薄氷の同盟18
大陸暦1061年8月23日。この日、解放軍はついにギルヴェルス王国王都パルデースに迫り、これに対し攻囲陣を敷いた。ただし、完全に包囲したわけではなく、ただ王都の西側にのみ陣を敷いている。
「これでは他の三方から物資や援軍が中に入ってしまいます。そうでなくとも、サンディアスが遁走した場合に捕らえることが困難です」
そう進言する者もいたが、それでもエルストは全体を攻囲することはしなかった。ここへ来た時点で、すでに戦略的な包囲は完成した。彼にはその自信があった。
現在、サンディアスは劣勢に立たされている。それに対し、ユーリアスは言うまでもなく優勢だ。この状況であえてサンディアスに味方するものがいるとは思えない。皆、傍観するかユーリアスのほうに尻尾を振るであろう。
捕らえられている貴族たちが命惜しさに兵を出すことはあるかもしれないが、しかし彼らとて本当はユーリアスの側に味方したいはず。サンディアスのために死力を尽くすことはないだろうし、ともすれば内通者になってくれる可能性もある。
そして内通者がいることを知れば、少なくともその可能性があることを知れば、サンディアスはその戦力を信頼できなくなる。篭城戦で味方を信じられずに疑心暗鬼に陥れば、待っているのは自滅だけ。それはエルストにとって都合の良い展開である。
さらに部下たちはサンディアスが王都から遁走することを心配していたが、エルストはそのことについて何も心配していない。そもそも、逃げて一体どこへ行くというのか。彼にはもう、王都とその堅牢な城壁に頼るほか道は無いのだ。
それに万が一遁走したとしても、なにも問題はない。ユーリアスが王都に入ってギルヴェルスを実効支配し始めれば、この国にサンディアスの居場所は無くなる。それにユーリアスは妻子を殺したサンディアスを許すまい。きっとどこまでも執拗に追って、彼の命を狙うだろう。サンディアスにとってそれは、篭城よりも辛い逃亡生活となるに違いない。
仮に決起したとしてもサンディアスに味方する貴族はいない。すぐさま鎮圧され、彼はその首を曝すことになる。その方が簡単でよいな、エルストは笑った。
「国外に逃れたらどうする?」
「その国へ攻め込むよい口実になる」
カルノーの問い掛けに、エルストは不敵な笑みを浮かべながらそう答えた。逃亡する先として真っ先に思いつくのは、ギルヴェルスの西の隣国であるサザーネギアか。友人の言葉が冗談なのか本気なのか、カルノーは咄嗟に判断が付かない。結局、冗談であることを願い、彼はただ肩をすくめるのだった。
さて、王都パルデース攻略戦を前に、エルストは解放軍の主だった者たちを集めて軍議を開いた。その冒頭、彼はまず敗残兵に紛れて王都に潜入させた1000名からなる部隊と無事に連絡が取れたことを報告する。解放軍が一方に対してだけしか攻囲陣を敷いていないため、他の三方は比較的手薄で、そのため外部との連絡も取りやすかったのだ。そしてさらに彼らからもたらされた情報を幕僚たちに伝える。
王都に立て篭もっているサンディアスらの戦力(ここから先は防衛軍と呼称する)は、戻ってきた敗残兵を加えて再編成し、およそ7万。その全戦力を預けられ、防衛戦の指揮を執るのはモリード。ただしこのモリードと言う男は、どうやら国外追放されたアルヴェスク皇国の元カディエルティ侯爵スピノザである可能性が高い。
「少し、いいかな?」
情報の報告が終わり、いよいよ本格的に軍議を始めようとしたその矢先、ユーリアスが手を上げて発言を求めた。これまでユーリアスが自分から発言することは少なかったが、しかし彼は解放軍の最重要人物。自然と出席者の視線は彼に集まった。
「義父上、いかがしました?」
「一つ、提案したいことがあってね」
ユーリアスがそう言うと、議場が少しだけざわついた。彼はこれまで、戦術的なことには口を挟んでこなかった。しかしその彼が、ここへきて提案したいことがあると言う。
「それで、その提案したいこと、というのは?」
エルストがそう言って先を促すと、ユーリアスはおもむろに立ち上がった。それを見てエルストは腰を下ろす。一人立つユーリアスは、一呼吸置いてから話し始めた。
「……皆も知っての通り、これは私とサンディアスの王位を巡る争いだ。アルヴェスク皇国の方々の力を借りているとはいえ、本質的にはギルヴェルス国内の内乱と言っていいだろう。
