交誼の酒31
時間は少し遡る。サザーネギアで本格的な冬が始まる前のことだ。ほぼ予定通りにジュリアが子供を産んだ。男の子であった。
彼女の出産は、簡単に済んだ。ただしこれは「産婆が見てきた中では簡単に済んだ」と言う意味で、出産が大変な一大事であることに変わりはない。出産を終えた後のジュリアは憔悴しきっていたし、部屋の外で待っていたカルノーも不安で落ち着かない時間を過ごすことになった。
生まれたばかりの赤子を抱くジュリアの姿は美しかった。その二人の姿を見て、カルノーの胸には愛情がこみ上げる。彼は妻を優しく抱き寄せると、何度も「ありがとう」と繰り返した。
「約束通り男子じゃ、カルノー。名前は考えておいてくれたか?」
どこか得意げな顔をしながら、ジュリアはそう問い掛ける。カルノーはしっかりと頷いて「もちろんだ」と答えた。そして考えておいた名前を告げる。
「スアレス」
その名前を聞くと、ジュリアは少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべながら「よい名じゃ」と言って頷いた。彼女もすぐに気付いたように、この「スアレス」と言う名はアレスニールからその一部を貰っている。そこには生まれてきた子供がグリフィス公爵家に馴染めるように、という願いが込められていたのかもしれない。
ちなみに、カルノーは万が一に備えて女の子の名前も考えてあったのだが、それを口に出さない程度の分別は彼にもあった。まったく必要のないことだし、うっかりと口にすればジュリアがまた拗ねてしまうのは目に見えているのだから。
さてスアレスが生まれてから少し経った頃、待ちに待っていた知らせがもたらされた。アルヴェスク皇国の使節団がやってきたのである。彼らはサザーネギア連邦議会議長アレスニールに宛てた摂政ライシュハルトからの親書を携えてきた。
親書の内容は、両国の同盟に前向きなものだった。「使節団の団長をこの件に関する全権大使に任命してあるので、詳しい事柄は彼と協議して欲しい」と書かれていた。これを読んだアレスニールは満面の笑みを浮かべ、その団長と握手を交わしていた。
「オスカー将軍宛にも、摂政殿下からの書簡をお預かりしています」
そう言って団長が差し出す手紙を、カルノーは丁寧に受け取った。内容は彼がグリフィス公爵家の世子となることについてで、「お前がそう望むのならば」とやや消極的ではあるが許可を与えていた。
その内容を確認して、カルノーとアレスニールは頷きあう。これで同盟に向けた道筋がほぼ整ったことになる。後はカルノーを正式に公爵家の世子とし、同盟の詳しい内容を詰め、連邦議会で承認を得れば、晴れて締結と流れになる。
「それと、ジュリア夫人にも何通か手紙を預かっているのですが……」
ジュリアは産後と言うことで今は部屋で安静にしている。本人は退屈そうだったが、体力が戻っていないのは分かっているのだろう。大人しくしていた。
「私が預かって、後で渡しておきましょう」
「お願いします」
受け取った手紙は三通。差出人はライシュとマリアンヌとステラだ。
「それで、ご夫人の様子はいかがですかな? 身篭っておられると聞いておりましたが」
摂政殿下をはじめ、ご家族の方々も心配しておられました、と団長は付け加える。
「先日、無事に男の子を産んでくれました」
「おお! それは何よりです」
そう言って団長は喜び、安堵の表情を見せた。「母子の状態を確認して来い」とよほど厳重に命令されていたのかもしれない。
使節団が到着した次の日から早速、アレスニールは全権大使である団長と同盟締結に向けた協議を始めた。そこにカルノーもまた当たり前に参加する。
カルノーはまだ、グリフィス公爵家の世子にはなっていない。そのために必要な条件は全て揃っているが、彼の立場はまだアルヴェスク皇国の貴族でありまた近衛将軍だった。これは、後腐れをなくすために連邦議会で世子の件についても承認を得た方がいいだろうという判断である。
