交誼の酒32
エルストがアルヴェスクからギルヴェルスの王都パルデースに戻ってきたのは、二月の頭のことだった。最も寒い時期で、ギルヴェルスの大地は一面真っ白な雪に覆われていたが、彼は犬橇を使って帰ってきたのだった。
やがて冬が終わり春の訪れを見ると、エルストはそれを待っていたかのように忙しく各地を飛び回り始めた。内乱の傷と遠征の失敗が重なり、今のギルヴェルスの状況はよくない。今は内政に力を入れるべきときであると考え、彼は精力的に動き回った。
しかしながらそうして動き回るということは、ギルヴェルスの政治中枢であるパルデースの王城を留守にするということでもある。ある種の人々にとって、その状況は付け入るべき格好の隙であるように思えた。
それでどうなったのかと言うと、女王アンネローゼへの陳情が増えた。そしてその内容は、ほとんどが王配エルストロキアを批判するものだったのである。
彼を排除できるとは思わない。しかし遠征の失敗や現状の不備を指摘して責任を追及し、彼の持つ巨大な権限を制限する。そしてその隙間に自分たちが割り込むつもりなのだ。要するに権力闘争、それも小ざかしい類のやつだ。ギルヴェルスの権力構造がまだ定まりきっていなかったことも関係しているのかもしれない。
アンネローゼは彼らの言葉を注意深く聞いた。だがその場で返事をすることは避けた。そしてエルストが王城に戻ってきたある日、彼女は主だった臣下を謁見の間に集めた。そしてエルストの視察の報告が終わると、おもむろに口を開き幾人かの名前を呼び彼らを前に招いた。
「……あなた方はエルスト様になにか意見があるそうですね。発言を許可します。この場で述べなさい」
目の前で片膝を付く者たちに、アンネローゼは非情とも思える声でそう言った。言うまでもなく彼らは皆、彼女のところへエルストのことで批判的な陳情に来た者たちばかりである。突然の展開に、彼らは目に見えて動揺した。
「ほう。それは興味深い。是非、お聞かせ願いたいものですな」
そう言ってエルストが一歩前に進み出る。この時の彼の様子について、あるギルヴェルスの貴族はこう書き残している。
『その笑みは獰猛かつ酷薄で、その声は獲物を前にした野獣の唸り声のようだった』
この、極めて威圧的な態度のエルストを前にして、前に呼び出された者たちは一様に萎縮した。
「い、いえ……。そのようなことは……」
「私達は、何も……」
しどろもどろになりながら、弁解ともいえない言葉しか口にできない彼らを、エルストが冷たく見据える。その目にあるのは侮蔑で、感じているのは失望だった。
「しからば、恐れながら……」
そんな中、一人の男がはっきりとした口調でそう言った。彼の名はフラニッター子爵。彼は見下ろすエルストの視線を真正面から迎え撃ち、かつてアンネローゼに語ったのとほぼ同じことをこの場で述べた。当然、その内容にはエルストへの批判が含まれている。この時の心情について、彼はこの日の日記の中に「粛清を覚悟した」と書き残している。
エルストはフラニッター子爵の発言を遮ることなく最後まで聞いた。それどころか、遮ろうとする者を彼自身が制した。そして子爵の発言が終わると、一つ頷いてからこう返した。
「フラニッター子爵の言、全てとはいえぬが、確かに聞く価値のあるものと思う。しかしながら……」
エルストはフラニッター子爵の述べた事柄について、その問題点をいくつか指摘する。それに対し、子爵もまたすぐに応じた。そうして二人は、しばらくの間その場で論を戦わせた。そして最終的に、エルストは子爵の主張のいくつかを取り入れることを約束したのである。
それだけでもフラニッター子爵には驚きだったが、しかしこれだけでは終わらなかった。エルストはこの先、彼に幾つかの事業を任せることになる。さらにその後、爵位を伯爵に繰り上げ、彼を宰相の座に着けた。
宰相となってからも、フラニッター子爵はエルストに対して比較的批判的な態度をとり続けた。その理由について、後年彼はこのように語っている。