内乱が続けば国は疲弊する。もう十分だ。私は一日も早くこの戦いが終わることを希望する。それでまず、サンディアスに降服勧告を行うことを提案したい。愚弟がこの勧告に従って降服すれば、私は彼を許そう」
ユーリアスのその言葉を聞いて、軍議に出席していた者たちはざわめいた。サンディアスがユーリアスの妻子を処刑し、そのために彼が死ぬほどの絶望を味わったことは、解放軍にいるものならば誰もが知っている。そうであるのに、彼はそのサンディアスを許すという。
「…………ですが義父上、サンディアスが応じない場合はどうしましょうか?」
「その場合は仕方がない。彼を討とう。しかし時間をかけて王都パルデースを落すのは、私の望むところではない」
王都の中には、そこで暮らしている一般市民を多くいる。彼らを戦いに巻き込んでしまうことを、ユーリアスは嫌った。そこには解放軍の大半がアルヴェスク軍であることも関係していたのかもしれない。彼らがこの“敵国”でお行儀良くしていてくれる保証など、どこにもないのだから。
「しかし攻城戦とは時間がかかるもの。少なくとも一日や二日では終わりますまい」
「左様。王太子殿下におかれましては、何か秘策がおありなのでしょうか?」
「ある。だがまずは降服勧告をして、その返事を待つことにしよう」
ユーリアスにそう言われて反対できる者はいなかった。それで、まずは彼の提案通り降服を勧告する書状が作成され、使者を通してサンディアスに届けられた。その書状を読んだサンディアスは、すぐさま信頼する臣下であるスピノザにその是非について諮る。
「モリード、モリードよ。どうすればいい? ユーリアスは、兄上は降服すれば余を許すと言っているのだが……」
「陛下、このような甘言に惑わされてはなりませぬ。これは敵の罠にございます。ユーリアスが陛下を許すことなど、決してありませぬ。信じて出てゆけば、たちまち捕らえられて殺されてしまうでしょう」
スピノザはそのように答え、サンディアスはそれを信じた。彼の妻子を殺した自分を兄が許してくれるとはとても思えなかったし、また自分であればそのようにして騙し討ちをすると考えたのである。
結局、サンディアスはスピノザに説得されて抗戦の道を選んだのだが、実際のところスピノザの思惑は少し違っていた。
(ここで降服するなど、冗談ではない。せっかく近衛軍が、あの憎きカルノーがそこまで来ているというのに……!)
解放軍の中に近衛軍の旗が混じっていることに、スピノザは気づいていた。現在、アルヴェスクで近衛軍を率いることができる将は二人。ラクタカスとカルノーだ。こうちラクタカスは大将軍であり、エルストが総司令官を任されている解放軍に彼が援軍としてくるはずがない。その場合、指揮系統に混乱が生じるからだ。となれば、援軍としてやって来られるのはカルノーしかいない。
城壁の上から近衛軍の旗を見たとき、彼は憎悪で身を焦しながら歓喜した。彼から全てを奪ったカルノーが、ついに自分の刃の届く範囲に来たのである。そうだというのに、ここでサンディアスに降服されては、カルノーを殺せなくなってしまうではないか。
(それに、降服すれば私は奴らに引き渡されてしまう)
少しでも心象をよくするため、サンディアスはスピノザをアルヴェスク軍に引き渡すに違いない。サンディアスは保身の塊であり、その点についてスピノザは彼をまったく信頼していなかった。
さて、サンディアスが降服を拒絶すると、解放軍の陣内では改めて軍議が開かれた。その中心となったのはもちろん、秘策を持つというユーリアスである。
「…………そうか。ならば、仕方がない」
目を瞑り、僅かに逡巡する様子を見せてから、ユーリアスはため息を吐くようにしてそう言った。そして地図を持ってきて広げるように指示を出す。地図が広げられると彼はその一点、王都から見て南西にある地点を指で指してこう言った。
「ここに、地下通路の出入り口がある。そして、この地下通路が通じている先はここだ」
そう言ってユーリアスが指し示したのは、王都パルデースの中枢である王城の庭の外れだった。ここに小さな納屋があり、その納屋に地下通路のもう一方の出入り口があると言う。
