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アルヴェスク年代記  作者: 新月 乙夜
結の章 交誼の酒
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交誼の酒12

 時間は少し遡る。ラジェルグ将軍が先遣隊を率いてグレンデン丘陵地帯でサザーネギア軍と相対していた頃、カルノーはフラン・テス川の終点であるガルネシア海の南側の湖畔に来ていた。このガルネシア海の北対岸がサザーネギア連邦である。ちなみにガルネシア海は巨大な湖で、フラン・テス川以外にも大小幾つもの河川が流れ込んでいた。


 ガルネシア海は美しい湖だった。水が驚くほど透明なのである。浅瀬に止めたボートが、まるで宙に浮いているかのようにさえ見えた。ボートの陰が水底に写るのだが、水が透明すぎてその間に何もないように見えるのだ。その光景に、芸術とはとんと縁のない近衛軍の兵士たち(カルノーを含めて)でさえ、感嘆の声を上げることになる。


「ようやくここまで来たか……」


 広大なガルネシア海の水平線を馬上より眺めながら、カルノーは感慨深げにそう呟いた。メルーフィス、つまり大陸の南部から出発して北上し、ついにこのガルネシア海にまで来た。頭の中に大陸地図を思い浮かべれば、もう北部と呼んで差し支えない場所である。随分遠くまで来たものだった。


 しかしながら、ここは決して終着点ではない。彼らはここからさらにガルネシア海を渡って北上し、サザーネギアに入る。つまりガルネシア海の対岸こそが、彼らの終着点といえた。


 とはいえ、終着点についてそれで終わりではない。むしろサザーネギアに入ることは始まりである。サザーネギアに入ってようやく、カルノー率いる別働隊は本格的な軍事行動を開始するのだ。


 ただ、今すぐにガルネシア海を渡ることはできない。別働隊の戦力は総勢で3万だが、今ここにカルノーと一緒にいるのは騎兵が1万のみ。フラン・テス川を船で下ってくるはずの歩兵2万がまだ合流していない。


 いくら騎兵の足が速いとはいっても、本来なら船で移動した方が速いだろう。しかしフラン・テス川は西に大きく湾曲して流れている。そのため、ガルネシア海を目指した場合には移動距離が違った。


 それで、結果的に最短距離(とはいえもちろん全くの直線ではないが)を移動してきた騎兵隊の方が早く着いてしまった。それで歩兵と合流するべく、しばしの間待たなければならなかった。


 ちなみに案内役のナルグレーク兵の話によれば、「遅くとも七日以内には到着するだろう」とのこと。ここまで休みなしで駆けて来た兵と馬には、ちょうど良い休息期間になるだろうとカルノーは思った。


「オスカー将軍、こちらへ」


 ガルネシア海の湖畔には人口が3万人程度の街がある。漁業と農業が盛んな街だ。その街の郊外にナルグレーク軍が陣を張っていた。カルノーと騎馬隊はひとまずそこへ案内された。


「将軍、ようこそおいでくださった」


 陣に入ったカルノーを一人の男が出迎えた。年の頃は四十の半ばほどか。立派なマントを身につけており、彼がこの陣の兵たちを統率する将であるに違いなかった。


「お出迎え、痛み入ります」


 カルノーは素早く馬から降り、彼と握手を交わす。男は名をアントニヌスと名乗った。かつてフラン・テス川でカルノーと戦った、ナルグレーク帝国の将軍である。過去に因縁のある二人だったが、こうして顔を合わせるのは初めてだった。


 挨拶程度に言葉を交わしてから、二人は陣の中を歩き始めた。しばらく歩くと、カルノーはあることに気がつく。


「兵が、多いのですね……」


 陣中を見渡す彼のその呟きを聞いて、アントニヌスは一瞬だけ獰猛な笑みを浮かべる。そして「なにぶん輜重が多いものですから」とその理由を答えた。


 アントニヌスと別れ、用意されていた天幕に入って一人になると、カルノーは彼の先ほどの言葉を思い出す。この陣に保管されている輜重が多いのは事実だろう。なにしろカルノーらが使う輜重もここに集められているのだから。


 しかしそれにしても、ナルグレーク兵の数が多いように思える。カルノーの目算だが、陣の大きさからしてここにいる兵の数はおそらく5万以上。戦争ができる戦力である。ただ輜重を運びまた守るためだとすれば、明らかな過剰戦力だ。


(我々を警戒しているのか……?)


