交誼の酒30
舞踏会が終わって数日が経ったある日の夜、ライシュはエルストを宮廷の私室に誘った。余人を交えず、二人きりである。久しぶりに友人と楽しむ酒盛りだった。カルノーもいればよかったのだが、生憎と彼はまだサザーネギアだ。酒とつまみを用意させ、一礼した侍女が下がると、ライシュは気楽な調子で友人にこう尋ねた。
「ワインとウィスキー、どちらがいい?」
「ウィスキーは何年物だ?」
二人の話し方は舞踏会のときのような、立場を考慮した堅苦しいものではなかった。まるで士官学校時代に戻ったかのような、砕けた、ともすればぞんざいな口調である。そして、それが二人にとっての当たり前だった。
「こいつは……、30年物だな」
ボトルのラベルを見ながらライシュがそう答えると、エルストは感心したように「ほう」と呟いた。30年物のウィスキーと言えば、結構な代物だ。
「ではそちらを貰おうか」
わかった、と応じるとライシュは大きな氷を落としたグラスにウィスキーを注ぐ。芳醇な香りが広がって、彼は思わず笑みを浮かべた。
「乾杯でもするか」
「かまわないが、何に乾杯する?」
「そうだな……。生き残ったことに」
「まったく。……生き残ったことに」
ライシュの意地悪げな笑みに苦笑を返しながら、エルストは彼のグラスに自分のグラスを軽くぶつける。グラスの中で、氷が“コロン”と音を立てた。そしてグラスを口元へ運ぶと、芳醇な香りを楽しみながらその琥珀色の液体を少しだけ口に含む。途端に強い酒精が舌と喉を強烈に刺激した。
「旨いな……。いい酒だ」
「俺は最近、ようやくこいつの味が分かるようになってきた」
「俺もさ。昔は薬っぽくて飲めたもんじゃないと思っていた。おかげで表情を変えない訓練にはなったな」
「勿体無い飲み方だな」
ライシュがそう言って笑うと、エルストも「全くだ」と言って笑った。アルクリーフ公爵家に置いてあったウィスキーなら、今飲んでいるものに負けず劣らず良いものであっただろう。それを、まだ味も分からない若造が不味いのを我慢して飲んでいたのだ。確かに勿体無いといえた。
「……怪我の具合はどうだ、ロキ。カルノーには手酷くやられたのだろう?」
グラスをテーブルに置き、つまみを少し食べてから、ライシュはおもむろに話題を変えた。背景を考えれば微妙な問題なのだが、彼の尋ね方は自然で、語感には嫌味がない。これはこれで一つの才能だな、とエルストは思った。
「もう治ったさ。しばらくは痛みが続いて難儀したがな」
そう言ってエルストは脇腹を撫でた。そしてふと考える。この場にカルノーがいたら、どんな反応をしていただろうか。きっと彼のことだから申し訳なさそうな顔をしていたことだろう。
「……カルノーに槍を突きつけられた時……」
エルストが呟くようにしてそう言うと、つまみに手を伸ばしていたライシュが「ん?」と言って彼の方に視線を向ける。エルストは苦笑を浮かべると、わざと視線をずらしてぼんやりと宙を眺め、そしてこう続けた。
「あの時、俺は勝ったと思ったよ」
カルノーは槍を止めてしまった。そして、一度止めた槍で友人にとどめを刺すなど、彼には出来ないと分かっていた。突きつけられた槍を振り払い、腰間の剣で切りかかれば勝てる。エルストはあの時、そう確信していた。そして今でもその確信は揺らいでいない。
「まったく、甘っちょろい奴さ。殺されたって、恨みはしないというのに……」
「そういう男さ、カルノーは」
独白するようなエルストの呟きに、ライシュはグラスを傾けながらそう応じた。その言葉にエルストは僅かに笑みを浮かべながら「ああ、そうだな」と返す。そしてさらにこう続けた。
「……気付いたら、勝ちを捨てていた」
その理由は、エルスト自身、今でも釈然としない。殺すつもりでいた。その覚悟もしていた。どんな手を使ってでも勝ちたかった。それなのに口から出てきた言葉はそれとは正反対で、気が付けば負けを認めていた。
「……悔しいのか?」
「それが、今となってはあまり悔しくない。困ったことにな」
エルストは苦笑を浮かべながらそう答えるとグラスを傾けた。負けたその時は確かに悔しかった。しかし時経つうちに、その悔しさはだんだんと薄れていった。どれだけ敗戦後の処理が大変でも、悔しさは募ることなく、ましてカルノーを憎むことなど皆無だった。そして今、憎まずにいられたことを嬉しくさえ思っている。
