交誼の酒21
ようやく書きあがりました。
ラジェルグはひどく不機嫌だった。その理由は明快で、この遠征が彼にとってはなはだ不本意な結果に終わったからである。
アレスニールの立ち合いのもと、エルストとエドモンドの間で纏められた講和条件は、確かに遠征軍にとって有利なものだった。その点だけを見れば、確かに「勝った」と言えるであろう。
しかしその内容は大いに不満の残るものだ。ギルヴェルスはたった3州しか、新たな国土を得られなかった。しかもその3州にしても、すでに現在実効支配している地域だ。新たに得たものは何もないと言っていい。
結局、一番得をしたのはアルヴェスクではないかとラジェルグは思っている。ろくに戦闘をすることもなく、ただ援軍だけを出してまんまと和解金をせしめた。まるで自分達の奮闘の成果を横取りされたようで、それが彼をなおさら腹立たしくさせる。
(これでは……!)
これでは何のための遠征だったのか分からない。ラジェルグは怒りに震え、馬上で皮製の手綱を力かませに握った。
この遠征はギルヴェルスのためのものだったはずだ。それを横からしゃしゃり出てきたアルヴェスクによって不本意なものにさせられた。ラジェルグ自身も思うような勲功を上げることはできていない。発言力を増してエルストを掣肘するという彼の思惑は大きく外れてしまったことになる。
(このままでは……!)
このままでは、本当にギルヴェルスはアルヴェスクに飲み込まれかねない。エルストの影響力が強まれば強まるほど、その危険性は増すと言っていい。国内でそれを防ぎえる力を持つのはラジェルグしかいない。
(私が……、私がギルヴェルスを守らねばならぬ……!)
その気持ちは、今までもラジェルグの中に漠然とだがあったものだろう。しかしこのとき初めて、彼はその気持ちを言葉にした。そして言葉にされた気持ちは決意となり、改めて彼の心の中にすとんと落とし込まれた。
ラジェルグはすっと頭を上げた。見ると、前を進んでいたはずのエルスト率いる第一陣は、遠く離れている。どうやら随分と離されてしまったらしい。最後尾にいる兵の姿が、もう薄っすらとしか見えない。
これは決して彼が意図したことではなかった。激しい攻防戦を戦った彼の部隊には負傷者が多くいる。彼らのために移動速度はゆっくりにせざるを得なかったし、また先ほどまでは足を止めてさえもいた。
エルストのほうもそれを承知しているから、第二陣の遅れを咎めたりはしない。それで彼らは先に進んでいる。その彼らの背中を見て、ラジェルグは視線を鋭くして手を口元に当てた。
「後方のアルヴェスク軍は、第三陣はどうしている?」
「か、確認してきます!」
ラジェルグの周りにいた騎兵が数騎、後方に向かって駆け出していく。彼らが戻ってくるまでにしばらく時間がかかったが、その間ラジェルグは一言も喋らずただひたすら思案を重ねた。
「報告します。ラクタカス大将軍率いる第三陣は、すでに進路を南に変え、第二陣からは遠く離れております」
「目視は可能か?」
「いえ。地形の関係もあり、第二陣からは目視できません。我々も第三陣の位置を確認するために大きく移動しなければなりませんでした」
「そうか。ご苦労」
報告を聞き、ラジェルグはさらに思案を重ねる。いや、むしろそれは、覚悟を固めていたといった方がいいのかもしれない。やがて彼は決然とした様子で頭を上げる。先行している第一陣の姿はもう見えない。そして彼はこう命じた。
「全軍、反転せよ」
その時の彼の声は冷静で、狂気に浮かされた様子はなかった。ある歴史書は、後にこの時のラジェルグの様子についてそう書いている。
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「な……!? 第二陣が……、反転を開始した……!?」
カルノーの隣で副官のイングリッドがよろめき、呻くようにしてそう呟いた。その意味が分からないような愚か者は近衛軍にはいない。すなわち、ラジェルグが結ばれたばかりの講和条約を無視して、再び戦意を見せたのである。
「将軍……」
イングリッドが縋るようにして隣に立つカルノーを振り返る。そして彼の横顔を見て、彼女は思わず息を呑んだ。同じものを見ながらも沈黙を貫く彼は、しかし視線を鋭くし、その顔に強い怒りを滲ませていた。イングリッドが未だかつて見たことのない、激烈な怒りである。