『それこそが、私に望まれた最大の役割だったのでしょう』
いずれにしても、しばらく先の話である。
さて、そうこうしているうちに春は終わり、初夏が訪れようとしていた。アルヴェスクの摂政ライシュハルトが訪問することになっている季節である。そのための準備は冬の間から進められており、彼は国賓として最大級の歓待を受けた。
その日の夜。豪勢な食事が並べられた晩餐会で、ライシュはワインをグラスの中で回して香りを楽しみながら、アンネローゼとエルストに対しまずはこう切り出した。
「……アルヴェスク皇国とギルヴェルス王国は、それぞれ長い歴史を持つ国です。その歴史の中で、両国が争ったことも確かにありました」
それはこの時代、国境線を接している国々の宿命だったと言える。流血の交渉は幾度となくもたれた。その結果は度重なる国境線の変更と何人かの英雄の誕生、悲劇の量産、そして国家関係をこじらせる敵対意識の蔓延だった。
「悲しい歴史です。ですか、先皇レイスフォール陛下の御世になられてからは、両国の関係は発展を続けています」
ライシュの言葉にアンネローゼはそう応じた。レイスフォールは対外遠征をほとんどせず、そのためギルヴェルスと剣を交えることもなかった。そして両国の外交情勢が安定してきた頃、アルクリーフ公爵家にギルヴェルス王家からアンネローゼが嫁入りする。この頃から両国の“蜜月”が始まった、と言っていい。そしてその蜜月はアンネローゼの女王即位によって最高潮に達し、同盟と言う形で結実する。現在の両国の関係は、歴史上稀に見る良好な状態だった。
「私も父親になり、子供たちの未来について考えるようになりました。アルヴェスクとギルヴェルスのさらなる安寧と発展のためにも、我々は同盟を強化し深化しなければならないと考えますが、いかがでしょう?」
「わたくしたちも同じ想いですわ。ねえ、エルスト様?」
「もちろんです。両国の安寧と発展。それこそが、私が今ここにいる理由なれば」
ギルヴェルスの王配として、エルストはそう答えた。とはいえ、まったくの白々しい嘘と言うわけでもない。彼とて、安寧の中で発展していくことは結構なことだと思っている。自分が支配者としてそれを主導できれば、なお言うことはない。
友人のその内心の考えに、ライシュは当然気付いている。しかしあえて気付かぬ振りをしつつ、この訪問の最大の要件について切り出す。
「それでは、我が子ジュミエルとアンジェリカ王女の婚約の件、前向きに考えていただけたでしょうか?」
その言葉を聞いて、アンネローゼとエルストは互いに目を見合わせた。この件について、彼らは無論事前に何度も話し合っている。そしてある夜、その件についてアンネローゼは少し不安げにしながら夫にこう尋ねた。
『……エルスト様は、どうされるおつもりなのですか?』
『そうだな……。アンネローゼはどうしたい?』
完全に私的な時間であるためか、妻のことを陛下とは呼ばずにエルストは逆にそう問い返す。問い返されたアンネローゼは驚いたような顔をしてから困ったような笑みを浮かべ、それからこう言った。
『わたくしは、難しい話はよく分かりません。ですが……』
そこで言い淀んだ妻を、エルストは優しく引き寄せる。彼の腕の中に抱かれて安心したのか、アンネローゼは言葉の続きを口にした。
『……子供たちが、悲しい想いをしなければいいと、そう思います』
『そう、か……』
アンネローゼの言葉には重みがあった。彼女は実際にギルヴェルスの内乱で両親と弟妹を亡くしている。その同じ悲しみを子供たちに味わわせたくないと思うのは、親として当然の感情だった。
『浅ましい願いでしょうか……?』
『そんなことはないさ。当然の願いだ』
むしろ「浅ましい」と言うべきは、その当然の願いを踏みにじらなければかなえることの出来ない、エルストの野心のようなものだろう。彼はそれを自覚していた。自覚してなお、躊躇うことはなかった。少なくとも、これまでは。