まあそれはそれとして。協議はアルヴェスク側が用意してきた素案を敲き台にして行われた。とはいえ両国は国境を接していないから、その同盟も複雑なものにはなりようがない。軍事的な協力が主な関心事であり、「一方が他国からの攻撃を受けた場合、もう一方は直ちにこれを援ける」といった内容ですぐに折り合った。
多少紛糾したのは、むしろ交易に関する内容だった。アルヴェスク側は交易に関してはほとんど何も考えておらず、そのためこの分野で合意に至るまでには少々の時間を要した。
ただ、前述したとおり両国は国境を接していない。そのため交易の規模のさほど大きくはならないだろうと予想され、最終的には至って平等な条件で折り合いが付けられた。国力に差があることを考えれば、サザーネギア側に有利な結果と言えるかもしれない。
この点について後日追求されることを、全権大使たる使節団の団長は心配していない。仮にサザーネギアとアルヴェスクの間で交易が活発になったとして、その中でグリフィス公爵家が、カルノーその人が重要な役割を担うことは想像に難くない。そして同時に多くの利得を得ることも。義弟が潤う限りにおいてはライシュもそう目くじらは立てるまい、というのが彼の考えだった。
さて、同盟の内容について最終的な合意が得られると、アレスニールは連邦議会を召集した。これまでの経緯について説明し、また合意した内容について承認を得るためである。
「……以上がこれまでの経緯です。なにかご質問はありませんか?」
アレスニールがそう尋ねると、何人かが挙手して発言を求めた。その中には無論、カレナリアやエドモンドも含まれている。質問の多くは内容の確認で、強硬な反対意見は出なかった。
「……それでは、この同盟の締結について是非を問いたいと思います。賛成の方は起立を願います」
全ての質問に答え終えると、アレスニールは最後にそう言って採決を行った。多くの者が立ち上がる。圧倒的な賛成多数であった。
この賛成多数において、それぞれの派閥とその盟主たる三人の思惑はどのようなものであったか。発起人たるアレスニールは言うまでもないとして、ここでは他の二人について少し説明しておこう。
まずはロベリス公爵代理カレナリアである。この同盟について、彼女と彼女の派閥には特別反対する理由がない。安全保障上の観点からもこの同盟が有意義であることに疑いはなく、そのため大いに賛成というのが彼女らの立場だった。
次にバルバトール公爵エドモンドだ。彼個人の思惑としては、この同盟には反対だった。しかし彼と彼の派閥には、最近ギルヴェルスに攻め込まれ、一時的に領地を切り取られてしまったという苦い経験がある。幸いにしてその領地を失うことはなかったが、それさえも彼ら自身の手で取り戻したわけではない。つまり彼らについてのみ言えば、ギルヴェルスには負けっぱなしだったのだ。
だからこそ彼らの中にはギルヴェルスに対する恐怖がある。そういう者たちはギルヴェルスを牽制するためにこの同盟を望んだ。特に国境を接し、一度は領地を失ったルルガーク男爵らはその傾向が強かった。
いかに盟主とはいえ、そういう声を無視することはできない。強硬に持論を押し通そうとすれば派閥は分裂する。現にエドモンドはアレスニールの根回しが自らの派閥にまで及んでいることを感じ取っていた。それで、エドモンドは仕方なしに賛成に回ったのだ。
同盟の締結が承認され、後に残る実際の調印までの諸々が議長のアレスニールに一任されると、彼は満足げに一つ頷いた。余談になるが、この同盟の締結こそが彼の最大の功績であると、後の歴史家たちは分析している。
「……ありがとうございます。それで、かねてから申し上げておりましたとおり、ここにおられますカルノー殿を、我がグリフィス公爵家の世子としてお迎えしたいと考えております」
「あいや、少しお待ちいただきたい」
そう言って立ち上がったのはエドモンドだった。アレスニールが無言で彼に続きを促すと、彼はさらにこう言った。
「そもそもこの件は同盟締結のための布石であったはず。しかし今、こうして本丸たる同盟締結は承認された。我々もこの同盟が必要なものであることは理解している。そうであれば、この上カルノー殿をグリフィス公爵家の世子とし、アルヴェスクによる内政干渉という禍根を将来に残す必要はないように思うが、いかがか?」
