野心の目覚め6
「ブルミシェス、なんということを……!」
カルノーが預かってきた年下の友人であるブルミシェスの手紙を読むと、アーモルジュはそう呟いて頭を抱えた。
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アザリアスがフロイトスに取って代わって皇王となると、まず北でエルストロキア・レダス・ロト・アルクリーフ公爵が彼に叛旗を翻し、さらに西でライシュハルト・リドルベル・アルヴェスクが挙兵した。
この二つの反乱に対し、アザリアスはホーエングラム大将軍に命じて討伐軍を組織させた。その数、およそ50万。圧倒的な戦力、と言っていいだろう。そしてホーエングラムはそのうちの5万を北への抑えとしてブラムゼック砦に置くと、自身は残りの45万を率いて西に向かった。
この間、皇国の東部においても「軍を催しアザリアスを討つべし」という意見は頻繁に聞かれた。というより、この頃それを考えなかった貴族はいない、と言うべきだろう。
ただ、東部では旗頭となるべき人物がいなかった。北部のアルクリーフ公爵、西部のライシュハルト皇子といった中心に据えるべき、極端なことを言えば次の皇王となるべき人物がいなかったのである。
さて、エルストは学友であるカルノーのことを気にしていたが、世間一般が気にしていたのは彼ではなく、彼が仕えるアーモルジュ・ヨセク・ロト・カディエルティ侯爵の動きだった。
この頃、アーモルジュの元には北部の貴族達からの手紙が頻繁に来ていた。要件は北方連合軍への参加と協力の要請である。カディエルティ領は東部のなかでも比較的北よりに位置していたのだ。
これらの要請に対し、アーモルジュは「敵対するつもりはない」との旨だけを書き送り、領軍を動かすことなく事態を静観し続けた。
ただし、アーモルジュはなにもしていなかったわけではない。領軍はすぐに動かせるように準備を進めていたし、なによりも多くの密偵を皇都とその周辺に放ってアザリアスの動きを探らせた。
その甲斐あって、彼はカディエルティ領にいながらにして討伐軍の動きをかなり正確に知ることが出来ていた。そしてホーエングラム率いる本隊が西に向けて出陣し、皇都の周辺ががら空きになったことを知ると、その時アーモルジュはついにカディエルティ領軍を動かしたのである。
アーモルジュ率いるカディエルティ領軍が目指すのは、言うまでもなく皇都アルヴェーシスである。皇都の周辺が空になったのはホーエングラムの誘いであると、無論彼も気づいていた。しかし彼はその誘いにあえて乗った。エルストが乗ろうとしなかったその誘いに、彼は乗ったのである。
皇都を目指して出陣する際、アーモルジュはカルノーに騎兵のみ1000騎を与えて西に先行させた。ただし、アーモルジュがカルノーに目指すように命じたのは皇都ではない。さらにその西、ホーエングラム率いる討伐軍の本隊を追うように命じたのだ。
「討伐軍の補給部隊を背後から襲い、補給線を分断せよ」
アーモルジュはカルノーにそう命じた。皇都を落としアザリアスを討てば、それでこの内乱が終わるというわけではない。むしろそこからが本番、と言うべきだろう。それを見越し、アーモルジュは早々と一手を繰り出したのである。
常識的に考えて45万の大軍相手にたった1000騎では勝負になるはずもない。しかし勝つことが目的でなければ、やりようはある。特に補給部隊を背後から襲うだけであれば、さほど難しくはないとアーモルジュは考えていた。いざとなれば騎兵のみの利点を生かして早々に離脱すればいいのである。
「それと、もしライシュハルト殿下にお会いすることができたら、この書状をお渡ししてくれ」
そう言ってアーモルジュは一通の手紙を差し出した。カルノーはそれを恭しく受け取って懐にしまう。そんな弟子にアーモルジュは一つ頷いてから「無茶はするでないぞ」と言葉をかけた。
さて、もともとカディエルティ領軍の準備は進めていたので、一度号令が掛かれば動き出すのは早かった。動くと決めてから2日後、アーモルジュは鎧を身に纏い馬上の人となっていた。西方連合軍が挙兵してからおよそ一ヵ月後の、5月半ばのことだった。
「では、行ってくる。留守はませたぞ、スピノザ」