「……丘の西側で迎撃の陣形を整えるよう、全軍に命令を。迎え撃ちます」
ぞっとするほど、どこまでも平坦な声でカルノーはそう命じた。その怒りの矛先が向いているのは自分ではないと分かっているにも関わらず、イングリッドは血の気が引いて背中に冷や汗が流れるのを感じた。
「りょ、了解しました!」
その場から逃げ出すようにして、イングリッドは駆け出した。そして命令が伝達され、反転してくる遠征軍第二陣を迎え撃つべく、カルノーが率いる近衛軍の兵士たちが次々に配置についていく。
「カルノー殿! 一体どうなされた……!?」
カルノーの部隊が動いたのを見て駆けつけてきたのだろう。アレスニールがカルノーの傍へやって来た。そして遠征軍第二陣がゆっくりとではあるが反転し、そして戦闘隊形を整えていくのを見て言葉を失う。そして彼は数秒の間、視線を鋭くして彼らを睨み付けた。そしておもむろに口を開き、カルノーにこう言った。
「……下がられよ、カルノー殿。ここは、我々が……」
それは彼の気遣いだったのだろう。敵はギルヴェルス軍で、アルヴェスク軍の“友軍”だ。ここで彼らと戦うことは、単なる局地的な戦闘という意味では留まらない。最悪、そのまま両国の全面戦争に発展する。カルノーの立場とて危ういものとなるだろう。しかし彼はその申し出を断りこう答えた。
「いえ。この厚顔無恥な条約の無視を、私は遠征軍の一員として見逃すわけには参りません。ことは我らで決着をつけますゆえ、どうぞ手出しは無用に願います」
ここでサザーネギア軍が手を出せば、それは彼らにとって新たな戦端を開く格好の大義名分となる。せっかく終わらせた戦争が、また始まってしまうのだ。それを避けるためにも、カルノーはこれをあくまでも遠征軍内部の問題として片付けようとしていた。しかしアレスニールは顔を歪めながら首を横に振った。
「……残念ながら、エドモンド殿が知ればどうこじつけてでも、軍を動かす口実とするでしょう」
「そうであれば、なおのことここで決着をつけねばなりません」
カルノーは強い口調でそう言った。ここで全てを終わらせ、エドモンドが介入してくる余地を潰す。そのためにも彼はここで引く気はなかった。
「……なれば、戦力を出し惜しみするのは愚策ですな。グリフィス領軍も後方で待機させましょう」
他に何か要望はないかと尋ねるアレスニールに、カルノーは弓兵を借りたいと告げた。近衛軍が展開する後方の、丘の斜面に展開して援護射撃をしてくれるよう頼んだのだ。アレスニールは一つ頷くと、すぐに身を翻して自らの部隊のところへ戻っていく。しばらくして、グリフィス領軍もまた動き始めた。
アレスニールが傍を離れると、カルノーはその場で一人になった。彼が見据える先では近衛軍が、そしてギルヴェルス軍が戦闘隊形を整えていく。ひたすら繰り返した調練の成果か、近衛軍の動きは素早く整然としている。
一方それに対し、ギルヴェルス軍は少し手間取っているようにも見えた。ただ、これはある面仕方がない。軍勢には向きがあり、反転するさいにはただ回れ右をすればいいというものではないのだ。加えて、戦線に加われない負傷者を後方へ運ぶなどのこともしなければならなかった。ただし、その動きは着実で、躊躇や動揺は見られない。
(なぜだ、ロキ……!?)
想いの中で、カルノーはそう問い掛ける。普通に考えて、ギルヴェルス軍のこの大胆な動きがエルストの命令から外れたものであるはずがない。しかしこのやり口はあまりにも恥知らずで、そのためカルノーの知る友人の姿とは似つかない。その差異を彼は理解できず、ただ胸中で怒りとともにその問い掛けを重ねた。
答えはない。分かっているのは、目の前のギルヴェルス軍が矛をこちらに向けているという、単純にして冷徹な事実だけである。
やがて近衛軍の迎撃準備が整い、ギルヴェルス軍の反転も完了した。グリフィス領軍も間に合い、彼らは丘の東側にひとまず布陣していた。ただし、弓兵部隊だけはカルノーの要請どおり丘の西側斜面に展開している。カルノーは全体を見渡せる丘の上に立ち、アレスニールはその隣に立った。
ラジェルグが反転したギルヴェルス軍の先頭に立つ。これより彼は東へと進み、サザーネギア遠征を再開するつもりでいる。ここで遠征を成功させてギルヴェルスの国力を高め、さらに彼自身の発言力を増すこと。それが祖国を守る唯一の手段であると、彼は信じていた。
(エルストロキアではない……。俺が、この俺がやるのだ……!)