苦し紛れの論、と言うべきだろう。同盟締結の流れを阻むことはできなかった。ならばせめてこの件は潰し、グリフィス公爵家の力が増すのは防ぎたい。そんなエドモンドの思惑が透けて見える。
「そのようにエドモンド殿がこの同盟を高く評価してくださること、このアレスニール、嬉しく思いますぞ。しかしどうやら布石のため以外にも、この件が必要になってきたようなのです」
「……と、仰ると?」
「大使殿の話によれば、アルヴェスクのライシュハルト殿下は、我々との同盟締結と同時に、ギルヴェルスとの同盟も深化させるべく、方策を考えておられるとのこと。我々も何かしらの手を打たねばなりませぬ」
ギルヴェルスとの関係が深くなれば、アルヴェスクはサザーネギアとの同盟よりもそちらを優先しかねない。最悪、アルヴェスクの側から同盟を破棄されかねないのだ。しかもその場合には軍事行動を伴っていることは、想像に難くない。
「この同盟を有効性のあるものとするためにも、また別の縁を結ぶ必要があるのです」
それが摂政の義弟であるカルノーなのだ。しかも彼には先日、長子スアレスが生まれた。ライシュにしてみれば甥にあたる。彼らがサザーネギアで相応の地位を得ることは、間違いなく同盟の強化に繋がる。
「いや、しかし……」
納得しがたいのか、エドモンドが眉間にしわを寄せながら言いよどむ。そこへ殊更明るい声でアレスニールがこう言った。
「我が公爵家の世子となっていただくのが難しいのであれば、カルノー殿には新たな領主としてこのサザーネギアに加わっていただくというのはいかがでしょう?」
「ど、どこに領地を与えるというのだ?」
アレスニールの新たな提案にエドモンドが警戒を見せる。そんな彼に、アレスニールはにこやかな笑みを貼り付けたままこう答えた。
「例の3州などいかがでしょう。あそこはカルノー殿が取り戻した土地ですし、また地理的にも最適であると考えます」
「じょ、冗談ではない! 暴論であるぞ!?」
カルノーが取り戻した件の3州は、ギルヴェルスと国境を接しており、西への備えと言う意味では確かに最適地かもしれない。ただそこはエドモンドの派閥に属するルルガーク男爵らの領地である。これに賛成すれば、エドモンドは派閥の力をそがれるし、また恨みも買うであろう。彼には何らいいことがない。
「いかがですかな、カルノー殿?」
怒鳴るエドモンドを無視して、アレスニールはカルノーにそう尋ねた。彼の顔には茶目っ気のある笑みが浮かんでいる。それを見て苦笑を浮かべながら、カルノーは立ち上がってこう答えた。
「大変光栄なお話ではありますが、私ではいただいた領地を上手く治めることが出来ないでしょう。ここはやはり、長年その地を治められてきた方々にお任せするのが、最善であると思います」
「そ、その通りである!」
すかさず、エドモンドはカルノーの言葉に同意した。そこへアレスニールが「やれやれ」と言わんばかりに頭を振りながらこう続ける。
「では仕方がありませんなぁ。カルノー殿には、やはり我が公爵家の世子となっていただくということで」
「ぬ、ぬぅ……」
流れるように言いくるめられ、エドモンドは唸り声を上げた。言うまでもなく不満である。しかしそれ以上何も言うことはできず、結局世子の件は議会で承認されることになった。本来ならばアレスニールの一存で決めてしまっても良かったのだが、議会の承認はいわば「お墨付き」となる。表立って文句を言える者はいなくなったのだ。
これにより、カルノーをグリフィス公爵家の世子とし、そこからアルヴェスクと同盟を結ぶ、というアレスニールの思惑がほぼ全て実現した。カルノーと直接誼を得るという、ほとんど奇跡に近い偶然があったにせよ、恐ろしいほどの政治手腕と言える。そしてそれを間近で見てきたカルノーは、その思いが人一倍強かった。
ただ九割九分成ったとはいえ、これで全てが終わったわけではない。最後に正式な調印が残っている。この調印はアルヴェスク皇国の皇都アルヴェーシスで行われることになっており、そちらへは晴れてグリフィス公爵家の世子となったカルノーが全権大使として赴くことになった。なお、その際には件の3州を取り戻したその謝礼として相応の金品等を持っていくことになった。
