薄氷の同盟13
「そうか、来たか」
後方を警戒させていた斥候から、追撃の軍勢が東から迫ってきていることを知らされると、エルストは慌てることなく落ち着いた様子でそう言った。現在、解放軍はアルヴェスクとの国境を目指し、西へと撤退している最中だ。
サンディアスらにしてみれば敵が背中を見せているわけで、つまり非常な好機と言える。だがエルストもそれは承知の上。彼は最初から追っ手が来ることを想定して撤退を行っていた。後方に斥候を放ち、敵軍の接近をいち早く察知できるようにしておいたのも、その一環である。
「全軍停止。迎撃の準備を整えろ」
エルストは全軍にそう命じた。ちなみに、現在彼の指揮下にいるのは、解放軍15万のうちのアルヴェスク軍12万である。ギルヴェルス軍3万はユーリアスを守りながら西へと先行している。言ってみれば、解放軍の主力を全て殿に回したようなものである。
(やりようによっては、このままパルデースを落せそうだな)
エルストは内心でそう呟いた。とはいえ、本当にパルデースを落すつもりはない。例えそれが形式だけのものだとしても、王都パルデースの解放と簒奪者サンディアスの討伐は、王太子ユーリアスの名の下に行われなければならないのだ。
さて、迎撃の準備を整えると、エルストはそのまま兵たちに待機を命じた。戦いを前に、兵士達の体力を回復させるためである。もちろんアルヴェスクの兵たちは屈強で、半日にも満たない行軍で体力が尽きてしまうことはない。しかし、これから戦う敵軍は、こちらが背中を見せたと思って勢いに乗っている。そういう敵と戦うときには、僅かな油断が命取りになりえるのだ。
そしてしばらくすると、エルストの視界に敵の軍勢が現れた。ブロガ伯爵率いる、第一迎撃軍14万である。どうやら彼らのほうもエルストらを見つけたようで、猛然と速度を上げて突撃してきた。
「弓、構え。…………放て!」
突撃して来る第一迎撃軍を十分にひきつけてから、エルストは一斉に矢を射掛けさせた。数万の矢が一斉に放たれ、弧を描きながら第一迎撃軍に降り注ぐ。矢を受けた敵兵が次々に倒れていった。
第一迎撃軍も負けじと矢を射返す。しかし彼らは突撃している真っ最中。走りながら弓を退くことはできない。それで弓を射ることができたのは馬に乗っている騎兵だけだった。しかし、騎兵と言うのは的が大きい。当然、矢も当りやすい。傷を負った馬が暴れ、振り落とされて落馬する者が続出していた。
矢の射掛け合いでは、解放軍の側に分があった。しかし、第一迎撃軍の勢いは止まらない。倒れた味方の死骸を踏みつけながら、彼らは猛然と前進を続ける。次第に放たれる矢は水平に飛び交うようになり、そしてついに両軍は激突した。
「押し返せ!」
エルストの命令は簡潔だ。ともすれば言葉が足りないようにすら思える。しかしよく訓練された兵士たちにはそれだけで十分だった。盾を構え、槍を揃えたアルヴェスクの兵士たちは、突撃してくる敵兵たちを弾き返して刺し貫き、血染めにして出迎えた。解放軍の陣の中に切り込めたものは、まだ一兵としていない。
「ふん。功を焦りすぎだ」
エルストは辛辣な口調でそう呟いた。アイスブルーの瞳が、敵を冷ややかに見据える。
第一迎撃軍は確かに勢いに乗っていた。そして勢いとは、戦場において勝敗を分ける重要な要素の一つだ。しかし第一迎撃軍はいささか勢いが良すぎた。恐らく意気阻喪とした敵を後ろから襲うだけの、簡単な戦だと思っていたのだろう。抵抗があることさえ想定していなかったのかもしれない。
「スピノザと同程度、か。本当に人材がないのだな」
エルストの声音に嘲笑が混じる。彼の脳裏に浮かぶのは、メルーフィス遠征のグレイマス会戦で、突出した挙句に袋叩きにあったスピノザのことである。
あの時のスピノザと同じく、第一迎撃軍は勢いが良すぎた。そのせいで隊列が乱れ、敵軍とぶつかっても圧力が足りない。弾き返され、そのまま槍で貫かれて無駄に戦死者を増やしていく。
脆いな、とエルストは思った。この脆さが彼らの実力であるとは思わない。きっと、一度体勢を立て直されれば、その時はもっと手強い相手になるだろう。
だからこそ、彼は今ここで手を緩めない。敵が脆いうちに、可能な限りの損害を与えるためだ。忘れてはならない。これは、難しくて被害が出やすい、撤退戦の緒戦なのだ。優位に立った今のうちに、敵の戦力と勢いを少しでも殺いでおかなければならない。