そのことにこそ、意味がある。彼はそう信じた。
決意を滾らせる彼の見据える先では、しかしカルノー率いるアルヴェスクの近衛軍が迎撃態勢を取っていた。それどころか、その後ろにはグリフィス領軍の旗さえある。それ実際に見て、彼は不快げに眉を跳ね上げた。
自分のしていることが、結ばれたばかりの講和条約を破る行為である事を、ラジェルグは自覚している。忌々しいばかりで、いっそ屈辱的ですらある条約だが、両国の間で正式に締結されたものであることは間違いない。彼はそれをしっかりと認識していた。しかしそれでも、目の前のアルヴェスク軍に対して湧き起こる己の怒りを、彼は正当なものだと思った。
アルヴェスクは曲がりなりにも味方ではなかったのか。それがサザーネギア軍を庇って自分達の行く手を阻むとは何事か。やはり彼らは裏で彼らと結託していたに違いない。そしてまんまとあのようにふざけた講和条約を成立させ、遠征を失敗に追い込み、ギルヴェルスの国益を損ねたのだ。
「その大罪、死を持って償ってもらうぞ。オスカー将軍」
ラジェルグとカルノーは、かつてギルヴェルスの内乱の折には一緒に戦ったことがある。その際の彼の尽力は、ラジェルグも認めていた。それゆえせめて、自分の手で討ち取ってやろう。彼はそう思った。
「全軍攻撃開始!」
ラジェルグが命令を下す。ついにギルヴェルス軍は来た道を引き返すようにして動き始めた。ただし、段違いの戦意と殺意を滾らせながら。
ギルヴェルス軍の戦力は、参戦数でおよそ4万5000弱。一時期はおよそ4万弱まで減ったが、負傷者の怪我が回復したことで戦力も回復したのだ。
一方の近衛軍は3万。グリフィス領軍2万を加えれば、一応数の上では敵を上回れる。しかしカルノーは、(弓兵を借りてはいるが)子飼いの戦力だけで戦い、そして勝つつもりでいた。その自信が彼にはあった。
ギルヴェルス軍が動いても、カルノーは近衛軍を動かさなかった。どっしりと構え、敵を迎え撃つつもりなのだ。やがて弓矢の届く距離になり、両軍から矢が放たれ、たちまち射掛け合いになった。
弓矢の射掛け合いで有利だったのは近衛軍の方だった。アレスニールから弓兵の部隊を借りていたおかげで、数的に優勢だったのだ。しかし降り注ぐ弓矢の雨をものともせず、ギルヴェルス軍の兵士たちは猛然と突撃してくる。
「押し返せ!」
やがて両軍は激しくぶつかった。ギルヴェルス軍の激しい突撃を、近衛軍はまるで岩壁のように受け止めて防ぐ。ギルヴェルス軍がどれほど激しく攻めようとも、近衛軍は崩れなかった。
「……そろそろだな」
鋭い視線で戦況の推移を見守っていたカルノーが、おもむろにそう呟いた。そして兵に命じて銅鑼を大きく三度鳴り響かせた。
すると戦場に大きな動きが生じた。それまでどっしり構えてほとんど動かず、敵の攻撃を受け止めるばかりだった近衛軍の歩兵部隊が前進を始めたのである。特に中央部の圧力は凄まじく、それまで横に長い長方形型の陣形だったのが、徐々に凸形に、さらに先の尖った三角形へと変化していく。
近衛軍のその猛攻に、アレスニールは思わず目を見張った。その兵はまさしく精強。大陸でも最強と呼ぶに相応しい。しかし、近衛軍の猛攻はこれで終わりではなかった。
「角笛をならせ」
カルノーがそう命じると、すぐさま角笛が吹き鳴らされた。するとさらに陣形が変化する。全体がさらに前へと進み、特に三角形の底辺に当たる部分が内側に折れ曲がるようにして変化していく。丘の上からその様子を眺めるアレスニールの目には、まるで一本の道が出来上がっていくように見えた。
そして彼のその感想は、おおよそ正しいものだった。
「銅鑼、三回!」
カルノーの命令に従い、銅鑼が三回鳴らされる。それを合図に、今まで温存されていた騎兵隊が動き出した。歩兵部隊が切り開き、そして作り上げた“道”を通って駆け出したのである。
そして三回目の銅鑼が鳴らされるちょうどその時、三角形の頂点に当たる部分が口を開いた。“道”を作っていた歩兵部隊が二つに分かれたのである。そしてその間を、すなわち彼らが開いた出口を目掛けて、騎兵隊が猛然と突撃する。
