよ。今日はお父さん、少し早く帰るらしいからね。」
……きっと、初めての隠し事。
家を出れば何か変わるだろうか。せめてこの気持ちが、晴れてくれるのだろうか。
通話が終わった後、まだ震えの止まらない指先は辛うじて間違える事無く、一番仲の良い友人、裕子への通話ボタンをタップする事が出来た。