交誼の酒16
――――ここが、サザーネギアか。
船から下り、ガルネシア海の北の湖畔に立ったカルノーは、目の前に広がる大地を見て感慨深いものを感じながらそう思った。皇都アルヴェーシスを出立し、メルーフィスを経てナルグレーク帝国の領内を横断する大遠征。一度の戦闘もなかったとはいえ、これだけで一大事業である。それを成し遂げ、ついにカルノーは隷下3万の軍勢をサザーネギアに導いたのである。
しかしながら彼らの今の状況は、当初考えていたものはとは大きく異なっていた。この遠征軍の別働隊たるアルヴェスク皇国近衛軍3万のすぐ近くには、あろうことかサザーネギア軍(グリフィス領軍)4万が陣取っているのだ。
現在、サザーネギアはギルヴェルスとの戦争状態にある。そしてアルヴェスクはギルヴェスクの同盟国として、その戦争に援軍を出している。つまり端的に言って、サザーネギアとアルヴェスクは敵国同士である。
それなのに、両軍はいっこうに戦いを始める気配がない。アルヴェスク軍は粛々と船から降りて移動の準備を整え、サザーネギア軍はそれを淡々と見守っている。確かに緊張感こそ漂ってはいるが、戦場の狂気に比べれば遥かにぬるい。
この両軍の状態には、無論理由がある。アルヴェスク軍はグリフィス公爵アレスニールに招かれ、この地に赴いてきたのだ。
「オスカー将軍。ようこそ、サザーネギア連邦へ。歓迎いたしますぞ。少なくとも、私は」
カルノーに近づき、冗談めかした口調でそう言ったのは、彼らをこの地に招いたアレスニールその人である。
彼はカルノーの意見を聞きながら(とはいえそれはほとんど交渉そのものだったが)、この戦争を終わらせるための講和条件の素案を作成した。ただしそれだけでは意味はなく、これをグレンデン丘陵地帯で戦う両軍に対して提示する必要があった。その際アルヴェスク軍を率いて同行してくれるよう、アレスニールはカルノーに求めたのである。
これは、作成した素案に対し、すでにアルヴェスク側の合意が得られていることを知らしめるのが目的だった。要するに既成事実を積み上げることで、エルストとエドモンドに圧力をかけるのだ。
ちなみに、アルヴェスク側の最終的な意志決定権は本隊を率いるラクタカスにあるはずなのだが、しかしカルノーは明言こそしていないものの、ほぼ確実に彼の同意は得られるものと確信している。なぜなら、それだけの権限を彼は摂政ライシュハルトから与えられているのだ。
アレスニールの求めに、カルノーはすぐさま応じた。停戦にしろ終戦にしろ、和平に向けた合意形成への圧力が高まることは彼にとっても望ましい。また、当初の計画になかったこの動きについて、ラクタカスに直接説明する必要もあるだろう。
なにより、「南から侵攻し、サザーネギア軍の背後に奇襲をかける」という別働隊の戦略目的は、アレスニールに露見したことでほぼ達成不可能になっている。しかしだからと言って、このままナルグレークの領内に居座り続けることもできない。本隊と合流するためにも、安全にガルネシア海を渡れるこの機会はカルノーにとっても好都合だった。
「ところで、奥方の具合はいかがですかな?」
「医師から貰った薬が効いたようで、船酔いもせずにすみました」
カルノーがそう答えると、アレスニールも「それはなにより」と言って莞爾と笑った。
アレスニールとの協議が終わり、別働隊をサザーネギアへ渡らせる算段が付くと、カルノーは先延ばしにしていた問題に結論を出さなければならなくなった。すなわち、妊娠が発覚したジュリアをどうするのか、という問題だ。
理想的なのは、安心して子供を産める環境を整えることができて、信頼に足る人物にジュリアを預けることだ。しかし、異国の地でその条件を完全に満たすことはほぼ不可能と言っていい。
散々悩んだ末に、カルノーはある結論を出した。そして、それを聞いた副将のジェイルや副官のイングリッドは唖然とし絶句した。
『ジュリアをグリフィス公爵に預けようと思います』
カルノーはそう言ったのだ。彼の屋敷においてもらえれば、世話をしてくれる人は多くいるだろうし、また優秀な医師に見てもらうことができる。安心して子供を産むことができるだろう。
しかしその選択には、大きな不安要素も付きまとう。
『万が一、交渉が決裂した場合には、ジュリア様とお子様が人質にされてしまいます!』