 まずカルノーが考えたのは、その可能性だった。いくら約定を定めてのこととはいえ、3万もの他国の軍勢を国内に入れるのだ。街も近くにあることだし、これを警戒するのは当然のことのように思える。


 しかしカルノーはその可能性に引っ掛かりを覚える。彼の脳裏に浮かぶのは、先程アントニヌスが一瞬だけ見せた、あの獰猛な笑みだ。あの笑みからは、戦場の臭いがした。


「もしや……」


 ナルグレークは本格的に軍を動かし、戦をするつもりなのか。カルノーはそう思った。だとすればその相手はどこか。


 アルヴェスクではあるまい。そうであれば、カルノーらがこれほど街の近くに来ることを許すはずがない。もっと早く、歩兵と騎兵が二手に分かれた時点で、動きを見せているはずだ。


 ならば一体どこが相手なのか。その疑問の答えはすぐに出た。すなわち、サザーネギア連邦である。


(漁夫の利を得るつもりか……)


 サザーネギア軍がギルヴェスクとアルヴェスクの連合遠征軍と戦っているその隙に、ガルネシア海を渡って何州かを切り取る。それがナルグレークの思惑だろう。そのことに思い至ると、呆れるよりむしろ感心して、カルノーは苦笑をもらした。よくよく、どんなときでも領土的野心を失わぬものだと思う。アルヴェスクを利用しているわけなのだが、そのことになぜか怒りは湧かなかった。


 むしろ、なぜすでに行動を起こしていないのかとさえ思う。その理由もすぐに察しがついた。要するに別働隊を囮にしたいのだ。徹底しているな、とカルノーは頭を小さく振って苦笑を深くした。


 釘を刺しておこうかと思ったが、すぐに止める。ナルグレークのこの動きは、アルヴェスクと結んだ約定外のものだ。約定が守られている限り、カルノーに口出しをする権利はない。


(それに……)


 それに、巧くやればむしろカルノーらがナルグレーク軍を囮に使うこともできるだろう。

新たな領地を切り取るべく奮戦するナルグレーク軍の方にサザーネギア側の目が向けば、カルノー率いる別働隊は行動しやすくなる。


 サザーネギアはアルヴェスク人であるカルノーらにとって全くの未知の土地だ。いくら綿密な下調べをしてきたとはいえ、やはり不安は大きい。そこでの行動がしやすくなるというのであれば、それはそれで歓迎するべきことだろう。


(エルストの牽制にもなるかもしれないし、な……)


 苦いものを感じつつも、カルノーは胸のうちでそう呟いた。エルストは今回の遠征でサザーネギアの全国土を併合するつもりでいる。だがナルグレークがそこに割り込み、何州かを切り取ってしまえば、当然その野望はかなわない。ギルヴェルスの、いやエルストの力が増すのを妨げるという意味では、ナルグレーク帝国の介入はそう悪いことではないように思えた。


「なんにしても、まずは歩兵を待たないとだな……」


 カルノーは小さくそう呟いた。歩兵2万が合流しないことには何も始まらない。遠征軍本隊の動きは気になるが、しかしここからでは調べようもない。むしろ、彼らがむやみに動けばナルグレーク軍はいい顔をしないだろう。


 結局、大人しくして待つほかない。兵たちには近くの街に繰り出す許可を出してもいいだろう。当然、問題を起こした者は厳罰だが。


 ただ、カルノー本人にその時間があるかは疑問だった。大体の内容は頭に入っているが、資料の再確認など、待っている間にもやる事は多い。気楽に観光している暇は無さそうだった。


「やれやれ……」


 そう呟いて苦笑しつつ、カルノーは天幕の中で資料を広げる。後でナルグレーク側が用意してくれた輜重も確認しておかなければなるまい。彼は資料を眺めながらやるべき事を頭の中で整理していく。


 フラン・テス川を船で下ってきた歩兵2万がガルネシア海の湖畔でカルノーと合流するのはこの四日後。結局、彼はその間、時間の都合をつけて街へ繰り出すことはできなかった。



□■□■□■



 歩兵を乗せた船団が、ガルネシア海に到着した。その報告を副官のイングリッドから受けると、カルノーは一瞬だけ鋭い表情を見せ、しかしすぐにもとの穏やかな表情に戻り、「分かりました」と応えた。


 天幕を出ると、カルノーはイングリッドを連れて陣の近くにあるガルネシア海の船着場へ向かう。彼が船着場に着くと、そこにはすでに何隻もの船が到着していた。同僚を出迎えに来た兵もいて、船着場は賑わっていた。


 賑わっていたが、その様子が少しおかしいことにカルノーは気付く。賑わっているというよりは、むしろざわついている。どうも合流を喜んでいる雰囲気ではない。そして、その理由はすぐに分かった。