『……ん? ところで、子供たちと言ったか?』
『はい。まだ、はっきりとは分かりませんが……』
『そうか。めでたいな』
『今度こそ、男の子だといいのですが……』
『なに、女の子でも構わんさ』
エルストが鷹揚な口調でそういうと、アンネローゼは安心したように微笑んだ。
『それに、仮に男の子が生まれたとしても、ギルヴェルスの次の女王はアンジェリカだ。どの道、婿を迎えねばならん』
『次の王配、ですね』
『ああ、正しく私の後継者さ。……ライの息子なら、確かに不足はないがな』
前半は苦笑気味に、後半は呟くようにして、エルストはそう言った。
『……なんにせよ、今アルヴェスクとの関係をこじらせるわけにはいかん。選択肢など、有って無いようなものだな』
『では、お受けになりますか?』
『それしかあるまい』
投げやりな口調で、しかしどこか楽しげに、エルストはそう結論した。それを聞いてアンネローゼも嬉しげに「はい」と頷く。
不思議な女性だ、とエルストは思う。アンネローゼのことである。完全な政略結婚であり、式を挙げるその日まで二人とも話をするどころか顔を合わせることさえなかった。当然、恋愛感情など皆無である。
あの頃はただ、アルクリーフ公爵家のためになる、そして自分の野心の足がかりになる女であればいいと思っていた。そしてその点、アンネローゼは十分以上の女だった。それだけで良い、とエルストは思っていたはずだった。
だが彼女は、いつだってエルストのすぐ近くに立っていた。そして彼の心の中を吹き抜けていくのだ。強引に入り込むのではなく、隙間から忍び込むのでもない。まるで開け放った窓から薫香を含んだ柔らかな風が吹き込むように、アンネローゼはエルストの傍に立っているのだ。
不思議な女性だ、とエルストはもう一度思った。掴みどころのない、まるで柔らかな風のようなその気質が、しかし彼には心地よい。
『……婚約者同士が顔を合わせる機会を何度か設けるべきかな?』
『まあ、素敵ですわ。エルスト様』
目を輝かせながら、アンネローゼはそう言った。そんな彼女の様子を見て、「ならそうしようか」とエルストは思った。
「……ライシュハルト殿下のご子息を頂けるのであれば、これほどの良縁はありませぬ。是非、お願いいたしまする」
あの夜のことを思い出しながら、エルストはそう答えた。それを聞いて、ライシュは満面の笑みを浮かべる。
「おお! それを聞けて、安心いたしました。これで両国の関係はより親密なものとなりましょうぞ。さぁ、乾杯いたしましょう。……両国の安寧と繁栄に!」
「「「両国の安寧と繁栄に!」」」
ライシュの音頭に、多くの声が和した。続けて、グラスをぶつけ合う音が鳴り響く。晩餐会の雰囲気は、たちまち祝賀一色となった。
(さてさて、これで“七方塞”と言ったところか……)
グラスの中の白ワインを一息で飲み干しながら、エルストは内心でいっそ楽しげにそう呟いた。現状で彼の打てる手は、もうあまり多くない。しかし全くないわけではない。まだ一方は塞がっておらず、開いている。
その一方とはつまり、サザーネギアのことである。サザーネギアの国土を切り取ることで力を増すことは可能。この時の彼は、まだそう思っていた。
それが誤りであったと思い知らされたのは、この晩餐会の数日後のことだった。皇都アルヴェーシスからアルクリーフ公爵家の使者が、パルデースの王城に駆け込んで来たのである。彼がもたらした報せは、驚くべきものだった。
「アルヴェスクとサザーネギアが、同盟を締結した、だと……!?」
唖然とした表情を隠すことも出来ないまま、エルストは驚愕にまみれた声でそう呟いた。そしてそのまま十秒ほどの間、彼は自失呆然する。彼にしてはかつてないほどの長時間である。それほど、彼にとっては衝撃的な報せだったのだ。
我を取り戻すと、エルストはすぐさま脳内に世界地図を広げた。そして苦々しげに舌打ちをする。この同盟により、ギルヴェルスはアルヴェスクとサザーネギアによって東西から挟まれる格好になる。戦略的に見て、非常にまずい状況だ。