「両翼を前進させろ。左右から交互に敵を叩け」
この命令もまた忠実に実行された。温存されていた両翼が前進を開始し、弾き返されて勢いの鈍った第一迎撃軍に襲い掛かったのである。両翼は交互に突出しては敵陣に切り込み、その度に出血を強いた。
エルスト率いる殿の痛烈な反撃に、ブロガ伯爵は少なからず驚いた。殿は「死残り」などとも言われ、大きな被害を出すことが常識として語られている。それだけ攻める側が有利なはずなのだが、しかし目の前にいる敵軍の精強さはどうであろう。ブロガ伯爵は目算が外れたことを認めなければならなかった。
「仕方がない。一時後退する!」
自軍の損害が大きいことを見て取ったブロガ伯爵はそう決断した。勢いに任せて突っ込んでしまったことが、緒戦の敗因であろう。しかし彼はそれほど悲観していなかった。
(焦ることはない。追撃はまだ始まったばかりだ)
追撃してくる第一迎撃軍を一度退けたからと言って、それで解放軍が、特に目の前の殿がアルヴェスクとの国境まで撤退できるわけではない。撤退戦は始まったばかり。解放軍が後退し、それを第一迎撃軍が追撃するという構図は変わらない。
加えて、解放軍の方が苦しい状況にあることも変わらない。撤退しているから、というだけではない。彼らは、特に殿は負けるわけにはいかないのだ。殿が突破されれば、その先にいるのはユーリアスのいる部隊だ。殿はこれを逃がすために戦っている、と言っても過言ではない。
意気消沈とした彼らがまともに戦えるはずもない。そしてユーリアスが討ち取られれば、アルヴェスクはギルヴェルスの政変に介入する大義名分を失う。つまりサンディアスの勝利が確定する。
さらに上手くすれば、勢いそのままにアルヴェスク領内に雪崩込み、その領地を少なからず切り取ってやることも可能かもしれない。そしてそのような展望があるからには、ここは一旦引いて戦力の損耗を最小限に抑え、次の戦闘に備えるべき。ブロガ伯爵はそう考えた。
第一迎撃軍が後退しても、解放軍が追撃してくることはないだろう。なにしろ彼らは撤退の真っ最中。早く撤退戦を終わらせるためにも、少しでも距離を稼ぎたいはずだ。だから第一迎撃軍が後退すれば、敵もこれ幸いと西へと退き始めるはず。ブロガ伯爵はそう予測していた。
そしてブロガ伯爵がそう予測しているであろうこと、エルストもまた予測していた。敵軍が後退し始めたのを見ると、彼はすぐさま自身の直属部隊に出撃を命じた。
「全騎俺に続け! 敵の背中を食い千切ってやるぞ!」
エルストの直属部隊はアルクリーフ領軍ではない。そちらは彼の信頼するイシュリア将軍が率いている。彼の直属部隊はえりすぐりの騎兵のみで構成された、3万からなる部隊である。この騎兵隊を率い、エルストは後退する第一迎撃軍の真っ只中に飛び込んだ。
この時、一時的とは言え両軍の立場が逆転した。追撃していたはずの第一迎撃軍は、一転して迎撃される側となったのである。
「なんだと!?」
この予想外の追撃に、ブロガ伯爵は仰天した。彼は慌てて迎撃を命ずるが、しかし上手くいかない。隊列が崩れた第一迎撃軍の内側を、エルスト率いる3万の騎兵がその機動力を遺憾なく発揮して縦横無尽に駆け回る。そのせいで、第一迎撃軍の隊列はさらに乱されていった。
「退けぇ! 退けぇ!!」
ブロガ伯爵は大声でそう命じながら遁走した。エルストはそれを執拗に追い回す。第一迎撃軍の被害はさらに増していった。
しかし彼は決して無理をしない。十分に損害を与え、また時間を稼いだと判断すると、まだ優位にあるうちにエルストは部隊を後退させた。さすがに騎兵の足は速く、彼らは瞬く間にその場から離脱していく。それを追うだけの体力と気力は、第一迎撃軍の兵士たちには残されていなかった。
(思った以上に敵を押し込めたな)
馬を駆りながら、エルストは今の戦果を冷静に評価する。追撃を仕掛けたことで、敵をより東へと押し戻すことが出来た。恐らくは、ブロガ伯爵が想定していた以上に。さらに負傷した兵の手当てなどを考えれば、第一迎撃軍はしばらく動けないはず。殿の主力の方はすでに西へと向けて移動を開始しているはずで、これでかなりの距離を稼ぐことが出来たはずだ。
