交誼の酒23
重い手応えに、カルノーはむしろ顔をしかめた。背後をうかがうと、エルストは落馬している。彼は素早く手綱を操って馬を反転させてエルストのところへ向かい、そして身体を起こそうとしている友人に向かって槍を繰り出した。
(ここで討ち取るべきだ……!)
カルノーは自分にそう言い聞かせる。頭では、そう分かっていた。しかし突き出された槍の切っ先は血に染まることなく、エルストの喉元でぴたりと止まった。
(ちっ……!)
カルノーは内心で舌打ちする。もう一人の友人なら、ライシュならここで躊躇うことなくエルストを殺していたはずだ。しかし彼には無理だった。戦いの流れの中で、結果的に命を奪うのであれば出来ただろう。実際、彼は先程まではそれでも構わないという覚悟で戦っていたのだ。
だが一度こうして槍を止めてしまっては、もう無理だった。もう、殺せない。腕が動かないのだ。
我ながら甘い。苦さとともに、カルノーはそう思った。
「……降服しろ、ロキ」
甘いと自覚しつつも、しかし一度止めた槍を改めて友人に突き立てることなど、カルノーには出来なかった。それで彼はエルストに降服を迫る。それ以外に出来ることはなかった。
(頼む、降服してくれ……。ロキ……!)
その内心を悟られぬよう、カルノーは精一杯視線を鋭くしてエルストは見据える。その視線を真っ直ぐに受け止めながら、エルストは素早く頭をめぐらせていた。
普通に考えれば絶体絶命だ。しかしエルストはカルノーが自分を殺せないことを見抜いていた。
(勝った!)
エルストは勝利を確信した。突きつけられた槍の穂先を払いのけ、腰間の剣を抜いてカルノーに斬りかかる。捨て身でかかれば、間違いなく殺せる。それで、勝てる。そして勝てれば、いくらでも挽回は可能だ。
「……分かったよ」
自分が口にしたその言葉に、誰であろうエルスト本人が最も驚いた。しかし安堵の表情を浮かべるカルノーは、どうやらそれに気付いていない。純粋に友人を殺さずにすんだことを喜んでいる。それが何だかおかしくて、そしてそんな彼を躍起になって殺そうとしていた自分が滑稽で、エルストは額に手を当てて笑った。
途端に、脇腹が痛んだ。身体を倒し、地面に仰向けになる。見上げた空は、いや、天は、高かった。
「俺の負け、か……」
悔しさはもちろんある。しかしそれと同じくらいの清々しさを、彼は噛み締めた。今までに味わったことのない味だった。
□■□■□■
エルストを降服させた後のカルノーの動きは素早かった。早急にアレスニールを呼び寄せ、今回の戦闘の講和条件を纏める。彼が提示した条件は「割譲された3州をサザーネギア連邦へ返還すること」だった。
「私はこれで構わないがカルノーは……、いやアルヴェスクとしてはそれでいいのか?」
エルストの疑問は当然だった。実際に戦い、そして勝ったのはアルヴェスクの近衛軍なのに、皇国の取り分は何もない。しかしカルノーは何も言わずただ静かに頷く。アレスニールも特に異論は唱えない。それを見てエルストは「欲のないことだ」と苦笑してから署名をした。
(アルヴェスクが3州を得るなら、やりようはあったのだがな……)
署名をしながら、エルストは内心で舌打ちをしていた。3州がアルヴェスクの国土となるなら、彼にはそこを治める領主なり代官なりを調略する自信があった。それにサザーネギアが3州を失ったことに変わりはない。エドモンドはこれを取り戻そうとして遠からず兵を挙げるだろう。その時、ギルヴェルスは同盟を盾に兵を出す口実を得る。つまりかなり当初の流れに沿った見通しが立つはずだったのだ。
それなのに3州は丸ごとサザーネギアに返還されてしまった。その上、講和の書名欄にはアレスニールの名前が、連邦議会議長の肩書きとともに記されている。つまりサザーネギアもこれで納得している、ということだ。これでエドモンドはギルヴェルスの条約無視を口実に懲罰の兵を挙げることができなくなる。そしてまた同時にエルストも、サザーネギアの“侵攻”を理由に再び遠征を行うことができなくなった。見事に予防線を張られ、彼としては苦笑するしかなかった。
一方、アルヴェスクは得るものがなく、損をしているようにも見える。だが、3州を譲ってもらったサザーネギアが皇国に対して何もしない、ということはありえない。贈り物か、それこそ謝礼とでも称して財宝を送ることになるだろう。そして相応の金品が手に入れば、ライシュや彼の周りの狸どもも納得する。
(やれやれ、完敗だな……)
そう嘆息しつつも、エルストは愉快だった。負けたのがカルノーでなければ、こうはならなかっただろう。しかしそれでもやはり悔しいので、彼は負け惜しみと知りつつこう問い掛けてみた。
「……しかしカルノー。今更ではあるが、こうも独断で決めてしまってよかったのか?」