ユーリアスが開示したこの情報に、議場は大きくざわついた。この情報が本当ならば、城壁を破ることなく敵の中枢に兵を送り込むことができる。しかし同時に疑問もあった。そんな都合のいい話が、本当にあるのだろうか。仮に地下通路が実在したとしても、サンディアスはそのことを知らないのだろうか。
「この地下通路は、歴代のギルヴェルス国王とその後継者にしか知らされてこなかったものだ。万が一のときの脱出用としてね。だからサンディアスは、この地下通路の存在は知らないはず」
少々自嘲気味にユーリアスはそう説明した。脱出用として用意された地下通路を使って逆に攻め入ろうというのだ。本来の用途を考えれば、これほどの皮肉はない。
さらに、この地下通路はギルヴェルス王家の、言ってみれば命綱。それを、よりにもよってアルヴェスクの将兵に知られてしまった。秘密通路としてはこの先もう役に立たないだろうし、それどころか危険な存在になってしまう。
(ああ、そうか。だからこの地下通路なのか……)
ユーリアスが開示したのがこの地下通路である理由を、カルノーはぼんやりと察した。おそらく王都の外へ通じる秘密の通路は、まだ他にもあるのだろう。それこそ庭の外れどころか、王城内の王の寝室に繋がっているような地下通路さえもあるかもしれない。
しかし今後のことを考えると、そういう地下通路の存在を明かしてしまうのは、あまりにも危険が大きい。それで、ユーリアスは苦肉の策として、直接王城内に通じているわけではない地下通路のことを開示したのだろう。
言ってみれば、この地下通路の重要性は(あくまでも他と比べてだが)低いということになる。戦略的に考えても、直接王城内に乗り込めた方が都合はいい。しかし、この地下通路は戦いを早期に終わらせる切り札となりえるものだ。今の解放軍にとっては、10万の援軍よりもありがたい存在である。
「なるほど。では、この地下通路を使わせていただいて、よろしいのですね?」
カルノーがこの場で思いつくようなことなど、エルストもまた察していたに違いない。しかし彼は内心で感じているかもしれない不満をおくびも出さず、ユーリアスにそう確認した。
「ああ、是非使ってくれ。ただし、一つ条件がある」
「条件、とは?」
「この地下通路を使って王城へ攻め込むときには、私も行く。それが条件だ」
ユーリアスがそういうと、議場はまたざわめいた。彼は自らの手でサンディアスとの決着を付けたいのだろう。だがユーリアスの刃がサンディアスに届くということは、その逆もまたありえるということ。それが理解できない者は、この場にはいなかった。
「危険です! わざわざ王太子殿下が出向かれる必要はありません! 突入部隊の指揮ならば私が取ります! 殿下は……!」
「いや、ラジェルグ将軍にはアンネローゼとアンジェリカのことを頼みたい」
「いえ、ですが……!」
ラジェルグは必死にユーリアスを説得した。後方で待ってさえいれば、彼は安全に勝つことができるのだ。それに突入部隊と一緒に行けば、万が一と言うこともありえる。ユーリアスを確実に王座に就けるためにも、彼をあえて危険にさらすような真似をできるはずがない。
しかしユーリアスの決意は固く、ラジェルグが言葉を尽くしても彼はなかなか翻意しようとはしない。二人のやり取りを見て、カルノーはエルストが「アンネローゼはああ見えてなかなか頑固だ」と言っていたことを思い出す。彼女がどの程度頑固なのかカルノーには分からないが、しかしそれは間違いなく父親譲りなのだろうと彼は思った。
「公爵殿、貴方からも王太子殿下を説得していただきたい」
自分だけでは力不足だと思ったのか、ラジェルグはエルストに援護を求めた。話を振られた彼は、「ふむ」と小さく呟いてから視線をユーリアスに向ける。ユーリアスはその視線を穏やかに、しかしゆるぎない姿勢で受け止める。
「ラジェルグ将軍が仰ることは尤もだと私も思うのですが、考え直してはいただけませんか?」
「無茶だということは分かっている。だけど、今回は譲れない。今回の戦いの決着は、私たちが自分達の手で付けるべきだと思う」
「…………仇討ちのため、ですか?」
エルストが少々躊躇いがちにそう言うと、ユーリアスは苦笑を浮かべた。
「……それがない、とは言わない。だけど、それだけだとは、思わないで欲しい」
「なるほど」
ユーリアスの言葉にエルストは深く頷いた。彼は嘘をついてはいない。そして、彼を翻意させることは難しい。二つのことをエルストは同時に悟った。