 船から降りてくる人々の中に、一際目を惹く長い銀髪が見える。間違いなく、カルノーの妻であるジュリアのものだ。しかし彼女の様子が、いつもと違う。凜と立ついつもの姿ではなかったのだ。


 彼女は、弱っていた。生気に溢れ、いつも快活な笑みを浮かべていた顔からは血の気が引いている。彼女は苦しげに顔を歪めて一人の兵の肩をかり、周りに気遣われながらゆっくりと船から降りてきた。


「ジュリア!?」


 全身の血の気が引くのを感じながら、思わずカルノーは悲鳴じみた声を上げた。なぜジュリアがここにいるのかということよりも、彼女の身に一体何があったのか、その疑問が彼の頭を埋め尽くした。


「ジュリア! 一体、何が……!?」


 カルノーはジュリアのもとに駆け寄ると、その身体を肩を貸していた兵から受け取り抱き寄せる。名前を呼ぶ声が聞こえたのか、彼女が薄っすらと目を開けた。


「カ、ルノー……? 心配するな……、ただの、船酔いじゃ……。大事、ない……」


「喋らないで……!」


 ジュリアは気丈にも笑おうとしたが、しかし上手く笑えてはいなかった。そんな彼女の様子はどう見ても“大事ある”状態だ。熱があるらしく、粗い呼吸を繰り返している。意識も朦朧としているようで、視点が定まらない。


 カルノーはすぐさまジュリアの身体を抱き上げた。そして矢継ぎ早に指示を出す。


「私の天幕に運びます。イングリッドは先に戻って用意を。それと誰か医者の手配をお願いします」


 その言葉に一つ頷き返事を返してから、イングリッドが駆け出す。その後を追うようにして、カルノーも歩き出す。腕に抱いたジュリアに負担をかけないようにゆっくりと急ぐ。それがひどくもどかしい。


 カルノーが天幕に戻ると、広げていた資料は片付けられ、寝台は整えられていた。指示を受けたイングリッドの仕事だ。彼はすぐにそこへジュリアを横たえその身体に毛布をかける。


「カル、ノー……」


 ジュリアが夫の名前を呼びながら弱々しく手を伸ばす。その手をカルノーは両手で包み込むようにして掴んだ。


「大丈夫、すぐに医者も来る」


 その言葉を聞いたからか、あるいはカルノーに手を握ってもらったからか。ジュリアは安心したように小さく笑った。それを見て、カルノーもまた少しだけ胸を撫で下ろした。


 しばらくして、カルノーの天幕に医者がやってきた。頭の髪の毛が全て真っ白になっているその老医師にジュリアのことを任せると、彼はひとまず天幕の外に出た。


「将軍……! この度のことは全て私の責任です。処分はいかようにも……!」


 カルノーが天幕の外に出ると、とある人物がそこにいた。歩兵と騎兵が二手に別れた際、カルノーが歩兵部隊を任せた別働隊の副将ジェイルである。ジュリアのことで責任を感じているのだろう、彼は悲痛な表情をしながら、カルノーに対して頭を下げた。仮にここで手討ちにされたとしても、彼は文句を言うまい。


 もちろん、カルノーはこの場で彼を斬ったりはしなかった。それどころか彼を安心させるようにその肩に手を置き、穏やかな声でこう言った。


「まずは、事情を聞かせてください」


 ジェイルの話によれば、ジュリアがいることに彼が気付いたのは、歩兵部隊が船でフラン・テス川を下り始めてからのことだった。船倉で彼女を見つけたという報告が、彼のもとにもたらされたのである。


 彼は仰天しつつもすぐにジュリアのところへ向かい、彼女から事情を聞いた。


『どうしてこんなことをなさったのですか?』


『カルノーのことが、心配だったのじゃ。それに、一人で奴の帰りを待つなど、ご免じゃ!』


 彼の当然の問いに、ジュリアはばつが悪そうにしつつもはっきりとそう答えた。その答えを聞いた彼が「将軍、愛されているな」と少々羨ましく思ったのは秘密である。


『そもそも、どうやってここまでついてきたのですか?』


 輜重部隊に紛れてきたのだ、とジュリアは答える。それを聞いて、思わず彼は苦笑いしながら頭を抱えた。ちなみに、愛馬であるあの黒毛の駿馬は騎兵隊の予備の馬の中に紛れさせていたそうだ。


 別働隊は最初、全軍が陸路で移動していた。その間、当然のことながら食糧が必要になる。その食糧を運んでいたのが、ジュリアが紛れ込んだ件の輜重部隊である。ただしこの輜重部隊は別働隊、つまり近衛軍3万には含まれていない。食糧を運ぶためにメルーフィスの総督府から借りた部隊だった。