ジェイルは血相を変えてその点を指摘する。イングリッドも難しい顔をしながら、その言葉に大きく頷いた。
もちろん、カルノーもそのことは承知している。そして、承知した上でその決断を下したのだ。
和平交渉は必ず成る、と楽観しているわけではない。だが仮に交渉が決裂し、カルノーがサザーネギア軍と戦うことになり、そのためにジュリアが人質にされたとしても、アレスニールは彼女と子供を殺しはするまい。
サザーネギア軍が勝てば、ことさらジュリアと子供を殺す必要はない。その後のアルヴェスクとの交渉において使えばいい。逆に負けた場合、殺すことはできない。グリフィス公爵家を存続させるために、彼女と子供の存在は非常に重要になるからだ。
確証はない。無論、保証も。重要な人質を殺してしまったサンディアスの例もある。あるのはただ、カルノーが見込んだアレスニールの人となりだけだ。
『将軍はその時、戦えるのですか……?』
『……戦わねば、ならないでしょう』
若干の怯えさえ滲む声で尋ねたジェイルに、カルノーは硬質な声でそう答えた。それだけの覚悟をもって、彼はこの決断を下している。そしてその同じ覚悟を、ジュリアもまた共有していた。
『いざという時には、わたしのことは気にするな』
カルノーの決断を聞いたとき、ジュリアは真っ直ぐな眼差しを彼に向けてそう言った。その上、「足手まといになるくらいなら自決する」とまで言い、その覚悟が決して誇張ではないことを知るカルノーを大いに慌てさせた。
『なぜ、グリフィス公爵なのですか……?』
まるで己の無力さを恨むかのような声で、ジェイルはその当然の疑問を口にした。環境だけを考えるなら、ナルグレーク帝国でもそれを整えることは可能だろう。アントニヌス将軍に相談すれば、適当な人物を紹介してくれるに違いない。何なら診察してくれたあの老医師に、十分な金銭と一緒にジュリアを預かってもらえばいいのだ。
なにも人質にされる、少なくともその危険性が高い人物に頼る必要などないではないか。ジェイルは懇願するようにそう言った。
その言い分はカルノーにも分かる。しかしそれならばなぜ、グリフィス公爵を頼ろうと思ったのか。その理由は彼自身にも釈然としない。アレスニール本人の人となりをある程度知ることができたからというのはあるが、彼とは会ってまだ数日程度しか経っていない。身重の妻を託す理由にしては弱い。
ただ、これもまた確証も保証もないのだが、アレスニールは少なくともアルヴェスクとの戦いを望んでいない、とカルノーは感じている。だがそれにしても、理由としてはやはり弱い。それでカルノーは結局、理由を明確に説明することはしなかった。
余談になるが、この決断はカルノーとジュリア、そして今はまだ生まれていない子供の運命を大きく決定付けることになる。それがどのようにしてであるかは、またこの先で語ることとしよう。
閑話休題。陣内に身重の妻がおり、さらに彼女を公爵家の屋敷で預かって欲しいとカルノーから言われたとき、アレスニールは彼らしくもなく言葉に詰まって動揺をあらわにした。何とか動揺を収め、ほとんど睨むようにして彼はカルノーの真意を探る。そして彼が間違いなく本気であることを悟ると、今度はどこか困ったような笑みを浮かべた。
『……私のほうに否やは有りませぬが、よろしいのですかな?』
『ええ、よろしくお願い致します』
カルノーがそう答えると、アレスニールはますます困ったようにして笑みを浮かべた。しかし同時にその笑みは、どこか喜んでいるようにも見える。ただ、カルノーはその笑みに嫌忌の念を感じない。彼はそのことに、少しだけ胸を撫で下ろした。
サザーネギアに到着し、カルノーがアレスニールと話していると、ジュリアが船から下りてきて夫の隣に立った。彼女がアレスニールと顔を合わせたのはこの時が始めてである。あらかじめ話はしておいたものの、カルノーは改めて彼に妻を紹介した。
「グリフィス公爵。これが私の妻のジュリアです」
「ジュリアと申します。ご迷惑をお掛けすると思いますが、どうぞよろしくお願い致します」
そう言ってジュリアが慇懃に挨拶を述べると、アレスニールもまた莞爾と笑ってそれに応じた。
「夫人のお噂はかねがねお聞きしておりますぞ。実は、オスカー将軍はもちろんですが、夫人にもお会いしてみたかったのです。それが叶い、今日は実に良い日です」
社交辞令とも思えぬ優しげな声で、アレスニールはそう言った。そして目元を少しだけ引き締め、しかし変わらず優しげな声でこう続ける。