(合流して、今日は早く兵を休ませるか)
とはいえ、「これでもう戦うことなく西の国境まで撤退できる」とはエルストも考えていない。最低でも後一回、どこかで戦端が開かれることになるだろう。撤退戦はまだ始まったばかりなのだ。エルストは目先の勝利にまどわされることなく、その厳しい現実を直視していた。
そして次の日の朝早く、エルストは西への撤退を再開した。怪我をしてしまった兵は馬に乗せるなどし、なるべく全体の行軍速度が落ちないようにする。とはいえ、あまり急ぐわけにも行かなかった。
急ぎすぎると、先行するギルヴェルス軍に近づきすぎ、両軍の間の距離が短くなってしまうからだ。ある程度の距離が空いていないと、万が一の場合、第一迎撃軍の追撃に彼らを巻き込んでしまいかねない。それはなんとしても避けなければならなかった。
(やれやれ、難儀なことだ)
内心でそう呟き、エルストは苦笑を浮かべた。此度の戦いにおいて、解放軍はまだ一度も負けていない。しかしどれだけ勝っても、この状況では戦略的に無意味だ。戦に勝つことではなく、むしろ戦を避けることに頭を使わねばならず、それがエルストにはなんともおかしかった。
さて、解放軍が西の国境に向かって撤退を始めてから、およそ十日が経過した。その間にエルスト率いる殿は、ブロガ伯爵率いる第一迎撃軍の追撃を何度か受けている。追撃自体はエルストも予測していたが、その回数は彼の予測を上回っている。敵の指揮官は思いのほか有能なのかもしれない、とエルストは評価を改めていた。
とはいえ、第一迎撃軍の仕掛けてくる回数が多いというのは、なかなかエルスト率いる殿を突き崩せず、また自軍の被害も少ないことの裏返しだった。つまり、ブロガ伯爵は攻めあぐねていたのである。
これは無論、解放軍の殿が手強かったからなのだが、しかしそれだけではなかった。勇んで臨んだ緒戦で手痛い反撃を受けたブロガ伯爵は、それ以来慎重を期するようになっていた。そのおかげで第一迎撃軍の被害は少なく抑えられているのだが、しかし同時に思うような戦果も上げられていない。ブロガ伯爵にとっては悩ましいことであり、一方エルストにとっては狙い通りだった。
「とはいえ、小うるさい蝿にいつまでも付きまとわれるのは不快だな」
大した戦闘もせずに後退していく敵軍を見送りながら、エルストはそう呟いた。国境が近づけば諦めるのだろうが、それまでの間ずっと付きまとわれるのは鬱陶しい。それに、戦えばどれだけ少なかろうとも損害は出る。この撤退戦に戦略的な価値はほとんどない。それでなるべく戦闘は避けたいというのが、エルストの本音だった。
(まあ、あちらにしてみれば逃したくないのだろうが……)
敵にしてみれば、この撤退戦で解放軍になるべく大きな損害を与えたいはず。それはエルストも承知していたし、第一迎撃軍の動きもそれを裏付けている。だが彼に、それに付き合う義理はない。そして敵を退かせるための手は、すでに打ってある。
(さて、そろそろ来る頃だと思うが……)
エルストのその予測は当った。解放軍が西への撤退を始めてから十三日目のこと、その日もまたエルストは追撃してくるブロガ伯爵率いる第一迎撃軍を迎え撃ってきた。消極的な戦闘が推移していくなか、エルストのもとにある報告がもたらされる。それを聞くと、エルストはにやりと唇の端を持ち上げた。
「全軍後退。ゆっくり下がれ」
エルストのその命令に従い、アルヴェスク軍はゆっくりと後退する。このとき隊列はいささかも乱れていないのだが、敵が後退していくのを見てブロガ伯爵はこれを好機と捉えた。
「この機を逃すな! 全軍突撃!!」
その命令を受け、第一迎撃軍の兵士たちは、まるで溜め込んだ鬱憤を晴らすかのように勢いよく突撃を開始する。そんな彼らの穂先を避けるようにして、エルスト率いる殿の陣が左右に分かれていく。
ブロガ伯爵は最初、それを第一迎撃軍優勢のしるしだと思った。しかし、そうではないことを彼はすぐに思い知らされる。敵陣が左右に分かれたその先にいたのは、新たな軍勢。彼らはアルヴェスク皇国近衛軍の旗を掲げていた。
「全軍突撃! 正面の敵を蹴散らせ!」
近衛軍を指揮する将軍、カルノーは鋭くそう命じた。そして近衛の精兵たちはその命令を忠実に実行し、敵の援軍に浮き足立っている第一迎撃軍に襲い掛かった。
