薄氷の同盟8
アルヴェスク皇国摂政ライシュハルトは、国を追われたギルヴェルス王国王太子ユーリアスのため、軍勢を催してサンディアスを討つことを決めた。そしてその軍勢の総司令官として、ユーリアスの義理の息子であるエルストロキア・レダス・ロト・アルクリーフが選ばれた。
総司令官とは言っても、アルヴェスク軍に限ってのことである。エルストにギルヴェルス軍3万の指揮権はなく、これはあくまでもユーリアスの隷下に置かれることになる。とはいえ、数の上で主力となるのはもちろんアルヴェスク軍であるし、ユーリアスもエルストの意見を尊重するだろう。となればこの解放軍(後の年代記ではそう呼ばれた)を率いる総司令官は、エルストその人であると言っても過言ではなかった。
さて、解放軍の総司令官に任じられたエルストはすぐさま行動を開始した。皇国北部に号令をかけて軍勢と兵站の準備をさせる。あらかじめ彼が書状を出しておいたこともあり、それらの準備は素早くなされた。
さらにそれらの準備を行う傍ら、エルストはサンディアスらに対し謀略を仕掛けた。彼らが、いやスピノザが仕掛けてきた反間の計に対する意趣返しであった。
「策略を弄ぶ者は、己が謀略に陥るとは想像しないものだ。こういう類の者どもを引っ掛けるのは、実は簡単なのさ」
エルストはそう言って意地悪く笑った。そして、笑ってから気付く。「策略を弄ぶ者」とは、まさに今の自分ではないか。自戒せねば、とエルストはしかし楽しげに笑うのであった。
エルストの仕掛けた謀略とは、このようなものであった。彼は次のような情報をサンディアスらの耳に入るように流したのである。
曰く、「巷ではエルストが解放軍の総司令官となり、北方で兵を集めているが、しかしこれは建前である。噂に危機感を抱いたライシュが、しかし主君としての器量を見せることにこだわり、エルストに形ばかりの準備をさせているのである。
ライシュの本命は別にある。エルストを総司令官として喧伝しているのは、これを隠すためである。彼の本命は、近衛将軍カルノーを総司令官とする軍勢である。彼は義弟に、クシュベガの民を案内役としてその地を通らせ、南からギルヴェルスへ侵攻する策を授けたのだ。
そのため、この軍勢の主力となるのは皇国東方の兵士たちである。東方の貴族や代官たちはこぞってカルノーへの協力を表明した。特にカディエルティ侯爵家は、先代が犯した失態を回復するべく、率先して彼に協力するという。
カルノーの妻であるジュリア夫人もまた、夫と共に軍勢の先頭を往かれる。彼らの率いる軍勢が精強であることに疑いはない。この二人の前に、簒奪者サンディアスと彼に与する者どもは決して抗しえないであろう。
摂政ライシュハルトはこの作戦の成功を確信している。そのため彼は、義弟のカルノーに早くも東方総督の座を約束した。カディエルティ侯爵家をはじめとする東方の貴族や代官たちはこれを歓迎している。この遠征が成功した暁には、皇国の歴史にまた一人英雄が誕生するであろう」
これを噂として普通にギルヴェルス国内に流布しても、サンディアスらは信じなかったであろう。そこでエルストはまたしても一計を案じた。これらの情報を、クシュベガの民を通してサンディアスらの耳に入れることにしたのである。
「……一体、どういうつもりでこのことを我らに教えるのだ?」
以前にゾルタークと話をしていたクシュベガの族長が、尋ねてやって来た白髪の老人をそう問い詰めた。この老人はアルヴェスクに恭順した部族の前の族長なのだが、その縁で二人はこれまで何かと付き合いがあった。
「同じクシュベガの民のよしみ、ではいかんか?」
老人は飄々とした口調でそう言った。そして出された乳茶を飲みながら、土産に持ってきた干しイチジクの菓子を食べる。そんな彼を、族長は少々忌々しげに睨みつけた。
「真偽の程は?」
「さて、な。ワシはただ、知りえた情報をそのままおぬしに伝えただけじゃ」
老人がぬけぬけとそう答えると、族長はついに頭を抱えた。
アルヴェスク軍は南からギルヴェルス王国に侵攻してくる。老人の話を要約すると、つまりはそういうことだ。それが本当であれば、これは確かに重大なことといえた。
サンディアスらは、アルヴェスク軍は専ら西から侵攻してくるものと思っている。しかしその裏をかいて彼らが南から攻めて来れば、対処が遅れてその刃は容易く喉元、つまり王都パルデースまで迫ることだろう。
サンディアスらに勝ってもらわねばならぬ族長たちとしては、それでは困る。それゆえこのことを彼らに教えることはやぶさかではない。
しかし老人が言うように真偽の程は定かではないのだ。南からと思わせておいて実は西から、と言うこともありえる。一体何が正しいのか。それを判断するためには、族長らが持っている手持ちの情報はあまりにも少なすぎた。