「は。御武運を」
領地に残って留守居役となるのは、アーモルジュの養子のスピノザ・ロト・カディエルティだった。もともとは彼の甥であり、子がなかったアーモルジュは彼を養子にしてカディエルティ侯爵家を継がせることにしたのだ。
「皆の者、出陣じゃ!」
アーモルジュがそう号令をかけると、カディエルティ領軍の全軍が行軍を開始した。その数、およそ3万6000。討伐軍はもとより、北方連合軍、西方連合軍と比べても半分以下の数である。ただし、末端の兵に至るまで統率された、極めて優秀な軍でもある。
カディエルティ領軍が動き始めると、カルノー率いる騎馬1000騎はすぐさま速度を上げて駆け出して先行していく。アーモルジュはその背中を見送ると、一つ頷いた。
(巧くやれよ、カルノー)
彼は心の中でそう呟く。皇都を落とし、さらにカルノーが西に向かった討伐軍本隊の補給線をうまく切れれば、戦うことなく討伐軍を枯らすことができる。この戦いは内乱であり、流血は可能な限り控えなければならない。そのためにもカルノーの役目は極めて重要と言えた。
さて、カルノーの部隊が抜けたことで総勢3万5000となったカディエルティ領軍は北回りで一路皇都アルヴェーシスを目指した。カディエルティ領軍は堂々と進んだ。進軍を阻む部隊は存在しない。ホーエングラムがすべて西へ連れて行ってしまったのだ。そのためカディエルティ領軍は無人の野を進むがごとく、文字通り一度も戦闘を行わずに皇都に到着した。6月の初めのことである。
「皇都に残っている守備隊の戦力はどれほどか?」
「忍び込ませている密偵からの情報によれば、千に満たぬ、と……」
参謀の一人がそう答えると、アーモルジュは一つ頷いた。予想通りではあるが、やはり随分と少ない。これもホーエングラムが兵をかき集めた、その影響である。
兵が少ないのであれば、攻めて取るのは容易い。しかしそうではあっても、アーモルジュは皇都を武力で落としたいとは思わなかった。武力を使えば、血が流れる。これが内乱である以上、犠牲は可能な限り少なくするべき。アーモルジュはそう考えていた。
アーモルジュは守備隊の隊長と接触し、降伏を勧めることにした。隊長の名は、ジェイル・アニル・ロト・グリーク男爵。もともと彼は騎士階級の出身なのだが、近衛軍に入りある程度まで出世したところでグリーグ男爵家の婿養子になった。今は男爵家を継ぎ、その当主となっている。
アーモルジュが使者として選んだのは、ラスディオ・クーゲルという男だった。〈ロト〉の称号を持たぬことから分かるように、騎士である。ジェイルとは士官学校時代に親しくしていたという。
久方ぶりにジェイルと再開したラスディオは、すぐに要件に入るのではなく学生時代の思い出話などをして彼の心を和め、それからおもむろにこう切り出した。
「千にも満たぬ兵で御館様と戦い、勝てるはずもないことぐらいお前も重々承知しているはず。そしてアザリアスは簒奪者だ。その簒奪者のために命を捨てて戦おうとしているのは、一体なぜか?」
それに対し、ジェイルはこう答えたという。
「アザリアス陛下が皇王となられたその手続きに、不正なところは少しも無い。実際、フロイトス様もイセリナ様も、陛下の戴冠に異議を唱えることはされなかった。よって、陛下は正当な皇王であらせられる。
そして近衛軍の誇りは最後の一兵に至るまで皇王陛下のために戦うことにある。ここで戦わずしてカディエルティ侯爵に降伏すれば、その誇りを汚すことになる。侯爵殿が忠義の臣であることは承知しているが、しかし皇王陛下が皇都におわす限り降伏することは出来ない。皇都に入りたくば、どうぞ我らの屍を越えていかれよ」
そしてジェイルは最後に「どうか皇都の民のことだけお願い申し上げる」と付け加えた。
カディエルティ領軍の陣に戻ったラスディオはジェイルの言葉をアーモルジュに伝えた。
「昔から頑固者ではありましたが、まさかここまでとは……」
「いや、これはただ頑固であるのではない。これこそ忠義よ」
そう言ってアーモルジュはジェイルを讃えた。しかしこうなると、アーモルジュとしてはますます彼を殺したくない。さらにアザリアスがジェイルの忠心に値しないことを、彼はよく知っていた。