「すでに、屋敷の方には使いを出して、準備を整えさせてあります。使用人たちにも言い含めてありますので、どうぞご自分の屋敷と思ってお過ごしください」
彼のその温かい言葉に、カルノーとジュリアは揃って頭を下げて感謝を表した。
別働隊のアルヴェスク軍3万が全て上陸を終えて出立の準備が整うと、彼らはそのまま北へ向かって移動を開始した。ただし移動するのはアルヴェスク軍だけではない。ガルネシア海の湖畔に陣取っていたグリフィス領軍4万のうち、2万をアレスニールが率いて彼らの前を先行している。残りの2万はそのまま湖畔に残り、対岸にいるナルグレーク軍の動向を警戒することになっていた。
「ジュリア、身体は大丈夫ですか?」
「うむ。大事無いぞ」
明るい声でジュリアはそう答える。適当な馬車を用意することができなかったため、彼女は例の黒毛の駿馬に乗っていた。ただしいつものように跨って乗るのではなく、鞍に柔らかいクッションを置きその上に横座りになって乗っていた。手綱を握ることもせず、兵の一人が彼女の乗る馬を引いている。
カルノーは少し心配そうな顔をしていたが、本人の言うとおりジュリアの体調は良さそうだった。天候も麗らかで、甘い薫香を含んだ風が心地よい。ジュリアは馬上でその風を存分に吸い込み、また移動中の景色を楽しんでいる。それを見て、カルノーもまたつい眼を細めた。
さて、カルノーらがまず向かったのは、ガルネシア海から北へ10キロほどのところにある、〈ランプゼン城砦〉である。10万規模の軍勢が駐留可能な巨大な城砦であり、明らかに南方、つまりナルグレーク帝国の侵攻に備えてのものだった。余談になるが、ガルネシア海の湖畔にいたグリフィス領軍4万も、もとはこのランプゼン城砦に駐留していた部隊である。
このランプゼン城砦に入って、サザーネギアに渡ってからの、初日の行軍は終わった。城砦の一画にはジュリアのための部屋も用意されている。その部屋には、無骨な城砦には似合わぬ可憐な花が飾られていて、アレスニールの細やかな心遣いが伝わってくる。
「ささやかではありますが、晩餐を用意いたしました。奥方もご一緒にいかがですかな?」
その日の夜、アレスニールはそう言ってカルノーとジュリアを晩餐に招き、二人は喜んでそれに応じた。男二人には赤ワインが用意され、妊娠中のジュリアには温かいミルクに蜂蜜を混ぜたものや爽やかな果実のジュースが供せられた。
晩餐に出された食事は、決して豪華ではなかったが、しかし手の込んだ料理ばかりだった。特に柔らかくなるまで煮込まれた牛筋肉のシチューは絶品で、恐らくは数日も前から用意していたものと察せられた。
晩餐でなされる会話もまた楽しいものだった。この戦争のことはあえて口にしない。三人とも、お互いの国のことを聞きたがった。アルヴェスクとサザーネギアは互いにとって遠い異国であり、その話はどれも興味深いものばかりだった。
「いやあ、オスカー将軍は博識でおられる。文武両道とは、まさに将軍のためにあるような言葉ですな」
「いえ、私などは。公爵殿こそ、幅広い分野に深い造詣をお持ちでいらっしゃる。ぜひ見習いたいものです」
そう言ってカルノーとアレスニールは互いを讃えあった。そんな二人を、ジュリアはどこか眩しそうに見ている。アレスニールは上機嫌なままワインを飲み干し、そしておもむろにこう言った。
「……サザーネギアとアルヴェスクは国境を接しておらず、それゆえお互いが脅威になる心配は少ない。本来であればもっと良い関係を築けると思うのですが、将軍はいかがお考えですかな?」
「さて、私は一介の武人に過ぎません。国同士の話は、私には荷が重いでしょう」
そう言ってカルノーは自分の考えを述べることを避けた。それは彼の立場からすれば当然のことだったので、アレスニールも不満に思うことなく鷹揚に頷いて見せた。
「では、将軍ご自身に関係することなら、お聞きしてもよろしいですかな?」
「構いませんが……、一体なんでしょうか?」
カルノーがそう聞き返すと、アレスニールはにんまりとした笑みを浮かべながらこう続けた。
「実は、私にはデルフィーネという孫娘がいるのですが、第二夫人として将軍の傍に置いてくださいませんかな?」
「な……!?」
あくまでも軽い調子で話すアレスニールの言葉に反応したのは、カルノーではなくジュリアのほうだった。彼女は顔を強張らせ、思わず立ち上がる。