通常、近衛将軍にここまでの権限はない。だから普通であれば、上司であるラクタカスに事の次第を報告し、彼の判断を仰ぐのが筋だった。しかしカルノーは、いっそ清々しいほど笑みを浮かべてこう答えた。
「心配はいらない。ライから独自の判断を下す上での委任状を貰っている」
カルノーがしれっとそう返すと、エルストは「そうか」と言って苦笑した。ライシュからほとんど全権委任に近い権限を与えられていることを察したのだ。今のこの事態は想定外のはずだが、カルノーのことだから押し通すに違いない。
「まったく腹黒く、そのうえ図太くなったものだな。カルノー!」
「君ほどじゃないさ」
そう言い返されると、エルストはとうとう我慢できなくなり声を上げて笑った。流石は自分の親友だ。そう思った。
講和条件が纏まり署名も終わると、エルストはすぐに軍勢を率いて西へと向かった。さらに返還する3州の各地へと早馬を送り、統治に当っていた文官たちに撤収を命じる。講和条件を履行するためである。
日暮れ前まで行軍を続けると、エルストは適当なところで野営を命じた。負け戦の後であるためか、兵達の雰囲気は暗い。そんな中、その元凶というべき人物が本陣のエルストの前に来た。第二陣を率いていた、ラジェルグである。右腕を根元から失い、その傷口は未だに赤く染まっている。血も多く失ったのだろう。顔面は蒼白だ。熱があるのか、彼の息は荒かった。
「ほう、生きていたか。生き恥に耐え切れず自刎でもしたかと思っていたぞ」
エルストの言葉は辛辣だった。そもそも彼はラジェルグが生きていることを知っていた。それでもすぐに合おうとはせず、まるで嫌がらせのようにここまで行軍を続けた。深手を負ったラジェルグには辛い道のりであったに違いない。
「貴様の恥知らずで無思慮な行いのせいで、我々はこの遠征における成果の全てを失った。この責任、どう取るつもりだ?」
「……この身を八つ裂きにされますように。ただ、どうか部下たちには寛大な処置をお願い致します」
意外にもしっかりとした口調でラジェルグはそう言った。満身創痍にも関わらず眼を爛々と光らせる彼は、まさに手負いの獣と言った様子だ。ただし、彼は自分の命などもう惜しくはないと思っている。全ての責任を背負い、どれほど残酷な死であろうと受け入れるつもりだった。しかしエルストは彼のその覚悟を嘲笑うかのようにこう言った。
「はっ、貴様の命にどれほどの価値がある。現にカルノーは貴様の首のことなど、口にすらしなかったぞ」
その言葉に、ラジェルグはただ頭を垂れて無言を返した。自分の命が無価値なのは今更だ。しかし命をもって償う以外、彼は責任の取り方を知らなかった。
エルストは露骨に不機嫌な顔をして頭を下げるラジェルグを冷たく見据えていたが、おもむろに立ち上がると腰間の剣を抜いてその刃を彼の首筋に沿えた。そして底冷えのする声でこう尋ねる。
「死にたいか?」
「……どうぞ、首を刎ねられますよう」
「ふん。言ったはずだ。貴様の命にどれほどの価値がある」
吐き捨てるようにそういうと、エルストは剣を鞘に戻した。そしてもとの席にどっかりと座りなおし、不機嫌な顔をしてラジェルグを睨みつける。そして彼にむかって、おもむろにこう沙汰を下した。
「殺してなどやらん。自害も禁ずる。死にたければ、その腕の傷の治療を拒むなどして勝手に野たれ死ね。王都に戻ってもまだ生きていたら仕事をくれてやる」
事実上の無罪放免である。周りにいる幕僚たちも驚いた顔をしていたが、最も驚いていたのは他ならぬラジェルグだった。彼は思わず顔を上げて眼を見開き、エルストのことを凝視した。その間、エルストは不機嫌な顔を崩さない。しばらくして、彼は再び頭を垂れた。
「……御意」
「話は以上だ。戻れ」
冷たく言い放ち、エルストはラジェルグを本陣から追い出した。支える手を拒み、ふらつきながら立ち去る彼の背中を見送ると、ふとイシュリアがエルストに近づいてこう尋ねた。
「……なぜ、お許しになられたのですか?」
「カルノーには俺も負けた。あまり偉そうなことは言えんさ」
エルストは苦笑しながらそう答えた。ただし、それが理由の全てではない。彼はカルノーの言うとおり腹黒で、考えていることはもっと悪辣だった。彼はラジェルグを自分の身代わりとして生贄にするつもりなのだ。
今回の失敗の原因がラジェルグにあることは明白である。彼が第二陣に反転を命じて近衛軍との戦端を開いた。しかも講和条約を無視して。そのせいでギルヴェルスは得るはずだった3州を失った。
それを不満に思う人間は多くいる。もちろん、エルストもその一人だ。しかし彼にとっては面倒なことに、彼自身はその不満を大っぴらに叫べる立場にいない。なぜなら、彼もカルノーに敗北を喫しているからだ。