「……今度は、儂が直接会ってみるか」
アーモルジュが小さくそう呟くと、周りにいた家臣たちはさすがに顔色を変えた。そして「危険すぎる」と口々に告げる。だいたい、有利な側の大将がわざわざ敵方に降伏を勧めに行くなど、聞いたことが無い。そんなことをすれば容易く捕まり殺されてしまうだろう。しかしアーモルジュは家臣たちのその懸念を笑って否定した。
「なに、あれほど清々しく覚悟を決めているのだ。今更そのような真似はせぬよ」
そう言ってアーモルジュは本当にジェイルのところへ行ってしまった。無論、表向きの使者は前回と同じくラスディオである。アーモルジュはフードを目深かにかぶり、供としてその後ろについて同行した。
「ラスディオ、何度来られても私の考えは変わらぬぞ」
ラスディオとアーモルジュは小さな詰め所の一つに秘密裏に通された。そこにはすでにジェイルが待っていて、旧友の顔を見るなりそう言った。
「私もそう言ったのだが、こちらの方がどうしてもお前と話をしたいと言われて、な……」
ラスディオがそう言うと、アーモルジュは前に出てフードを脱いだ。
「な……! カディエルティ侯爵……!?」
彼の顔を見たジェイルが思わずそう声を上げると、詰め所の中にいた近衛軍の兵士たちが色めきたった。そして皆、剣の柄に手をかける。敵の大将が目の前にいるのだ。ここでアーモルジュを殺せば勝てる。それを考えなかった者はいないだろう。
「ちっ……!」
ラスディオは鋭く舌打ちを漏らすと、彼もまた剣の柄に手をかけてアーモルジュの傍に寄った。一触即発の空気が流れる中、アーモルジュは常と変わらぬ自然な態度で柔らかい視線をジェイルに向けた。そして穏やかな口調で彼にこう告げる。
「隊長、人払いを。どうしても貴方に話したいことがある」
ジェイルは探るような視線をアーモルジュに向けた。アーモルジュはその視線を、拒むことなく真っ直ぐに受け止める。そして数秒の後、ジェイルは兵士たちに外に出ているように命じた。アーモルジュも同じく、ラスディオに外で待つように告げる。
「それでカディエルティ侯爵、人払いをしてまで話したいこととは一体?」
「隊長の忠義、まことに見事。しかし、アザリアスにその忠義を受けるだけの資格がありますかな?」
「……陛下は正当な皇王。資格と言うのであれば、それだけで十分なはず」
「いや、断言しよう。アザリアスにその資格はない」
「……そう言い切るだけの、証拠をお持ちか?」
無論、と言ってアーモルジュは懐から一通の手紙を取り出した。それはブルミシェスが彼に宛てた、あの手紙である。ジェイルは訝しげにしながらもその手紙を受け取り、そして読み始めた。そして読み進める内に、彼の顔色は瞬く間に変わっていった。
「侯爵殿、これは……!」
「それが、このたび儂が兵を上げた最大の理由じゃ」
強い声でアーモルジュがそういうと、ジェイルは「むうぅ」と唸り声を上げた。見せられた手紙の内容はあまりにも重大で、そのためジェイルは少なからず混乱していた。
「……一晩、時間を頂きたい。降伏するのであれば、明日の夜明け頃に皇都の正門を開きましょう。門が開かねば降伏はせぬものとご理解いただきたい」
十数秒ほど考え込んだ後、ジェイルはそう答えて読んでいた手紙を返した。アーモルジュは一つ頷いて手紙を受け取るとそれを懐にしまう。そして最後にジェイルに対しこう言葉をかけた。
「先程も申し上げたが、隊長の忠義はまことに見事じゃ。しかし忠義を捧げる相手を見誤ってはならぬ。己の忠義を誰に捧げるべきなのか、今一度よく考えてみくだされ」
そんな言葉を残して、アーモルジュはラスディオと共にカディエルティ領軍の陣に戻った。
そして翌日、皇都アルヴェーシスの正門は日の出と共に開け放たれた。それを見届けると、アーモルジュは満足げに頷く。そして馬に跨ると、全軍にこう命じた。
「よいか、皇都の民に危害を加えてはならぬ! もし略奪・狼藉を働く者あらば、誰であろうとも厳罰に処す!」
まず最初にアーモルジュはそう命じた。「厳罰に処す」と宣言した彼の言葉は張ったりではない。実際、先の内乱で女を襲った兵を彼は手ずから斬っている。
「狙うは簒奪者アザリアスのみ! 奴を生かして捕らえ儂の前に連れて来い!」