「……ライも、カルノーに何か言われでもしたのか?」
少し戸惑ってから、エルストはそう尋ねた。それに対し、ライシュは苦笑を浮かべてこう答えた。
「直接何かを言われたことはなかったな。ただ、『決して争わせない』という気概のようなものは、いつも感じていた」
サザーネギア遠征において、あの危険な作戦案を持ってきたことが、その最たる例だろう。そこからグリフィス公爵家の世子の件、さらに同盟の話へと流れは進んでいく。そしてカルノーはその中で、自分の栄達を求めることはなかった。彼が願っていたのは、二人の友人を争わせないこと、ただそれだけだった。
「あいつらしいな」
「ああ、まったくだ」
そう言って二人は同時にウィスキーを飲み干した。空になったグラスに、今度はエルストが二杯目を注ぐ。それを一口舐めるようにして飲んでから、エルストは少し憮然とした声でライシュにこう尋ねた。
「……なぜ、皇位を諦めた?」
舞踏会の夜以来気になっていたことを、エルストはついに尋ねた。あの夜からずっと、彼はそれを知りたいと思っていた。
「お前が、皇位を諦めることなど、絶対にないと思っていた。それはきっと、カルノーも同じだろう」
だからこそエルストは己の野心の先に彼との相対を見据えていたし、カルノーはそれを回避するべく奔走していた。二人ともその部分だけは決して揺らぐまいと思っていたのだ。それゆえ、衝撃も大きい。カルノーは喜ぶかもしれないが、エルストはむしろ喪失感を抱えていた。
「なぜだ? 何がお前を変えた?」
エルストの問い掛けに、ライシュはすぐには答えなかった。もったいぶっていたわけではなく、自分の中で言葉と感情を整理しようとしているようだった。それで、エルストも彼を急かない。真っ直ぐな視線を向けたまま、静かに彼の言葉を待った。やがてライシュはウィスキーを一口含んでから、おもむろに口を開いた。
「俺は庶子だ。父上は、俺に関わろうとはしなかった」
レイスフォールのその方針は、ライシュを守るためのものだった。そしてどれだけ辛くとも、レイスフォールはその方針を貫いた。
ライシュ自身にも子供が生まれた今、その方針を定めた父もまた辛かったに違いないと、その心中を慮れるようにもなった。ただ、それがライシュハルトという人間を決定的に定めることになる。
「ずっと、思っていた。俺は一体何者なのだろう、と」
物心ついたときからずっと、彼はその疑問を抱え続けてきた。
ライシュがレイスフォールの息子であることは暗黙の了解であり、周りの人々は彼をそのつもりで扱った。しかし現実はどうか。彼は父に会うことすらできなかった。その歪な環境が、彼の悩みを大きくした。
そんな彼を見かねたのか、ベリアレオスはライシュをマリアンヌと婚約させてリドルベル辺境伯家の世子とした。寄る辺のない彼に、明確な身分と立場を与えたのである。しかしそれでも彼は悩み続けた。どんな肩書きで呼ばれても、それが本当の自分であるようには思えなかったのだ。
「……今思えば、そんなことで延々と悩んでいられることそれ自体が、俺が恵まれている証だったのだろうよ」
皮肉気味にそう言って、ライシュはグラスを傾けた。彼は決して豪奢な生活をしていたわけではないが、それでも世間一般から見れば裕福な生活をしていた。糧を得るために幼い頃から土を掴んで働くこともなければ、お腹をすかせ明日の食事を心配しながら眠りについたこともない。
それどころか衣食住を満たされ、さらには高度な教育を受けることもできた。言ってみれば「悩むことの出来る環境」にいたわけで、それさえできない多くの人々に比べれば、大いに恵まれていたというべきだ。
「……士官学校の卒業式で父上の言葉を聞いたとき、俺は殊更自分の不遇を嘆くのは止めようと思った」
レイスフォールの子供として認められなかったために、出来なかったり諦めたりしたことは確かに多くある。しかし同時に、彼の言うとおりライシュには出来ることもまた多くあった。
――――それを喜び、それを誇ろう。それが父の願いならば。
ライシュはそう決めてマリアンヌと結婚し、晴れてリドルベル辺境伯家の人間となった。そしてレイスフォールの崩御の後、アザリアスに擁立された幼皇フロイトスを主君と認め、彼のために臣下として戦うこともした。それが父の願いであったからだ。