要するに、エルストは敗戦の不満が自分に向かうことを懸念していた。彼は王配となってまだ日が浅く、まだその基盤は磐石ではない。不満が大きくなって突き上げを喰らえば、ギルヴェルスにおける彼の権勢は不安定になる。
そこで、より分かりやすい不満の対象を用意することにしたのだ。それがラジェルグである。彼が生きていれば、敗戦の不満は全て彼に向かうだろう。彼にとっては、あるいは八つ裂きにされるよりも辛いことかもしれない。
「イシュリアよ、世の中はままならんことばかりだな」
「はっ、それがこの世の真理なれば……」
「そういえばそうであったな」
そう言ってエルストは苦笑を浮かべた。そんな彼の傍らで、イシュリアはおもむろに膝をつくと真剣な面持ちでこう言った。
「お館様は、隠居されるにはまだお若くていらっしゃる。このイシュリアも、今しばらくお傍でお仕えしたく存じます」
「無論だ。頼りにしている」
「はっ」
短くそう答えたイシュリアの目は、楽しげに笑っていた。彼の目から見て、主君であるエルストはまた大きくなったように思える。その眼の輝きは強い。まこと、世捨て人には相応しからざる、世俗の欲望にまみれた眼だった。
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エルストを解放し、彼が軍勢を率いて今度こそ間違いなく西へと向かうのを丘の上から見届けると、カルノーはラクタカスに使者を出した。今回の騒動の顛末について報告するためである。使者が戻ってきたのは日が暮れる少し前で、ラクタカスは「委細承知した。摂政殿下には私のほうからご報告しておく」と返事をしてきた。本国でのことは、彼に任せておけば大丈夫だろう。
その日の晩、カルノーはアレスニールを夕食に誘った。その席で彼はラクタカスとのやり取りについて話し、さらにこう尋ねた。
「バルバトール公爵のほうはいかがでしたか?」
カルノーと同様に、アレスニールもまたエドモンドに今回の顛末について知らせる使者を出していたのだ。彼の反応如何では、最悪もう一戦、戦うことになりかねない。
「いやはや。ずいぶんと嬉しそうに怒っていた、と聞いております」
赤ワインを杯の中で燻らせながら、アレスニールは苦笑を浮かべてそう答えた。そしてカルノーもまた「そうですか」と応じて苦笑を浮かべる。エドモンドが嬉しげに怒るその様子は、容易く想像することができた。
「もっとも、最後には本当に怒っていたそうですがね」
茶目っ気を滲ませながら、アレスニールはそう付け加えた。彼が独断でこの件を片付けてしまったがために、もう手出しが出来ないことを知ったのだろう。彼にとってはなお悪いことに、連邦議会議長にはそれが認められている。アレスニールの独断専行を非難しようにも、その根拠がないのだ。
だからもしエドモンドが挙兵しようとすれば、そのためには連邦議会の承認が必要になる。だがアレスニールはもちろん、カレナリアも反対に回るだろう。よって挙兵して彼の野心を満たすことはほぼ不可能と言っていい。
「ただ、早急に議会を召集し、今回の件の説明をするよう求められました。これには応じなければなりません」
それがサザーネギア連邦の在り方だという。
「つきましては、カルノー殿にもその議会に出席していただきたいのですが、よろしいですかな?」
「私でよければ、協力させていただきます」
カルノーはそう即答した。サザーネギアに挙兵を思いとどまらせることは、エルストに対して隙を見せないことに繋がるだろう。それはアルヴェスクの国益にもかなうはずだ。大いにやる価値のある仕事といえた。
それにアレスニールに預けたジュリアのこともある。もともと彼と一緒にグリフィス領へ戻る予定だったのだ。大した寄り道でもない。
そして次の日、カルノーとアレスニールはそれぞれ軍勢を率いて東へと向かった。二人はまず、ランプゼン城砦へと向かう。カルノーはそこで部隊を副将のジェイルに預け、さらに帰還のためのナルグレーク軍との調整を彼に任せた。城砦を預かる将の話では、彼らはまだガルネシア海の対岸に陣を張っているとの事だった。
「帰還の目途が付いたら一度報告をお願いします」
「はっ、了解しました」
「……最後まで、貴方に頼りきりでした。ジェイル殿がいてくれてよかった」
そう言ってカルノーはジェイルに向かって右手を差し出した。その手を、ジェイルはやや戸惑いながら握る。そんな彼の手をカルノーは構わず強く握り、笑みを浮かべながら一つ頷いた。
さてランプゼン城砦に軍勢を置くと、カルノーとアレスニールはそれぞれ30騎ほどの護衛だけを連れて、グリフィス公爵家の本邸がある都市ラニキアへと向かった。
久しぶりにジュリアに会える。そう思うと、カルノーの顔には自然と笑みが浮かぶのだった。