「そう考え込むようなことでもあるまい。『真偽の程は定かではない』と前置きした上で伝えればよいのではないか?」
それに、と老人は言う。仮にこのことを伝えずにいて、アルヴェスク軍が南から侵攻してきた場合、族長らが前もってそのことを掴んでいたと知られれば、サンディアスは彼らが自分たちを裏切ったと思うのではないか。それを避けるためにも、ひとまず伝えるだけ伝えておいたほうがよいのではないか。老人はそう言った。
「伝えて当れば手柄一つ。外れたとしても、もとより南からの侵攻など誰も考えておらぬのだ。責任を問われることなどなかろうて」
「……おぬしらの目的は何だ?」
睨むように鋭い視線を向け、族長は老人にそう問い掛けた。それに対し、老人は肩をすくめながらこう答える。
「同じクシュベガの民がギルヴェルスにいてくれた方が、ワシらとしても交易がしやすい」
彼らが交易を行い始めていることは、族長も知っていた。そして、それは同時に遊牧の生活から離れることも理解している。今すぐに、ということはないだろう。しかしその流れはもう生まれている。
(これも時代、か……)
族長は胸中でそう呟いた。新たな時代はもう来ている。大陸は動き始めた。クシュベガの民とて無関係ではいられない。族長は早々に引退してしまったこの古い知人のことが、少しだけ羨ましかった。
結局、このクシュベガの族長は白髪の老人から教えられた情報をサンディアスらに伝えた。無論、「真偽の程は定かではない」と前置きしてのことである。それで彼はこのことについて家臣たちに諮ったのだが、一際喜んだ者がいた。スピノザである。
「陛下、これこそまさに『アルヴェスク軍討つべし』という天命にございます!」
カルノー、ジュリア、それにカディエルティ侯爵家。伝えられた情報の中には、スピノザの自尊心を痛烈に刺激する言葉がちりばめられていた。そのため、彼はこの情報に過剰なまでの反応を示した。彼はまるでこれがさも確定情報であるかのように話を進めようとする。
「陛下、どうぞこの私に御下命を! カルノーなど私の敵ではありません。必ずや彼奴めの首を取り、敵軍を討ち果たしてご覧に入れましょう!」
スピノザはサンディアスの前で跪いてそう言った。カルノーを殺し、ジュリアを取り戻し、カディエルティ侯爵家の者どもに一体誰が本当の主なのかを教えてやる。東方総督の座を目前にして死ぬカルノーの顔はきっと見ものだろう。出来ることならば、彼奴の目の前でジュリアを犯してやりたい。それはきっと甘美な時となることだろう。その機会がこんなにも早くやって来るとは。スピノザは憎悪と歓喜で身を震わせた。
「まあ、そう急くなモリードよ。エルガン、お前はどう思う?」
鷹揚な笑顔を見せながらスピノザを抑えつつ、サンディアスはゾルタークに意見を求めた。跪いていたスピノザが彼に鋭い視線を向けるが、それには気付かぬ振りをしてゾルタークは顎を撫でながら思案げにこう答えた。
「ライシュハルトがエルストロキアのことを警戒しているのは事実でしょう。ただ……」
そこから先のことは門外漢ゆえなんとも、とゾルタークは言葉を濁した。軍勢をどう動かすのかということは軍略に属する。これまでずっと書類を相手に仕事をしてきた彼にとって、確かにそれは専門外の分野だった。
とはいえより利己的な理由として、ゾルタークはこの情報におけるライシュの意図を図りかねたのだ。余計なことを口にしてそれが当ってしまった場合、後日責任を問われることにもなりかねない。彼に約束されたメルーフィス領総督の座とシルディアーナ姫の件については、究極的にはライシュの胸一つで決まってしまう。そのためゾルタークは彼の不興を被ることを恐れた。
ゾルタークの言葉に、サンディアスは「ふむ」と呟いて手を口元に当てた。そしてふと堪えきれなくなったかのように、失笑を浮かべながらこう言った。
「それにしても。臣下を恐れつつ、しかし面子は守りたい。大国アルヴェスクの摂政ともあろう者が、滑稽なことだな」
ライシュハルト・リドルベル・アルヴェスクと言えば、メルーフィス王国を短期間で完全に併合して見せた稀代の覇王である。これほどまでに輝かしい功績を残した王や将軍は、ユーラクロネ大陸の歴史のなかでも少数だ。さらにライシュはまだ若く、これより先さらなる偉業を成し遂げるものと期待されていた。
そのライシュが、臣下にして友人であるはずのエルストを恐れ警戒しているという。そのくせして、それを人には悟られたくない。だからエルストに建前だけの準備をさせている。なんと度量の小さなことか。
そのようにしてライシュを貶めるのはサンディアスにとって心地よいことだった。稀代の覇王の度量を小さいと断じ、その上に自らを置く。他人を貶めて自らを高めるのは、努力をしなくて良くて楽だった。