「……だがアザリアスが簒奪を企てたとき、とうとう我慢できなくなった」
その時ついに、ライシュは自分がレイスフォールの落胤であることを世に明かした。レイスフォール直筆の証明書もあり、ライシュは晴れて彼の子供となった。
「皇位を目指し始めたのも、あの内乱の時からだ。アザリアスがふんぞり返っているのを許すくらいなら、俺が玉座につく。まずはそう思った」
その言葉にエルストも小さく頷く。彼からしても、主君として仰ぐのならアザリアスなどよりもライシュの方が遥かに良い。尤も、彼はそれ以上のことを求めていたわけであるが、それはそれとして。
「次期皇王として軍勢を率いていたとき、俺は興奮していたよ」
これでようやく堂々と、誰に憚ることもなく自分の出自を明らかに出来る。そしてその血を旗頭にして多くの人々がライシュの下に集った。そして内乱の後、彼は正式に「アルヴェスク」の姓を名乗り、皇族の一人として迎えられたのである。
「嬉しかったよ。ようやく、本当の自分になれた気がした」
しかしその後に待っていたのは、それまでと変わることのない苦悩の日々だった。
世の人々は、ライシュをレイスフォールの子供として扱い、そして二人を重ねた。レイスフォールは賢君だったから、人々はライシュもまた同じように賢君となることを求めたのである。
しかしライシュは父のことを知らない。知らないのである。何を好み何を嫌い、どのように笑いどのように怒り、如何にして喜び如何にして悩んだのか。何も、知らないのである。その何も知らない背中を、彼は追いかけなければならなかった。
「……これも今にして思えばだが、“本当の自分”なんてものはどこにもいなかったんだ。ただその時の状況が気に入らなくて満足できないだけ」
子供っぽいただの我侭さ、と言ってライシュは自嘲気味に笑った。そして幾分声を真剣なものに戻し、さらに続けてこう言った。
「内乱の後、俺は皇王にはなれず、代わりにこうして摂政になった」
「不満だったのか?」
分かりきったことを、と思いつつエルストはそう尋ねた。不満に決まっている。でなければ、その後に皇位など目指すものか。しかし意外にもライシュは少し考えてから首を横に振った。
「……不満と言うよりは、不安だった」
レイスフォールの背中を追い続けることで、ライシュは彼の子供として世に認められる。あの時のライシュは、そのように思っている部分があった。
「なによりな、俺は誰よりも父上に認めて欲しかったのさ。子供の頃からずっと、な……」
だからこそ皇位に、かつての父と同じ地位に着きたいと思っていたし、そして同時に不安だった。皇王にならなければ世の中から、そして何よりレイスフォールから認めてもらえないのではないか。それが不安だった。
「ただ摂政として、皇王の代理として政務を取り仕切っているうちに、少しだけ考えが変わった」
いや、「気付いた」というべきか。認められること、つまり人からの評価は、地位ではなくその成果に対してのものなのだ、と。そしてそのことに気付いたライシュは、「少しだけ気が楽になった」と言う。
「大きかったのは、メルーフィス遠征だな」
メルーフィス遠征の成功は、ライシュが残した巨大な功績である。この功績により、人々は彼を認めた。しかしこの功績は安堵と同時に、ある種の虚しさをも彼に与えることになる。
「どれだけ功績を残そうとも、父上に認めていただけることはもうない。当たり前だな。父上はもう、いないのだから……」
レイスフォールの主観において認めてもらうことは、もはや不可能だった。この時点で、彼は皇位を目指す理由を見失った、と言っていい。しかしだからと言って、すぐに諦めることなど出来るはずもない。彼の想いはそれくらい強烈で深いものだった。
「そんな時だ。ロキ、お前がいた」
エルストが皇位を狙っていることは、以前から気が付いていた。しかしそのことをより強く意識するようになったのは、メルーフィス遠征の後だった。そして折しもその頃、ギルヴェルスで内乱が起こる。いや、ライシュが起こした、というべきか。そしてその内乱を足がかりにして、エルストは大いに飛躍して見せた。ライシュの予想を超えて。
「痛快だった。笑いが止まらなかったぞ、あの時は」
ライシュが楽しげにそう言うと、エルストは芝居がかった仕草で「恐悦至極」と応じてみせる。それから二人はまた笑いあった。
