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アルヴェスク年代記  作者: 新月 乙夜
結の章 交誼の酒
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交誼の酒24

 ――――ずいぶん、お腹が目立つようになってきた。


 ジュリアは自分のお腹をいとおしげに撫でながら感慨深くそんなことを思った。産み月まではまだ時間がある。しかし妊婦であることが一目瞭然であるくらいには、彼女のお腹は大きくなっていた。カルノーを見送った頃はまだ“身軽”だったが、今では立派な身重である。


 胎児が順調に成長している証である。生まれてくる子供はカルノーに似ているだろうか。それとも自分に似ているだろうか。この頃毎日、気がつけばそんなことを考えている。そしてそんな時間が、たまらなく幸せだった。


 ジュリアは今、グリフィス公爵家の本邸で出産に備えた日々を送っている。とはいえ、彼女自身はただ穏やかに過ごしているだけだ。


 屋敷の使用人たちは、アレスニールからも厳重に命じられていたのだろう、丁重な態度でジュリアに接した。ただの客人としてではない。彼女自身は知らなかったことだが、その対応の仕方はほとんど公爵夫人に対するものだった。アレスニールはカルノーを公爵家の世子に迎えることを見越し、そのつもりでジュリアにも仕えさせていたのである。


 そのおかげもあって、ここでの生活はジュリアにとって快適なものだった。最初は知らない人ばかりで不安を覚えることもあったが、世話をしてくれる使用人たちの顔と名前を覚えるころにはすっかりこの屋敷に馴染んでいた。


「ジュリア様、軽食をお持ちいたしました」


 そう言って部屋に入ってきた侍女の表情は明るい。その笑顔を見て、彼女が嫌々ジュリアに仕えていると思う者はいないだろう。実際、彼女は心からジュリアに親しみ、仕えることを楽しみとしているのである。


 ジュリアは人心をよく惹きつける。彼女はその手腕をここでも遺憾なく発揮し、屋敷の使用人たちを次々に“篭絡”したのである。しかも彼女自身はほとんど無自覚のうちにそれをやっているのだから、夫であるカルノーが苦笑混じりに「恐ろしい」と評するのも納得というものである。


「うむ、ありがとう」


 ジュリアは笑顔を見せながら侍女に礼を言った。こういう場面で彼女が横柄な態度をとることはまずない。それが彼女の“人心掌握術”の一端であると見て間違いないだろう。


「それにしても……、いつものことながら多くはないか?」


 そう言って、ジュリアは侍女が運んできた軽食を見て苦笑する。そこにはサンドイッチやスコーンが食べきれないほど用意されていた。


「そんなことはありません。ジュリア様はお腹のお子様の分も食べなければいけないのですから、このくらいは普通です」


 自信満々な様子で侍女はそう答えるが、実際のところジュリアがこれを完食できたことはない。というより、成人男性であるカルノーでも無理であろう。それくらい用意された軽食は大量だった。


 確かに妊娠してお腹が大きくなり始めてからは、いつもより多く食べるようになったし、また食べるようにしている。しかしこれはいくらなんでも多すぎる、というのがジュリアの言い分だった。こんなに食べていては、妊娠とは関係なしに太ってしまうではないか。使用人たちが親切にしてくれるのは嬉しいが、特に侍女たちは過保護なようにさえ思える。それで、ジュリアはいつもこう言うのだ。


「わたし一人では食べきれぬよ。残すのも悪いし、皆で食べよう」


「承知いたしました。……実は、ジュリア様ならそう言われると思い、手の空いている者たちに声をかけておきました。みんな、そろそろ来るのではないでしょうか」


 手際の良い侍女の言葉を聞いて、ジュリアはますます苦笑した。尤も、毎日同じようなやり取りをしていれば手際も良くなろうというものだ。最近では、このために軽食を大量に用意しているのではないか、とジュリアは勘繰っていた。


(まあ、別にそれでも構わぬがな……)


 若干の諦めとともに、ジュリアは心の中でそう呟いた。彼女の見つめる先では、若い侍女たちが笑顔を浮かべながら次々に部屋の中に入ってくる。こうして彼女たちとお茶を飲むのも、ジュリアの楽しみの一つとなっていた。


 彼女たちを束ねる立場にある家令のクーゼなどは、当初このお茶会にいい顔をしていなかったのだが、ジュリアがこれを楽しみにしており、また侍女達の仕事の能率が上がっていることも認め、最近では黙認するようになっていた。