「では、こうしましょう。突入部隊の指揮は私が執ります。義父上は私の指示に従ってください」
「正気か、公爵殿!?」
エルストの言葉に真っ先に噛み付いたのはラジェルグだった。彼は真っ赤な顔をしてエルストに詰め寄る。
「王太子殿下をお連れした挙句、万が一のことがあったらどうするのです!?」
「しかし、ラジェルグ将軍。義父上の決意は固い。ことさら反対していては、お一人でサンディアスのところへ行かれかねません」
杭にでも縛り付けておけばいい。ラジェルグはとっさにそう思ったが、さすがに不敬と思い、口に出すことはできなかった。これがバフレンであれば口に出すどころか迷わず実行するのだろうが、彼はまだその域には達していない。しかしユーリアスを拘束しておけないとなると、彼は本当に一人でサンディアスのところへ乗り込みかねない。それがどれだけ危険なことかは、今更説明する必要もないだろう。
それを防ぐためにも、条件付きで折れておいたほうがいい。敵の大部分は外の本隊が引き付けているから、王城の中に残っている戦力は比較的少数と予測される。連れて行ける数は限られるだろうが、精兵を集めていけばそう大きな危険はないはずだ。
「いや、しかし……!」
頭では分かっているのだろう。しかし感情的な部分で、ラジェルグはまだ納得できずにいた。そんな彼に、ユーリアスは穏やかにこう告げる。
「ラジェルグ将軍。卿の忠心、嬉しく思う。だが、私は行かねばならぬのだ。その結果命を落とすことになったとしても、それは他でもない、私自身の責任だ」
「殿下……!」
「それに、まだアンネローゼとアンジェリカがいる。ギルヴェルス王家の血は、決して絶えない」
ユーリアスがそこまで言ってようやく、ラジェルグは彼が突入部隊に加わることを認めた。不満や反論があることはありありと分かるが、彼はもうそれを口に出すことはなかった。
反対する者がいなくなったところで、次に突入部隊の具体的な編成が決められた。部隊の総勢は200名。ギルヴェルス軍から100名で、アルクリーフ領軍から100名だ。その指揮はエルストが執る。なお、ギルヴェルス軍の100名はラジェルグが責任を持って選ぶことになっている。きっと選りすぐりの精兵を回してくれるだろう。
「繰り返しますが、義父上。決して先走ることなく、私の指示には必ず従ってください」
「分かった。よろしく頼むよ、婿殿」
エルストが重ねて釘を刺すと、ユーリアスは苦笑を浮かべながら頷く。義理とはいえ親と子なのに、これでは立場が逆だ、とでも思っているのかもしれない。
「……ですが、お館様が突入部隊の指揮を執るのであれば、本隊の指揮は一体誰が取るのですかな?」
突入部隊の編成が決まったところで、おもむろにそう発言したのは、アルクリーフ領軍の主将を務めるイシュリア将軍だった。解放軍の総司令官はエルストである。しかしその彼が突入部隊の指揮を執るとなれば、本隊の指揮権を誰かに委任しなければならない。その適任者は一体誰か。
「本隊の指揮はカルノーに任せたいと思う。やってくれるか?」
「私は構いませんが……。よろしいのですか?」
「お前が一番の適任さ。頼むぞ」
エルストは鷹揚に笑いがならそう言った。ギルヴェルス軍は後方でアンネローゼとアンジェリカの護衛に付くから、実質的に戦うのはアルヴェスク軍だけである。そしてアルヴェスク軍を統率するのであれば、近衛軍の将軍であるカルノー以上の適任者はいない。近衛軍の将軍とは、本来そのための役職なのだから。アルヴェスク軍の各隊を率いる主将たちも、彼ならば文句はないだろう。それに能力的にもカルノーならば問題はないとエルストは信じている。
それに、とエルストは心の中で冷笑を浮かべる。カルノーが指揮を執っていることを知れば、スピノザは大いに対抗心を燃やすだろう。スピノザがどの程度の権限を任されているのかは知らないが、彼が先走れば全体の足並みは乱れる。王都の攻略戦も少しは楽になるだろう。
(この遠征も、もうすぐ終わるか……)
舞台で言えば、最終幕と言ったところだろうか。ただし舞台とは違い、明確な筋書きも台本も存在しない。
(さて、どこまで思惑通りになるかな……?)
今だ見通せない結末を思い、エルストは小さく笑みを浮かべる。それは、確かに野心家の笑みであった。