「左右から挟みこめ! 半包囲して敵を殲滅しろ!」
すかさずエルストがそう命じる。彼の指揮するアルヴェスク軍は、敵を誘い込むようにしてその左右に展開していたため、半包囲陣形はすぐに完成した。圧倒的優位を手にしたアルヴェスク軍は、ここぞとばかりに第一迎撃軍に襲い掛かり甚大な損害を強いる。
「むう……! 退けぇ! 後退だ!!」
苦虫を噛み潰したような顔をしながら、ブロガ伯爵は後退を命じた。しかし状況は第一迎撃軍にとって圧倒的に不利。結局、後退を完了するまでに更なる被害を出すことになった。
「よく来てくれた、カルノー。おかげで助かったぞ」
笑みを浮かべながらそう言って、エルストは援軍を率いてきたカルノーを迎えた。彼の差し出した手を、カルノーも笑みを浮かべながら握り返す。
「手紙を貰ったときは驚いたよ。まさかロキがしくじるとはね」
「なに、俺も完全ではないと言うことだ」
そう言ってエルストとカルノーは笑いあった。カルノーの言う手紙とは、エルストが書いた二通のうちの一つである。それこそが、援軍を求める手紙だった。そして無事にその援軍と合流できたこともあり、殿として戦ってきたアルヴェスク軍の兵士たちも明るい笑顔を浮かべている。
援軍として来たのは、カルノー率いる近衛軍5万。この内の2万は、皇都アルヴェーシス周辺の天領から集められた兵である。もともと彼らは予備戦力として後方、具体的に言えばアルクリーフ公爵領で待機していたのだが、エルストの求めに応じこうしてはせ参じたのである。
余談になるが、そもそもこの近衛軍5万は、ライシュが派遣した監視役だった。つまり解放軍のギルヴェルス遠征において、エルストが皇国の利益を害さないかどうか監視し、またその様子を随時ライシュに報告していたのである。アルクリーフ領で待機していたのも、彼に無言の圧力をかけるためだ。
ちなみに今回、カルノーの妻であるジュリアは同行していない。彼女は今ごろ、皇都の屋敷で母親であるステラを教師役に花嫁修業に勤しんでいるはずである。恐らくは目に涙を浮かべながら。
監視役とはいえ、しかし近衛軍は解放軍の友軍である。ましてカルノーとエルストは友人同士。これを助けることに、否やなどあろうはずもない。こうして間にあい、友人の無事な姿を見ることができてカルノーも胸を撫で下ろしていた。
「……途中でユーリアス殿下とお会いしたけれど、酷い顔をしておられたよ」
痛ましげな顔をしながら、カルノーはそう言った。ユーリアスの妻子が殺され、その首が送りつけられてきたことは、彼のエルストからの手紙で読んで知っている。ジュリアと結婚してまだ一年も経っていないこともあり、カルノーはその心痛を他人事のようには思えなかった。
「だが、立ち直っていただかねばならん」
エルストはあえて強い口調でそう言った。ユーリアスに立ち直ってもらわなければ、解放軍全体の士気に影響がでる。そしてそのための手も、すでに打ってある。二通書いた手紙の、もう一通の方である。
「それで、カルノー。手紙で頼んでおいたことは、やってくれたか?」
「やっておいたよ。ただ、ロキも無茶をする」
そう言ってカルノーは苦笑を浮かべた。エルストは肩をすくめたが、しかし「無茶」という言葉は否定しなかった。
「それだけ俺も切羽詰っているのさ」
「どうだか」
友人の言葉を、カルノーは笑って受け流した。現在撤退の真っ最中とはいえ、どう贔屓目に見てもこの友人が切羽詰っているようには見えなかったのだ。
エルストとカルノーはさらにもうしばらく言葉を交わすと、それぞれ自分の部隊のところへ戻り、西への移動を再開した。無論、後方を警戒しながらだが、エルストはもう敵が仕掛けてくることはないだろうと思っていた。
(カルノーと合流し、数の上でも恐らく敵を上回った。先程の戦闘では大きな被害を出していることだろうし、これ以上の追撃は二の足を踏むはず)
仮に仕掛けてきたとしても、撃退は容易だろう。それでエルストはさらにこれからのことを考え始める。ユーリアスを立ち直らせるだけではない。彼はさらにその先のことも考え始めていた。
(さて、どこまで思い通りに行くかな……?)
彼が浮かべる笑みは、間違いなく獰猛な野心家のそれだった。