 ちなみに、この屋敷では当然男の使用人も働いているが、この場に彼らの姿はない。やはり女ばかりでは居心地が悪いのかもしれない、とジュリアは思っている。


 そしてこのお茶会には、少し前から小さな参加者が加わるようになっていた。その参加者が侍女に手を引かれてやって来る。


 プラチナブロンドの髪の毛を肩の辺りまで伸ばした、まだ二歳くらいの、色白の女の子だ。アレスニールの孫娘の、デルフィーネである。手には絵本のようなものを持っていた。彼女の姿を見つけると、ジュリアは満面の笑みを浮かべて手を差し出す。


「フィーネ、こっちにおいで?」


 ジュリアに笑いかけられると、デルフィーネも嬉しげな笑みを浮かべて彼女に駆け寄った。ジュリアはその小さな身体を捕まえて抱き上げると自分の隣に座らせる。本当は膝の上で抱いてやりたいのだが、お腹が大きくなっているのでそれは控えるようにと言われていた。


「フィーネ、それはどうしたのじゃ?」


 持ってきた絵本について尋ねられると、デルフィーネははにかみながらそれをジュリアに差し出す。そして可愛らしくこうおねだりした。


「ジュリアさま、ご本、よんで?」


「もちろんじゃ。どれどれ……」


 デルフィーネから絵本を受け取ると、ジュリアはさっそく最初のページを開いて彼女に見せる。すると、デルフィーネはジュリアの膝に小さな手を付きながらその絵本を覗き込んだ。ジュリアは彼女の小さな身体を左腕で包み込むようにして支え、そして絵本を見やすい位置においてからその内容を読み始める。その様子を、侍女たちが微笑ましげに見守っていた。


 今ではすっかりジュリアに懐いているデルフィーネだが、彼女が屋敷に来たばかりの頃は、二人の間にほとんど接点はなかった。というより、使用人たちはなるべく二人を関わらせないようにしていたのではないか、とジュリアは思っている。


 考えてみれば、当然の反応である。デルフィーネはグリフィス公爵家にとって、アレスニールの血を引く唯一の直系の姫だ。それに対してジュリアは、大切な客人ではあるものの、その人となりも良く分からないよそ者である。例えば大変に気難しい人物であるかも知れず、そのような、言ってしまえば得体の知れない人間を、大切なお姫様に近づけたくないと思うのは当たり前だった。


 それでジュリアのほうでもそれを察し、しいてデルフィーネと接触しようとはしなかった。ただ、彼女は部屋でじっとしていることができない人間だ。いろいろと動き回るうちに、デルフィーネの姿を見かけることは何度か会った。


 目が合えば、その度に微笑みかけた。デルフィーネは人見知りだったらしく、最初のうちは逃げたり、侍女の足に隠れてしまったりしていた。ただ彼女のほうもこの目新しい人間に興味があったらしく、次第に二人の距離は縮まっていった。


 そしてある時、ジュリアが屋敷の庭を散歩していたときのことだ。デルフィーネの姿を見つけると、彼女はいつも通りに微笑みかけた。その時デルフィーネは、ぎこちなくではあるが、初めて笑みを返してくれたのだった。


 ジュリアは膝を屈めて視線をデルフィーネに合わせると、改めてにっこりと笑いかける。彼女はまだ、逃げも隠れもしない。それでジュリアが「おいで」と言って手招きをすると、彼女はおずおずと近づいてきた。この頃になると、ジュリアの気性に問題がないことも分かったのか、侍女たちもデルフィーネを止めようとはしなかった。


 ジュリアは近づいてきたデルフィーネの両手を取り、にこやかな表情のまま、まずは自己紹介をした。


「わたしは、ジュリア、という」


「じゅりあ……」


 少し舌足らずな様子でデルフィーネがそう繰り返すと、ジュリアは「そうじゃ」と言って一つ頷く。そして続けてこう尋ねた。


「お名前は?」


「デル、フィーネ」


「デルフィーネか。うむ、良い名じゃ」


 そう言ってジュリアはデルフィーネの頭を優しく撫でた。彼女の細いプラチナブロンドの髪の毛は、しっとりとしていてとてもさわり心地が良い。デルフィーネのほうも頭を撫でられて気持ち良さそうにしていた。


 これをきっかけにして、デルフィーネはだんだんとジュリアに甘えるようになった。彼女には母親がいない。世話をしてくれる侍女たちはいるが、彼女たちはあくまでも使用人だ。母親のように甘やかすわけにはいかなかった。


 デルフィーネはきっと寂しかったのだろう。その寂しさを、ジュリアは敏感に察した。それで彼女はデルフィーネをかまって抱きしめて甘やかした。デルフィーネも最初は少し戸惑っている様子だったが、次第に彼女に懐いていった。ある夜などは離れたくないとぐずってしまい、結局そのまま一緒のベッドで寝たこともあった。