『……見つからなかったのですか?』


『見つかった。じゃが「船着場でカルノーを驚かせ、最後の激励をしてやりたい」と言ったら、そのまま黙っていてくれたのじゃ』


 事もなさげにジュリアはそう言う。それを聞いてジェイルはいよいよ本格的に頭を抱えた。彼女を見つけたのが近衛軍の兵士であれば、いくら頼まれても見逃すことなど決してしない。彼らのその、練度というか意識の低さには、怒りを通り越してもはや呆れ果てるしかなかった。


 そうやって輜重部隊の馬車の中に隠れながら、ジュリアはついにフラン・テス川の船着場にまで来た。ここまで物資を運んできた輜重部隊は、ここで折り返してメルーフィスへと戻る。しかし帰路につく輜重部隊の中に彼女の姿はなかった。彼女は輜重の積み込みに乗じて船内にもぐりこみ、そのまま出発まで船倉に隠れていたのだ。


 だが船倉などにいつまでも隠れていられるはずもない。現に、こうして見つかってしまった。しかしジュリアの顔に焦りは少しも見られない。ここまで来てしまえば自分を追い返すことなどもう出来ないと見透かされているのだ。


 メルーフィスへ戻る輜重部隊とは、もう別れてしまっている。馬は全てカルノーが連れて行ったから、船から降ろしてもジュリアには足がない。護衛の兵をつけることは可能だろうが、しかし「歩いてお帰りください」というわけにはいかないのだ。


(なにより……)


 なにより、ここはアルヴェスク皇国ではない。異国のナルグレーク帝国である。摂政ライシュハルトの妹でもあるジュリアに万が一のことがあってはならない。彼女の身の安全のことを考えればここに、つまりこの船団の中にいてもらった方が良いように思える。


(まったく、賢くてあらせられる!)


 ほとんどやけくそ気味に彼は胸の中でそう叫んだ。声に出して叫べないのが、彼の苦労の最たるところかもしれない。


 まあそれはともかくとして。こうしてジュリアは歩兵2万と一緒にガルネシア海を目指して川を下ることになったのだが、その最中に問題が起こった。彼女が体調を崩したのである。


 最初、ジュリアは「船酔いじゃ」と言っていた。実際、兵の中にも船酔いで体調を崩す者がいたから、恐らくそうなのだろうと誰もが思っていた。それでその日、彼女は早めに休んでいたのだが、しかし次の日になっても体調は回復していなかった。それどころか彼女は熱を出し、さらに体調を崩していたのである。


 熱のせいなのか、あるいは船酔いのせいなのか。ジュリアは食欲も失っていた。その上、食べてもすぐに嘔吐してしまう。発熱が続き、さらに十分に食べることもできず、彼女は衰弱していった。


「何度も街によって医者に診ていただくべきだと申し上げたのですが、『合流を遅らせるわけにはいかぬ』と、聞き入れてくださらず……」


 結局そのままこうして連れて来てしまった、というわけである。申し訳ありませぬ、とジェイルは頭をいよいよ深く下げた。そんな彼に、カルノーはただ苦笑を浮かべながら首を小さく振る。まったくジュリアらしく、その光景が目に浮かぶようだった。


 ジェイルから一通り事情を聞き終えると、ちょうど天幕から老医師が出てきた。ジュリアの診察が終わったらしい。カルノーが近づいて彼女の様子を尋ねると老医師は渋い表情を見せた。


「まったく、よくもまあ、あんな身体で……」


 老医師のその言葉を聞いて、カルノーの脳裏に不吉なものがよぎる。まさかなにか重い病でも患っていたのだろうか。同じ事を考えたのだろう。カルノーの少し後ろに立つジェイルも、焦ったような表情をしている。


 そんな二人に、老医師はふっと穏やかな表情を見せてこう告げた。


「おめでとうございます。ご懐妊でございます」


「…………は?」


 思わず、カルノーはそう聞き返してしまった。自覚も気にする余裕もないが、ずいぶんな間抜け面をさらしている。ちなみに副将の方も同じだった。そんな男二人に、老医師はもう一度こう告げる。


「ジュリア様は妊娠しておられます」


 心当たりは、無論ある。しかし、今ここでその言葉を聴くことになろうとは、まったく想像だにしていなかった。


 ――――まったく予想外の事態に直面すると、人間は本当に何もできなくなってしまうのだと、あの時まさに実感した。


 後にカルノーは、この時のことをそう書き残している。


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