野心の目覚め3
皇都アルヴェーシスを歩くカルノーの手には、蜜がたっぷりとかけられた甘い菓子があった。学生の頃、ライやロキと一緒によくこうして買い食いをしたものだった。これほど甘くて美味しい菓子は実家にいた頃は食べたことがなかった。叔父であるオズベッドの家にいたころも菓子は贅沢品だったから、特別な日にしか食べることは出来なかった。
(比較的頻繁に食べられるようになったのは、師父の弟子になってからか……)
カルノーが「師父」と呼んで慕うのは、アーモルジュ・ヨセク・ロト・カディエルティ侯爵である。彼の弟子になってからというもの、カルノーの生活は激変した。
アーモルジュはまず、まだ少年だったカルノーに自らのミドルネームである〈ヨセク〉の名を名乗らせ、彼の名前を〈カルノー・ヨセク・オスカー〉と改めた。これによって彼が自分の弟子であることを内外に示したのである。
こうして弟子となったカルノーを、アーモルジュはさっそく鍛え始めた。剣術、槍術、弓術、馬術などの稽古に、算術、地理、歴史、兵法、経済、政治などの学問。頭と身体の両方を徹底的に鍛えられた、と言っていい。もちろんその全てをアーモルジュが教えてくれたわけではない。むしろそれぞれに教師がつき、カルノーはその教師から学ぶことになった。
それらの教師たちにもいろいろな者がいた。突然アーモルジュが連れてきた弟子に、好意的な者もいれば胡散臭そうな目を向ける者もいた。嫌味や中傷を言われることも多かったが、それでもカルノーはただひたすらに学び続けた。
不満や不快に思うことは確かにあった。しかし土を掴んで泣いていたあの頃に比べれば、ここでの生活ははるかに充実していた。
『精進せよ、精進せよ』
度々カルノーの様子を見に来るアーモルジュは、懸命に励む彼の姿を見ては満足そうに声をかけるのが常だった。弟子となったと言っても、この頃カルノーがアーモルジュから直接に教えを受けたことはほとんどない。弟子と言うのは実は方便なのではないか。彼は何度かそう思った。
『だとしても構うものか』
そう呟いたカルノーの心境は、もしかしたら開き直りに近かったのかもしれない。ここで学べることは全て学ぼう。幸い、環境は整っている。実家で悔し涙を流していた頃と比べれば雲泥の差だ。これ以上を望むのは間違いだろう。
カルノーがひたむきに努力を重ねるのを見て、彼に批判的だった人々の態度も徐々に変わっていった。彼は物覚えの良い生徒だったし、また人から何かを頼まれれば断らずにそれを行った。そしてアーモルジュの弟子となっておよそ一年が経つころ、彼は「御館様の秘蔵っ子」と呼ばれるようになっていた。
『カルノーよ。お主、士官学校に行け』
カルノーがアーモルジュからそう命じられたのは、彼の弟子となってからおよそ2年後、カルノーが16歳のときだった。カルノーはこの頃までにアーモルジュのことを「師父」と呼んで慕うようになっていたから彼のもとを離れるのは辛かったが、しかしその師父が直々に命じるのだ。カルノーに否やはなかった。
嬉しいことに、皇立士官学校に入ってもアーモルジュの指導は続いた。手紙で「これこれについて調べ、意見を述べよ」と言った具合に課題が送られてくるのだ。時には士官学校で学ぶのとはまったく別の分野についての課題もあり、その度にカルノーは図書館に篭ることになったが、そのおかげで彼は広い見識を持つようになった。
アーモルジュの課題はまた、二人の友人、ライシュハルト・ロト・リドルベルとエルストロキア・ロト・アルクリーフとの仲を深めることにも繋がった。カルノーが取り組んでいる課題に二人もまた興味を持ち、一緒に調べたり議論したりしたものである。そのためレポートは三人分できあがったのだが、アーモルジュはその全てに目を通してくれた。添削された三人分のレポートが送り返されてきてからは、三人の議論はますます熱を帯びるようになったとカルノーは思っている。
士官学校を卒業すると、カルノーは本格的にアーモルジュの下で働くようになった。優秀な成績で士官学校を卒業し、しかもアーモルジュの弟子である彼は同年代の中でも頭一つ分以上ずば抜けた存在であったといっていい。しかしだからと言って彼が驕ることはなかった。
士官学校を卒業したばかりの自分はまだまだ未熟である、とカルノーは事あるごとに自分に言い聞かせて自戒した。そして分からないことを学ぶため、先達たちに頭を下げて教えを乞うた。