『お嬢様は最近、よく笑われるようになりました。ジュリア様のおかげです』


 デルフィーネが生まれたときから仕えているという侍女は、言葉を詰まらせながらそう言ってジュリアに頭を下げた。そして、彼女が来てから屋敷の中の空気が明るくなった、とその侍女は言う。


『…………、フィーネが笑ってくれると、わたしも嬉しい』


 数秒、言葉を探してから、ジュリアはそう言った。侍女は頭を上げると、涙を流しながら笑顔を浮かべ、「はい!」と応じた。


 ジュリアから絵本を読んでもらって満足したデルフィーネは、今度はジャムをたっぷりとつけたスコーンを口いっぱいに頬張った。そんな彼女の様子を微笑ましげに見守りながら、ジュリアもサンドイッチに口をつける。ライ麦のパンには独特の風味があり、間に挟まれたチーズやベーコンと良くあった。


 女性たちが楽しくお茶を飲みながら楽しく談笑していると、そこへ男の使用人がやって来た。ただし、彼はお茶を飲みに来たわけではなかった。彼は胸に手を当てて一礼してからこう言った。


「お館様とオスカー将軍がお帰りになられました」


 それを聞くと、ジュリアはぱっと顔を輝かせた。反射的に立ち上がった彼女の手を、デルフィーネが掴んで少し不満げに彼女を見上げる。


「すまぬ、すまぬ。フィーネも一緒に出迎えに行くか?」


 膝を屈めて視線をあわせながらそう尋ねると、デルフィーネはすぐに笑顔になって頷いた。ジュリアも笑みを浮かべながら一つ頷くと、彼女の口の周りに付いたジャムを手ぬぐいで拭ってやる。それから彼女を抱き上げてソファーから下ろすと、手をつないでゆっくりと歩きながら正面玄関のエントランスホールへと向かった。


 二人がエントランスホールに着くと、ちょうどアレスニールとカルノーが屋敷に入ってきたところで、家令のクーゼが彼らを出迎えていた。


「カルノー!」


 ジュリアが夫の名前を呼ぶと、二人の視線が彼女の方を向く。カルノーは妻の姿を、アレスニールは孫娘の姿をそれぞれ見つけて顔に笑みを浮かべた。


「デルフィーネ。今、帰ったぞ」


「おかえりなさいませ。おじい様」


 アレスニールが好々爺然とした笑みを浮かべながらデルフィーネを抱き上げる。初めて見る彼のその表情に少し驚きながら、カルノーもジュリアに近づいてその身体を慎重に抱きしめた。


「無事で何よりじゃ、カルノー」


「何とか生き残れました。ジュリアも元気そうでなによりです」


「元気なのはわたしだけではないぞ。この子も元気じゃ」


 そう言ってジュリアは目立ってきたお腹を得意げに撫でた。慈愛に満ちたその姿を見て、カルノーは少し不思議な気持ちになる。


 多忙であったこともあるのだろう。今まではジュリアが妊娠したと知らされても、子供が生まれ自分が父親になるのだということに、あまり現実感がなかった。しかしこうして目立ってきたジュリアのお腹を見ると、そこで着実に子供が成長しており、また全ては現実なのだと突きつけられる。


 ただ、嫌な感じはまったくしない。それどころか本当のことなのだと鮮明になるにつれ、あやふやだった喜びもまた明確な形を持つようになっていく。それは自覚であり、また覚悟であり、そして感謝だった。


「ささ、お二人とも。ここで立ち話もなんですし、お茶にしましょうぞ。クーゼ、準備を」


「承知いたしました」


 そう言ってクーゼは折り目正しく一礼した。そして比較的年かさの侍女が四人を応接室へと案内する。ちなみに、先程までジュリアたちがいたのとは別の部屋だ。そこで一服してから、カルノーは用意された客室へと下がって休んだ。


「カルノー、少し良いか?」


 彼がちょうど楽な格好に着替え終わると、ジュリアが部屋に尋ねてきた。デルフィーネはお腹が一杯になって眠くなったらしく、部屋でお昼寝をしているので彼女一人である。


 カルノーは彼女を部屋に入れると椅子に座らせる。お茶を頼もうかとも思ったが、先程飲んだばかりだ。ジュリアもいらないと言ったので、彼の椅子を引いてそこに座り、テーブルを挟んで彼女と向かい合った。