「こ、公爵殿……! そ、それは一体……!?」
「オスカー子爵家と我がグリフィス公爵家の間に縁が生まれれば、ひいては両国の平和と繁栄にも繋がりましょう。ここは一つ、前向きに検討しては下さいませんかな?」
人を篭絡するための、一見すれば柔らかい笑みを浮かべながら、アレスニールはカルノーにそう迫る。迫られた当人は困ったように苦笑するばかりだが、傍で聞いているジュリアは居ても立ってもいられない。
「い、いやしかし公爵殿! い、今その話をなさるというのは、性急が過ぎるのではありませぬか!?」
「まあ、孫はまだ二歳ですがな」
笑い出すのを堪えるようにしながら、あっけらかんとアレスニールはそう言った。
「二歳……!?」
二歳ですでに婚約者が決まっていることはよくあるが、しかし二歳で実際に嫁入りするなどという話は聞いたことがない。まるで悪戯を成功させた子供のように得意げな笑みを浮かべるアレスニールを見て、ジュリアはようやくそれが彼の冗談であったことを悟る。気が抜けたのか、呆けたように立ち尽くす彼女を見て、カルノーは苦笑しながらアレスニールにこう言った。
「あまり、妻を興奮させないで下さい」
「これは失礼いたしました」
両手を挙げて、アレスニールは大仰に詫びてみせる。それを見てジュリアはようやく気を取り直して席に座った。ただ、第二夫人の話がよほど気に入らなかったのか、席に座りなおしても“つん”として拗ねたような表情が消えない。そんな彼女の姿をみて、その後ろでは給仕をする侍女が笑いを堪えていた。もちろん、そのことにジュリアは気付いていない。
「まあ、第二夫人の話は当面冗談ではありますが、しかし将軍はご自分の価値というものをもう少し認識された方が良い」
先程までよりも幾分真剣な声でアレスニールはそう言った。それに対し、カルノーはただ苦笑を浮かべながらこう返す。
「かいかぶりですよ。近衛将軍と言う役職を得てはいますが、私自身は領地も持たぬ一介の子爵に過ぎません」
「そして摂政ライシュハルト殿下の義弟でもある」
アレスニールがそう付け加える。カルノーはただ、困ったように笑みを浮かべるばかりだ。
「将軍は先程、ご自分のことを『領地も持たぬ一介の子爵に過ぎぬ』と仰いましたが、それゆえにこう考える者もいるのではありませんかな?」
例えば、世継を持たぬ伯爵以上の爵位を持つ家が、カルノーを世子として迎えたいと申し出る。彼を世子とすれば、その家は自動的に摂政の外戚となる。これでその家の繁栄は約束されたようなものだ。血筋については、カルノーの子供と一族の子供を婚約させればよい。
「いや、しかしそれではオスカー子爵家が消えてしまいます」
そのように反論したのは、カルノーではなくジュリアだった。家名と家の存続が、貴族にとっては命よりも重要であることを、彼女はよく知っている。自分の家を潰してしまっては、栄達でもなんでもない。
「しかし将軍ご自身は、オスカー子爵家という家名にさほど執着しておられないのではありませぬかな?」
その問い掛けに、カルノーはただ曖昧な笑みだけを返した。しかし実際のところ図星である。ほんの数年前まで騎士家の三男坊でしかなかった彼は、「家を守る」という意識がまだ希薄なのだ。そのため、「オスカー子爵家がなくなる」と言われても、そのことにあまり危機感を覚えない。
「それに子爵家の跡取りであれば、それこそ将軍のご子息を据えられればよい。摂政殿下も反対なさらないでしょう」
アレスニールはそう言い切った。確かにカルノーに息子が二人以上いればそういうことも可能になる。息子がいないのなら、ライシュの子供を養子にもらい、その子を世子とすることだってできるだろう。
「しかし現実問題として、そのようなことを考える方はいらっしゃらないでしょう」
カルノーは苦笑しながらそう言った。しかし、それに答えるアレスニールの声は思いがけず真剣だった。
「いいえ、います」
「グリフィス公爵……?」
「他ならぬこの私が、それを考えました」
それを聞いて、カルノーは思わず目を大きく見開いた。その隣で、ジュリアもまた絶句している。アレスニールはおもむろに居住いを正し、そんな二人を真っ直ぐに見据え、これまでで最も真剣な口調でこう言った。
「オスカー将軍。いえ、カルノー殿。貴方を我がグリフィス公爵家の世子としてお迎えしたい」