そうやって頭を下げることは、彼にとって苦痛ではなかった。彼は二人の友と接する中で、自分よりも優秀なものなど幾らでもいることを学んでいた。アーモルジュの弟子となったことで生まれかけていた、「自分は特別」などという甘ったれた考えはこの時点で微塵も無くなっており、今はただ自分が不甲斐ないばかりに師父の評判を落とすことが無いよう、ただそれだけを心がけていた。
そして今、フロイトス新皇王の即位に起因する内乱を戦ってきたカルノーは、四年前と比べて随分と逞しくなっていた。地に足が着き、その立ち姿は堂々としている。かといって自分の存在をことさらに誇るわけではなく、むしろどのような場においても淡々としていた。そのありようは、どこか大地に根をはる樹のようにも見える。今はまだ若く大樹と呼べるような風格はないが、しかしその片鱗はすでにあると言っていいだろう。
さて宰相ブルミシェスへの報告を終え、彼からアーモルジュに宛てた手紙を預かったカルノーは、翌日アーモルジュが治めるカディエルティ領へ戻るため皇都アルヴェーシスを出立した。そして彼の出立を待っていたかのようにアルヴェスク皇国の歴史は大きなうねりを迎える。
カルノーが皇都を出立した3日後、宰相ブルミシェス・ユディル・ロト・フィディル伯爵が死んだのである。血を吐き、執務机に突っ伏して死んでいたその様子から、毒入りのお茶を飲んだものと推測された。そしてどれだけ探しても直近に記した彼の遺書が発見されなかったことから、「暗殺されたのでは?」という噂がまことしやかに囁かれ始めた。
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「ブルミシェスが死んだか……」
暗い部屋の中、一人そう小さく呟いたのはアザリアスだった。彼はレイスフォールの遺書に従って男爵位を賜り、そして宮中のまとめ役たる侍従長となっていた。そんな彼にとって今回死んだ宰相のブルミシェスは盟友、あるいは共犯者というべき存在だった。
ブルミシェスの死について、巷では「暗殺」という物騒な単語が飛び交っている。そして実のところ、アザリアスもまた彼は暗殺されたのではないかと疑っている一人だった。さらに付け加えるならば、アザリアス自身が暗殺させた容疑者の一人として世間からは見られていた。
もちろんアザリアス自身は身に覚えが無い。ただし、アザリアスを暗殺しそうな人物について心当たりはあった。もう一人の盟友もしくは共犯者である、近衛軍司令官のホーエングラム大将軍である。
「いやしかし、まさか、な……」
ただし心当たりがあるとはいえ、その程度は低いというべきだった。ブルミシェスとホーエングラムでは栄達を求める分野が違う。仮にホーエングラムが宰相職に就いたとして、その時彼は当然ながら近衛軍司令官の職を辞さなければならない。完全な武官である彼がそれを自分から求めるとは思えなかった。
「まあ、それはいい。いま考えるべきは……」
アザリアスがいま考えるべきことは、ブルミシェスの後任人事である。彼は侍従長でしかないが、フロイトス新皇王がまだ幼児であるため、最側近とも言うべき彼の発言力は非常に大きい。そのため彼が「誰それを」と推薦すれば、それでほぼ決まる。ちなみに宰相の任命書に承認の玉璽を押すのは、それを管理しているアザリアスだ。
では一体誰を、ブルミシェスの後任として宰相職に就けるべきであろうか。アザリアスの頭には誰の顔も浮かんでは来なかった。
純粋な能力の問題であれば、宰相職に耐えうる人材は確かにいただろう。しかしアザリアスは彼らを宰相職に就けることを躊躇った。理由は単純で自分の不利益になる、少なくともその可能性が高いように思えたからだ。
「よし、私が自分でなるか」
アザリアスはそう決めた。そしてほとんど独断でフロイトス新皇王の名前と玉璽を使って宰相の任命書を作成したのである。こうして彼はアルヴェスク皇国の宰相となったわけだが、そのことへの反発は彼が予想していたよりもはるかに大きかった。
「なぜアザリアスごときを宰相とし皇国の政を任せなければならないのか!? 他に宰相たりえる者がこの国にいないとでも言うのか!?」
「しかも彼奴はフロイトス陛下のお名前と玉璽を勝手に使った! 奸臣め、許されざる背信行為だ!」
「そもそも、なぜ皇都にいる主だった者だけでも集めて協議の場を設けないのだ? 後ろ暗いところがあると言っているようなものではないか!」
「そもそもの話をするのであれば、奴はもともと皇国の人間ではない。どこの馬の骨とも知れぬ旅の吟遊詩人ではないか。そのような者に皇国の政を任せるなど、あってはならない!」