「これは……!」
アレスニールは思わず目を見開いた。近衛軍の騎馬隊が敵陣のど真ん中に直接躍り込んだ。そうとしか形容できない光景である。そして実際それこそがこの戦術の狙いであり、またカルノーが隷下の兵士らに課した厳しい調練の成果だった。
敵陣の腹の中に飛び込んだ騎兵隊は、三つに分かれて暴れまわった。縦横無尽に駆け回り、敵兵らを薙ぎ倒して蹂躙し、そして追い散らしていく。その様子はまるで、羊の群れの中に狼を放り込んだかのように、アレスニールには見えた。槍の穂先と馬の巨体を避けようとしてギルヴェルス兵らは出鱈目に逃げ回り、その結果ギルヴェルス軍の隊列は大いに乱れた。
「この機を逃すな! 圧力をかけて一気に突き崩せ!」
カルノーのこの命令は忠実に実行された。敵陣のど真ん中で暴れまわる騎兵隊の動きに呼応するようにして、歩兵部隊が外側から強烈な圧力をかけていく。ギルヴェルス軍は押し戻されるようにして、後ろへ一歩また一歩と退いて行く。そしてついに、その後退は全体的な敗走へと繋がったのである。
しかしその様子を見ながらも、カルノーは厳しい表情を緩めない。彼は戦場の、さらにその奥を睨みつけるようにして見据え、そして小さくこう呟いた。
「やはり、来たか……」
彼の見据える先では、新たな一団が西から姿を現していた。遠目ではあるが、騎馬で2000騎ほどいるだろうか。第一陣から先行してきたのだ。カルノーはここにエルストがいると直感した。
あの一団の後ろには、言うまでもなく第一陣がいる。戦力はアルクリーフ領軍3万とギルヴェルス軍2万で、合計5万。グレンダン丘陵地帯ではほぼ敵軍と睨み合っていただけなので、ほとんど損耗しておらず無傷の状態と言っていい。この戦力まで戦闘に参加されたら、泥沼化は避けられない。
エルストと話を付けなれければならない。カルノーはそう思った。話をつけ、この馬鹿げた戦闘を止めさせるのだ。
「アレスニール殿。間が空きました。グリフィス領軍を前進させて、後詰に入ってください」
いっそ淡々とした口調でカルノーはそう告げる。その彼の様子にのまれたのか、アレスニールは少し躊躇いながら頷いた。
「う、うむ。それで、カルノー殿はどうされる?」
その問い掛けに対する彼の答えは簡潔だった。
「出ます」
そう答えてから、カルノーは連れてこられた自分の馬に跨る。彼のその姿に、アレスニールの肌が粟立つ。彼は思わず惚れぼれとしたものを感じた。
「……存分に、戦場を駆けられるがよろしい。後のことは、この老いぼれに任されよ」
「よろしくお願いします」
最後にそれだけ告げると、カルノーは馬の腹を軽く蹴って丘を駆け下りる。そして動かさずに待機させておいた1000騎ほどの部隊と合流する。これで近衛軍の全戦力が動いたことになる。
「いやはや、年甲斐もなく嫉妬してしまいそうな……」
カルノーの背中を見送ると、アレスニールはどこか困ったような笑みを浮かべながらそう言って、首を左右に振った。
一体なんという男か。傍にいればいるほど、その存在の大きさに気付かされる。まるで惹き込まれるようであり、それでいて仰ぎ見るようでもある。しかしそれでいて圧倒されることなく、むしろ清々しい。
もしこのような男がすぐ傍にいれば、とことんまで惹かれるか、あるいは嫉妬に狂って憎むかのいずれかであろう。アレスニールはそんなふうにさえ思った。そして彼自身は言うまでもなく前者である。
「それにしても、惜しい……」
共に戦場を駆けられないことが。アレスニールは苦笑を浮かべながら内心で嘆息するようにそう呟いた。それから彼は名残惜しそうにしつつも一旦戦場に背を向け、自らが率いるグリフィス領軍のところへ向う。これを動かし、前進する近衛軍の後ろにおいて、必要に応じ支援を行うのだ。
しかしながらアレスニールはこの時、そうやって準備したとしても、自分達の出番はないだろうと思っていた。今さっき見た近衛軍の圧倒的なまでの勇戦、そして戦場に向かうカルノーの背中から感じた頼もしさが、彼にそう思わせていた。
そしてだからこそ、共に戦えないことを惜しいと思うのだ。