(それだけならばまだいいが……)
戦略的な状況が悪化するだけであれば、まだ手の打ちようはある。しかし事態の悪化はそれだけに留まらない。
つい先日、エルストはアルヴェスクとギルヴェルスの同盟を強化することに合意したばかりである。そのアルヴェスクが今度はサザーネギアと同盟を結んでしまった。ということは、ギルヴェルスとサザーネギアの間にも間接的な繋がりが生まれたということである。
サザーネギアに出兵するためには、まずアルヴェスクとの同盟を解消しなければならない。だがそうすると、ギルヴェルスは東西から挟み撃ちにあう。それを回避するためには、むしろアルヴェスクとの同盟を頼みにしなければならない。どうにも面白くない状況だった。
「最後の一方が塞がれた、か……」
これで、サザーネギアに領土的野心を向けることはできなくなった。そしてそれは同時に、エルストの野心が行き場を失ったということでもある。ギルヴェルスという檻の中に、彼は閉じ込められてしまったのだ。
(事前に知ることができれば、やり様もあったものを……)
だがそれも、今となっては負け惜しみでしかない。エルストは同盟の兆候を察知することができなかった。それが全てである。
エルストにこの同盟を察知させなかったのは、ライシュの手腕だろう。念入りに情報を封鎖していたに違いない。しかも彼がこうしてギルヴェルスを訪問したことそれ自体が、同盟の締結に勘付かれないための方策だったのだ。
ジュミエルとアンジェリカの婚約を成立させる、というのが主たる目的であることに違いはない。しかし同時に彼自身を囮として、アルヴェーシスでの出来事からエルストの注意をそらす、ということが裏の目的としてあったのだ。
「ライめ、やってくれる……。ただ、カルノーだな、これは」
この同盟を発案し、成立せしめたのはカルノーであろう。少なくともアルヴェスク側の功労者は彼だ。エルストはほとんど直感的にそう確信した。そうでなければ、ついこの間まで敵国同士であった両国が、突然同盟を結ぶことなど考えられない。実際、報告の中には「彼がサザーネギアのグリフィス公爵家の世子となった」という話もあった。彼は自らが架け橋となることにより、この同盟を実現せしめたのだ。
「これがお前の決断か、カルノー」
生まれ育ち慣れ親しんだ土地を、親・兄弟・親族・友人の住む国を離れ、遠い辺境の異国へ赴く。しかも摂政の義弟にして皇王の親類、そして近衛将軍という恵まれ、将来を約束された立場を捨てていくのだ。いかに公爵家の世子といえども、エルストにしてみれば勘定が釣り合わない。
しかしカルノーはそんなことを気にするどころか考えてさえいないのだろう。彼の頭にあるのは、ライシュとエルストを争わせないこと、ただそれだけなのだ。そんな彼のあり方に、エルストはちくりと心を突かれるのを感じた。
彼の脳裏に敗北の二文字が浮かぶ。苦い、とてつもなく苦い敗北だった。
サザーネギアの戦場でカルノーから槍を突きつけられた時、エルストは勝利を確信していた。だからあの時、自分は敗北を選んだのだ、と彼は思っている。負けたとはいえ、勝つための道筋が見えていたことは、彼にとってある種の慰めだった。
だが今回は違う。今回はまさに青天の霹靂だった。まったく突然に敗北を突きつけられたのである。いや、それだけならばこの敗北にこれほど苦いものを感じることはなかっただろう。今回エルストは政治的戦略的などという上っ面な部分ではなく、もっと深い次元で敗北を喫したのである。
「してやられた……。してやられたよ……」
椅子の柔らかい背もたれに、エルストは力なく体を預けた。そして額に手を当て、力なく呻く。さすがにこの時ばかりは、何もする気が起こらなかった。窓の外を見ると、空は赤く染まっている。
「……飲むか」
ついでにあいつにも付き合わせよう。ちょうど近くにいる友人の顔を思い浮かべながら、エルストはそう呟いた。