さらに忘れてはならないものがある。ジュリアの手紙である。アルヴェーシスへ向かうのは年が明けて春になってからという予定だったが、彼女は今回同行しない。彼女自身はともかく、生まれたばかりのスアレスに長旅をさせることは危険だからだ。
それで母親のジュリアも同行しないことにしたのだが、だからこそ何もなしというわけにはいかない。受け取った手紙からは義姉や母が大いに心配し、また怒っていることも窺える。子供が無事に産まれたことを含めた近況報告と、それに加えて言い訳などをしたためた手紙をカルノーが預かり、届けるということになっていた。
余談になるが、この手紙をジュリアは大変難儀しながら書いていた。主に言い訳の部分で。よほどきつい文面で叱られたらしく、何枚もの便箋を駄目にして目に涙を浮かべながら書いていた。
カルノーが拾い上げた便箋にはひたすら謝罪の言葉が連ねられており、言い訳というよりはまるで反省文だった。さらに三者三様に叱られたらしく、返事も三通必要で、書き上げたジュリアは大層げっそりとしていた。
閑話休題。年が明けて春になり、皇都アルヴェーシスを向かうことになったカルノーはまずメルーフィスを目指した。つまりギルヴェルスは通らず、ナルグレークを通ったのである。これは同盟について、エルストに悟らせないことが目的だった。
カルノーらはガルネシア海から船に乗り、フラン・テス川を溯って南下する。メルーフィスに入るとまずは旧王都プレシーザに向かい、総督府で歓待を受けてから今度は交易港のある都市ウルへ向かう。そこから船に乗って陸地沿いに西へと向かい、皇都のほぼ真南にある港へ入る。そこから北上して皇都へ入り、ようやく彼らの旅は終わった。ただし、復路が残っているが。
意外なことに、ライシュは皇都を留守にしていた。ギルヴェルスへ向かったのだという。その要件は彼の嫡子ジュミエルと、エルストの長女アンジェリカの婚約について、合意を得るためであるという。
これを聞いたときカルノーは驚き、そしてそれ以上に喜んだ。衝突するその最終局面を待っているかのように思えたライシュが、それを回避する方向に転換したのだ。両国の、いやサザーネギアを含め三カ国の平和と安定のための、大きな一歩と言えるだろう。
(いや、私にとってはそれさえもどうでもいいのかもしれないな……)
カルノーは内心で自嘲気味にそう呟く。平和や安定は確かに重要だ。しかし彼にとっては友人や妻、そして子供が災禍に巻き込まれずにいることこそが何よりも重要なのだ。ここ最近の彼の働きは、すべてそのためと言っても過言ではない。そしてこの同盟の締結と発効によってそれは報われようとしている。
さてその同盟の調印であるが、ライシュの不在よってサザーネギア側には僅かな不満が募った。まるで狙い済ましたかのようなギルヴェルスへの訪問であり、サザーネギアよりもそちらを重視しているという印象を持ったのだ。
ただこの場合、ライシュの身分が幸いした。彼は摂政。皇王に等しい実権を握ってはいるが、しかし皇王ではない。それで調印式に皇王フロイトスが姿を見せることにより、サザーネギア側が懸念する格の問題は解決された。
実際に調印を行うアルヴェスク側の代表は、ベリアレオス・ラカト・ロト・リドルベル辺境伯。彼は皇王フロイトスよりこの件に関する全権を委任されている。つまりこの件に関して言えば、彼の判断は摂政ライシュハルトの判断を凌駕することになる。ただし、この筋書きを書いたのは、摂政その人であるが。
「この同盟が両国のみならず、周辺各国にとっても平和と安寧の礎となることを切に願います」
「同感です。そのためにも、まずは誠実な同盟の履行が重要ですな」
調印を終えると、そう言ってカルノーとベリアレオスは握手を交わした。
これにより、カルノーがアルヴェスクでするべき仕事はほぼ終わった、と言っていい。ただし、彼が本当に苦労したのはここから先で、ジュリアから預かった手紙をステラとマリアンヌに手渡したときのことだった。