「お前と競い合うのは、楽しかった」
それは士官学校時代から変わらない。それで彼は、ただエルストと競い合うために皇位を目指すようになっていった。表向きは「父に認めてもらうため」という理由を掲げて、自分を納得させながら。加えて、「国内の大貴族の謀反を抑える、あるいはそれに備える」というのは、摂政の職責として実に真っ当なもの。そのため内側に複雑なものを抱えていようとも、彼は破綻することなくここまで来た。いや、破綻はしていたがともかく前向きであったために実害は出なかった、というべきかもしれない。
「ならばなぜ、皇位を諦めた?」
もう一度、エルストはそう問うた。それに対し、ライシュは猛々しい笑みを浮かべながらこう問い返す。
「相手が摂政では不足か?」
「そんなことはないが……」
エルストは僅かに言いよどむ。皇王であれ摂政であれ、所詮それらは肩書きでしかない。立ちはだかるのがライシュである以上、相手として力不足ということはありえない。肩書きはどうであれ、エルストと競い合うことはできる。友人が言いたいのはつまりそういうことだと、彼はすぐに理解した。ただ、エルストが聞きたいのはそういう事だけではなかった。
「今のライなら、すぐにでも皇王になれる。なぜ、そうしない?」
手を伸ばせば届く。今のライシュはそういう位置にいる。それなのに彼はそうしようとはしない。それどころか、自ら諦めようとしている。それがエルストには不思議だった。
「さあな。俺にもよく分からん」
いっそ潔く、あっけらかんとライシュはそう答えた。当然、納得できる答えではなく、それを聞いたエルストは眉をひそめた。そんな友人を見てライシュは苦笑を浮かべると、さらにこう言葉を続けた。
「ただ、な。俺は胸を張れる男でいたいのさ。ロキに対しても、カルノーに対しても」
その言葉は、不思議なほどの説得力を持っていた。エルストは自分の中の疑問が氷解していくのを感じた。
ライシュは決して皇位を望まなくなったわけではなかった。彼は今も心のどこかで皇位を望んでいる。
しかし、それよりも彼が優先したのは、エルストとの決定的な争いを回避する道だった。そしてそのための最善手として彼が導き出したのが、嫡男ジュミエルをアンジェリカの婚約者とし、ギルヴェルス王家に婿養子に出すことだったのだ。
これにより、アルヴェスクとギルヴェルスの同盟はさらに深化する。そしていっそう破棄することは難しくなるだろう。戦争回避の方向へ、大きく舵を切ることになるのだ。カルノーは胸を撫で下ろすに違いない。
しかしだからと言って、ライシュがエルストに恐れをなした、というわけでは決してない。エルストの友人は、そんな腑抜けでは決してない。彼が挑めば、ライシュは受けて立つだろう。きっとこれまで以上の覚悟を持って。その様子を想像して、エルストは思わず身震いした。
ただ、ジュミエルを婿養子に出したからと言って、ライシュが皇王になれなくなるわけではない。それどころか、彼の権力基盤はますます強固になり、皇位はさらに近づくだろう。
しかし彼にとって子供を外に出すというのは、極めて大きな決断だったのだ。それこそ、皇位を諦めてしまうくらいには。
(いや、それも少し違うか……)
彼はきっと、二人の友人だけでなく、婿養子に出された自分の子供に対しても胸を張りたいのだ。
『お前は父の野心の礎となったのだ』
とではなく、
『お前は両国の平和と安寧のための礎となったのだ』
と言ってやれるように。そこに彼の生い立ちが関係していることは疑いの余地がない。
そしてそのためならば、「皇王になる」という自分の目標さえも捨てて見せよう。意識してかはともかく彼はそう考え、そしてその通りに行動したのだ。
(ああ、お前はそういう男さ)
エルストは胸の中で感嘆と共にそう呟いた。清々しく、潔い。思わず嫉妬してしまうくらいに。
「……お前の息子を貰っても、俺が大人しくなるとは限らんぞ」
エルストが挑むようにしてそう言うと、ライシュは「我が意を得たり」とばかりににやりと笑う。そしてこう言った。
「かまわんぞ。むしろ、そうでなくては面白くない」
その言葉に、エルストもまた猛々しい笑みを浮かべて応じた。そして二人は同時にグラスを傾ける。
友人と飲む酒は、勝利の美酒でなくとも旨かった。