「それで、どうかしましたか?」


「分かれてからのことを教えてくれぬか?」


 単刀直入に彼女はそう言った。苦笑を浮かべつつもそれに応じて、カルノーはこれまでのいきさつを掻い摘んで話した。そして最後にエルストと刃を交えたことを話すと、ジュリアは沈痛な顔をして「そうか……」と呟いた。


「辛かったであろう?」


「まあ、そうですね……。でも最終的には、殺すことも、殺されることもなく済みましたから」


 そう言って少し寂しげな表情を見せた夫の手を、ジュリアはそっと握った。カルノーはその手をそっと握り返す。


「私は、甘いのでしょうか……?」


 弱音を吐くように、カルノーはそう呟いた。ただ、答えや慰めを求めてのことではない。実際、自分が甘いことは彼自身が一番わきまえていた。


「うむ、甘い」


 いっそ容赦ないほど清々しく、ジュリアはそう断じた。それを聞いて、カルノーは堪らず苦笑を浮かべる。そんな彼に、ジュリアは続けてこう言った。


「じゃが、その甘さが問題にならぬくらいにカルノーの器は大きいと、わたしは思う」


 先程と同じく、疑いのないはっきりとした口調である。それを聞いて、カルノーは思わず目を見開く。そんなふうに考えたことはなかったし、また彼は自分をそこまで高く評価していなかった。


「それに、甘いカルノーの方が、わたしは好きじゃ」


 ジュリアは最後にそう締めくくった。その彼女の顔を、カルノーはぽかんとした様子で見つめる。問題は何も解決していないが、それでもなんだか気分は軽くなっていた。


「な、なんじゃ……。人の顔をまじまじと見て……」


 そう言ってジュリアは居心地悪そうに少し顔を逸らす。その時ようやく、カルノーは彼女の頬が薄く朱に染まっていることに気付いた。恥ずかしがっているのだ。


「いえ……。ジュリアのほうはどうでしたか?」


 小さく忍び笑いを漏らしてから、カルノーはそう言って話題を変えた。するとジュリアは眼を輝かせて大きく頷きながらこう答える。


「うむ。よくしてもらったぞ。フィーネとも仲良くなれた」


「フィーネというと……、デルフィーネ嬢のことですか?」


「うむ。甘えん坊じゃが、利発な子じゃ。この子とも、きっと上手くやってくれる」


 そう言ってジュリアは自分のお腹を撫でた。生まれてくるまで子供の性別は分からないというのに、完全に男の子であることを前提にして話をしている。


「世子の話は、まだどうなるか分かりませんよ?」


「じゃが、お主はそれが最善の選択であると考えているのであろう?」


 ずばりとそう言われ、カルノーはまた苦笑した。彼がグリフィス公爵家の世子になるという話は、アルヴェスク皇国とサザーネギア連邦の同盟の話へと繋がる布石だ。つまり二つの話は一組であると言っていい。


 カルノーはジュリアの言うとおり、この同盟が両国の将来にとって、そして自分を含めた友人達の未来にとって最善の選択であると考えている。そしてその想いはエルストと刃を交えてからというもの、さらに強くなっていた。


「……ジュリアは、どう思いますか?」


「兄上とエルスト殿を争わせたくないのであれば、これ以上の策はないと思う」


 そのジュリアの答えに、カルノーは思わず目を見開いた。二人の友人のことで悩んでいたことを、彼女に話した覚えはない。だが今、ジュリアは優しい目をしながら彼が一番望んでいた答えをくれた。


「姫……」


「あまり一人で背負うな。カルノーが苦しいと、わたしも苦しい。少しは、わたしにも背負わせて欲しい。その……、ふ、夫婦なのだから」


 頬を赤く染めながら、しかしカルノーの目を真っ直ぐに見てジュリアはそう言った。その彼女の眼に、カルノーは思わず惹き込まれる。ジュリアは少し恥ずかしそうにはにかみながら、さらにこう続ける。


「それと、フィーネがわたしのことを『義母上』と呼んでくれたら、わたしも嬉しい。わたしに言えるのはそれだけじゃ」


 ジュリアのその言葉に、カルノーは「なるほど」と言って頷いた。


(ただまあ、どのみち……)


 どのみち、この件についてはライシュの判断待ちである。彼が摂政として「駄目だ」と言えばそれまでだし、逆に「世子になれ」と言われればもはやカルノーの意志など関係ない。ただどちらの判断が下ったとしても、カルノーもジュリアも大きな抵抗なくそれを受け入れられるだろう。


(ジュリアが賛成してくれた。今はそれでよしとするか……)


 胸に温かいものを感じながらそう思い、カルノーはまた話題を変えた。そして二人は離れていた時間を埋め合わせるように、夕食まで談笑を続けるのだった。


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