「ブルミシェス殿を暗殺したのも彼奴に違いない! 先皇陛下から侍従長にしていただいた恩を忘れて宰相の地位を望み、それでブルミシェス殿が邪魔になったのだ!」
反発は極めて大きく、いつ武力蜂起が起こってもおかしくない状況だった。それが起こらなかったのはホーエングラム大将軍率いる近衛軍が目を光らせていたからに過ぎない。しかし近衛軍という抑止力をもってしても、その反発を抑えておくには限界がある。そう遠くない未来に武力蜂起は必ず起こるであろう。アザリアスを含め、誰もがそう思っていた。
焦ったアザリアスは次なる一手を繰り出した。この時彼が取った行動を、年代記は「皇国史上最大の暴挙」と呼んでいる。
アザリアスはフロイトスに皇位を譲渡させ、これによって彼自身が新たな皇王となったのである。無論、その全ては彼の独断によって行われた。フロイトスがまだ幼く、玉璽をアザリアスが握っていたからこそできた暴挙と言える。
そしてアザリアスは自らの戴冠式に、その時皇都にいた主だった人々を招待した。招待状を受け取った彼らは揃って激怒した。この招待に応じて戴冠式に出席するということは、つまりアザリアス新皇王の即位を認めて彼を祝うことを意味している。彼らにとってそれは天地が引っくり返ってもありえないことであった。
「簒奪者!」
「この強盗め! ついには国を盗ったか!?」
「大罪人に死を!」
ありとあらゆる罵詈雑言がアザリアスに向かって吐き出された。彼らは一斉に武力蜂起しアザリアスを玉座から引きずり下ろそうとしたが、しかしその前に彼らは近衛軍によって鎮圧された。彼らのこの反応をアザリアスは十分に予想していたのである。
アザリアス新皇王に逆らった彼らは、捕らえられることもなく全員が殺された。こうしてアザリアスは皇都にいた反対者たちを粛清して一掃し、自らの基盤をまずは整えたのである。そしてこの粛清された者たちの中にアルクリーフ公爵がいた。
公爵は武力蜂起に乗じて皇都を抜け出し、北にある自らの領地に向かっていた。近衛軍が目を光らせている状態で武力を用いてもすぐに鎮圧されるだけ。そこで領地に戻って軍を催し、さらに同調する貴族や代官たちを纏め上げ、堂々とアザリアスを討つ。それが彼の考えだった。
しかし公爵はその考えを実現させることは出来なかった。馬を駆って自分の領地を目指していたところ、後ろから追って来た近衛軍の部隊に追いつかれ、その場で殺されてしまったのである。彼の首は胴から切り離され、彼を殺した騎士の手によって皇都に運ばれた。
しかしこの時、一人の従者が生き延びていた。その従者はアルクリーフ領まで懸命に走り、そして公爵が殺されたことをその息子であるエルストロキアに伝えた。
「…………、そうか。ご苦労だった」
父の死を知らされたエルストは一瞬言葉を失ったが、しかしそれ以上平静を失うことはなく、むしろ淡々とした声でそう言った。そして昼夜を問わずに走り続けて疲労困憊になった従者を労わり休ませる。
ちなみに後日のことだが、主を“見捨てて”自分だけ生き延びたその従者を処罰すべしと言うことが上がったのだが、エルストは一貫して彼を庇いさらには自分の従者とすることで、彼の行動を高く評価していることを示した。
「アザリアスめの即位を認めることはできない。すぐに領軍を集めろ。父上の敵を討たねばならん」
鋭い声でエルストはそう命じた。エルストにその気がなくとも、アザリアスはアルクリーフ公爵領を敵と見定めて兵を差し向けてくるだろう。ここで何もしないのは有り得ない。それでは座して滅亡を待つだけだ。
さらに彼は矢継ぎ早に指示を出していく。親しい貴族や天領の代官たちに協力を求める書状を書き、さらに檄文を用意して各地に配らせる。軍を動かすための物資を集め、そのために必要になる予算を計算する。
(北部を纏め上げるのはそれほど難しくはあるまい。問題はその後か……)
それらの作業と平行し、エルストは頭の中で今後の戦略を組み上げていく。アルヴェスク皇国の北部はアルクリーフ公爵家の影響力が強い。北部にいる貴族はほぼ味方として計算できる。天領の代官たちもアザリアスよりはレイスフォールに忠誠を誓っているから、そこを巧く突けば味方に引き込むことは十分に可能だろう。
中にはアザリアスに従う者たちも出てくるだろうが、1州か2州だけならばアルクリーフ領軍だけでも速やかな制圧は可能だ。そして、そうやってアルクリーフ領軍の力を見せ付けてやれば、大勢はこちらになびくだろう。