おお! と全軍が応じた。それを聞いてから、アーモルジュは馬首を翻す。彼が見据える先にあるのは、大きく開け放たれた皇都の正門だ。
「全軍、出撃!」
アーモルジュがそう号令をかけると、カディエルティ領軍は一斉に動き出した。開け放たれた正門を潜り、そこから真っ直ぐに伸びる大通りを駆け抜け、わき目も振らずにアザリアスのいる宮廷に向かう。
「武器を捨てよ! 降るもの全ての命を保証する!!」
抵抗らしい抵抗は何もなく、カディエルティ領軍はいとも簡単に宮廷内に侵入した。そしていたるところで降伏を呼びかけながら、宮廷内の各部署を迅速に制圧していく。
やがてアーモルジュは謁見の間に来た。彼が見据える先にあるのは、一つの豪奢な椅子。言うまでもなく玉座である。
「レイスフォール陛下……」
アーモルジュは思わずその名前を呟いた。誰を陛下と呼ぶべきなのか、そのこと自体に彼は強いこだわりを持たない。だから傀儡に過ぎぬと分かりきっていたフロイトスの即位と戴冠も認めた。だが、尊敬の念を込めて「陛下」と呼ぶことができたのは、後にも先にもレイスフォールただ一人だけだった。今でもこうして玉座を見れば、そこに座る彼の姿を幻視する。
だからこそ、アーモルジュはアザリアスが許せなかった。彼は最後の最後でレイスフォールの治世に泥を塗ったのだ。その罪は、償わせなければならない。
「御館様! アザリアスを捕らえました!!」
カディエルティ領軍が宮廷内に突入してからおよそ2時間後。その報告がアーモルジュの元にもたらされた。彼は一つ頷くと、アザリアスをここに連れてくるよう命令する。しばらくすると、両脇を兵士に抱えられたアザリアスが謁見の間に連れてこられた。
「離せっ!! 余を誰と心得る!? 余は皇王であるぞ!!」
アザリアスは髪を振り乱し、目を血走らせ、唾を飛ばしながらそう喚く。時折身体をよじっているが、屈強な兵士たちを振り払うことはできない。無理やり歩かされてアーモルジュの前まで来ると、そこで膝を折って膝立ちにさせられる。
「カディエルティ侯爵!! 皇王たる余に対しこの所業! 無礼であるぞ!!」
「はて、皇王陛下が一体どこにおられると?」
アーモルジュがそう言ってすっ呆けてみると、アザリアスは顔を真っ赤にした。そしてこう叫ぶ。
「貴様!! 錯乱したか!?」
「錯乱しているのは貴様の方であろう、アザリアス」
血走った、獣のような目をしているアザリアスを冷徹な目で見下ろしながら、底冷えのするような声でアーモルジュはそう言った。彼の内に秘めた激しい怒りを感じ取り、アザリアスは一瞬言葉を失う。しかしすぐに怒りで顔を赤くし、そしてこう叫ぶ。
「何を言うか! 正当なる皇王に叛旗を翻した謀反人め! 忠臣というのは人の目を欺くための仮面であったか!? 貴様を信じておられたレイスフォール陛下も、報われぬことよ!!」
「貴様がそれを言うか!?」
アザリアスがレイスフォールの名を出すとアーモルジュはついに声を荒げ、そして右の拳を握り固めて振りぬいた。殴られたアザリアスの左の頬が大きく腫れる。彼の口の端からは細い血の筋が流れ落ちた。
「……今ここに儂がいること。そのことについて言い訳をするつもりは無い。しかし、しかしじゃ! 忠臣のふりをして周りを欺いていたなどと、お前に言われることだけは我慢ならん!!」
「なっ、何を言う! 余が一体何を……!」
「レイスフォール陛下のご遺志を無視し、そのご遺書を書き換えた!!」
アーモルジュがそう言った瞬間、今度こそアザリアスは言葉を失った。怒りで赤くなっていた顔も、血の気が引いて青白くなっている。さらに、その場にいたカディエルティ領軍の兵士たちも「まさか」という顔をしてアーモルジュのほうに視線を向けた。
「なっ……!? で、出鱈目だ!」
「これを見ても、まだそう言えるのか!?」
そう言ってアーモルジュが突きつけたのは、ブルミシェスが彼に宛てて書いた手紙、否、遺書だった。突きつけられたその文面を読むと、アザリアスの顔色がさらに青白くなっていく。そしてさらに、彼は怯えたかのように歯をガチガチと鳴らし始めた。
ブルミシェスがアーモルジュに宛てた遺書。そこには、いかにしてレイスフォールの遺書が改竄されたのか、その全てが記されていた。