問題はそうやって北部を平定した後だ。大軍を編成して皇都アルヴェーシスに攻め込むか、あるいは……。
「もうこんな時間か……」
気が付くと、辺りはすっかり暗くなっていた。エルストはまだ終わっていない仕事の山を見てため息を一つ吐くと、この日の仕事を切り上げて寝室へと向かった。
「お仕事、遅くまでご苦労様ですわ。エルスト様」
「起きていたのか、アンネローゼ」
寝室でエルストを待っていたのは、彼の妻であるアンネローゼだった。身長は160センチ弱。卵形の美しい顔立ちをした女性だ。瞳は上質なエメラルドのように深い緑色をしていた。蜂蜜色の髪の毛は普段は結っているのだが今はすでに解かれ、一つにまとめて胸元に垂らしてある。身につけているのはゆったりとした寝巻きで、さらにそのうえからガウンを羽織っていた。
アンネローゼは先に寝台に入ることなく、椅子に座って小さなテーブルに向かい、そこで何か詩集のようなものを読んでいた。そしてエルストが寝室に入ってくると栞を挟んでその本を閉じ、彼に向かって微笑みかけ「お茶はいかが?」と尋ねた。
エルストが「貰おう」と答えると、アンネローゼは笑みを浮かべながらお茶の用意を始めた。そしてお茶の用意をしながら、彼女は夫にこう話しかけた。
「大変なことになったようですわね」
「ああ、アザリアスが皇王となり父上が粛清された。アルクリーフ公爵家は大きな危機に直面している」
「まあ、それは大変」
そう言いながらアンネローゼはエルストにお茶を差し出した。清々しくもやさしい香りのするハーブティーだ。精神を落ち着ける効果があり、寝る前に飲むのにちょうどいい。
「それにしても、そのように大変な事態を前にして、どうしてエルスト様は笑っておられるのでしょう?」
「なに、私は笑っているのか?」
「ええ、確かに笑っておいでですわ」
「そうか……、私は、笑っているのか……」
呟くようにしてエルストはそう言葉を漏らした。そして自分が笑っていることを自覚すると、彼は堪えきれなくなったかのように「くっくっく」と喉の奥で笑い声を上げた。
まったく父は絶妙な時に死んでくれたものだ、とエルストは思う。アザリアスの即位には正統性が無い。例えそれが正式な勅命によってなされたものだとしても、その裏にある権力への野心を全く隠せていない。
放っておいてもアザリアス討伐の旗を掲げる者たちは現れるだろう。そのなかで父を殺され、さらに貴族の中でも公爵と言う最上級の位を持つエルストが立てばどうか。彼の存在はそのまま旗頭となり、討伐軍の中心となることができるのだろう。そしてアザリアスを討伐したその暁には……。
「エルスト様は、皇王におなりになられるのですか?」
「……それではアザリアスと同じになってしまうな」
アンネローゼの言葉に、エルストは苦笑しながらそう応じた。そんな夫に対し、アンネローゼは変わらぬ笑みを浮かべながらさらにこう言う。
「ですが、アルクリーフ公爵家は初代皇王陛下の血を受け継ぐ由緒正しき家柄。その血を受け継ぐエルスト様は、皇王となるのに相応しいお方だと思いますわ」
妻のその言葉に、エルストはただ苦笑のみを返した。そこから先は、おいそれと口に出すような内容ではないのだ。
言葉は、一度口に出してしまえばなかったことにはできない。それゆえ責任ある立場にいる者は軽々と言葉を発してはならない。言葉を軽んずる者は、地位に軽んぜられるのだ。
「……このような時勢だ。お前には一日も早く子を生んでもらわねばならん」
エルストはそう言って話題を変えた。そして夫のその言葉に、アンネローゼは「まあ」と呟いて蕩けるような笑みを浮かべた。
「いずれは男児を生んでもらわねばならんが、まずは女児が欲しいところだな」
アンネローゼに似ればきっと美人になるだろう、とエルストは冗談めかして言った。男児は跡継ぎであるが、それより先に女児が欲しいとエルストが言ったその理由は何か。彼の頭にあったのは、まだ幼くそのため婚約者もいないフロイトスの姿だった。
「ですがエルスト様? 男の子が生まれるのか、それとも女の子が生まれるのか。それは天の思し召しですわ」
「そうだな」
「それと、天命を待つ前に人事を尽くさねば」
まったく道理である。エルストは椅子から立ち上がるとアンネローゼの頬に手を沿え、そっと彼女に口付けした。唇を触れ合わせるだけの簡単な接吻。そして唇を離すと、エルストはアンネローゼを寝台へと誘った。
結局、ハーブティーには手をつけなかった。