だからかもしれない。サンディアスはこの「アルヴェスク軍は南方から侵攻してくる」という情報を信じた。これまでの定石どおりであれば侵攻は西からで、その定石を外すという意味において南からの侵攻は理にかなっている。そのように考え、彼自身は理性的な判断を下したつもりであった。
しかしその裏では、ライシュを矮小な人間にしておきたいという、彼自身の願望が影響を与えていたことも否めない。無論、スピノザが熱狂的にこの説を押していたから、というのもある。
まあそれはともかくとして。敵は南から来るとした以上は、それに沿って軍略を立てなければならない。さしあたっては、これを迎撃する軍勢の総司令官を決めなければならなかった。
「是非、この私にお任せを!」
真っ先に声を上げたのはやはりスピノザだった。しかしその後ろから別の声がしてやんわりと彼を押し止める。ブロガ伯爵だった。
「モリード殿の意気やまことに結構。しかしモリード殿は配下の兵をお持ちでない。ここはこのブロガにお任せあれ」
ブロガ伯爵はそう言ってサンディアスの前に跪く。彼は毒気のないにこやかな笑みを貼り付けているが、その奥には手柄に餓えた野心家の顔があることに、スピノザはもちろんその他の者たちも気付いていた。
「ブロガ伯爵……」
「なんですかな、モリード殿」
憎悪の篭った視線で睨むスピノザを、ブロガ伯爵はにこやかな笑みを浮かべたまま受け流した。彼はよほどの鉄面皮であるらしい。
サンディアス配下の家臣のなかで、一体誰が筆頭というべき存在になるのか。その駆け引きはまだ決着を見ていない。しかし、誰が最も武力を持っているのかと言うと、それは間違いなくブロガ伯爵だった。
現在ブロガ伯爵が王都に連れて来ている領軍はおよそ2万。さらに領地に号令をかければ、短期間のうちにもう1万程度を積み増しすることが出来る。軍勢の中核となるには十分な戦力と言える。
それに対し、スピノザが保有している彼独自の戦力は存在しない。とはいえ言ってみればスピノザはサンディアスの直臣だから、彼の兵を借りることで体裁を保つことはできるだろう。
しかしながらそうは言っても、スピノザはサンディアスに仕え始めてからまだ一年にも満たない。その彼が他を差し置いて総司令官になれば、その反発は間違いなく大きい。やはり総司令官は誰もがある程度の納得を示す者でなければ務まらないだろう。
スピノザが武勇を見込まれて仕官したなら他の者も納得したかもしれないが、しかし彼に大きなこれまで武功はない。それどころか苦い経験がある。そのためサンディアスとしても彼に総司令官を任せるのは不安だった。
「総司令官はブロガ伯爵とする」
サンディアスはそのように裁定を下した。それを聞くと、ブロガ伯爵は満足げな笑みを浮かべて「ありがたき幸せ」と言って頭を下げる。一方、スピノザは不機嫌な表情を隠そうともしない。
スピノザにしてみれば、ここでカルノーと戦い彼を殺すことが出来なければ、何のためにサンディアスに仕えているのか分からない。あまつさえ、ブロガ伯爵との戦いでカルノーとジュリアが死んでしまったら、彼の復讐は永遠に完結しなくなる。あくまでも自分の手でカルノーを殺し、そしてジュリアを取り戻すことにスピノザは執着した。
彼のその執着を、サンディアスはもちろん知っていた。ゾルタークから聞いていたからだ。宿願たる復讐を妨げられれば、スピノザはサンディアスを容易く裏切るだろう。裏切りとまでいかずとも、暴走して戦略や政略を滅茶苦茶にされかねない。
とはいえ、サンディアスにスピノザを切り捨ているつもりはなかった。逆を言えば、復讐の邪魔さえしなければ、彼は忠実な臣下として働いてくれるのだ。反感の計の献策など、彼は確かに有能である。それにライシュが扱いきれなかった彼を忠実な手駒にするというのは、なんとも痛快ではないか。
加えて、スピノザが抱えるカルノーやジュリアとの確執は、彼らと戦う上で大きな原動力となるだろう。不満を抱えた彼を傍においておくより、本人の望む場所に送り出してやって方がよほど健全で役に立つ。士気は高く、勇敢に戦うであろう。それでサンディアスはスピノザにこのように命じた。
「モリード。そなたに余の隷下から1万を預ける。これを率いてブロガ伯爵と共に戦うがよい」
それを聞くと、スピノザは驚いたような顔をして、そしてすぐに獰猛な笑みを浮かべた。獅子の笑みではなく、蛇の笑みであった。
「……敵軍の迎撃はお二人に任せるとしても、後方の備えは必要でしょう」
頃合を見計らってそう口を挟んだのは、デレスタ子爵だった。敵軍が南から来ると読んで準備を整える。それはよい。しかし、ただその一手に固執する必要もない。援軍のため、なにより王都防衛のために、パルデースに兵を集めておくべき。デレスタ子爵はそう進言した。
「デレスタ子爵は慎重でござるなぁ」
感心したかのような口調で、しかし小馬鹿にするかのようにブロガ伯爵がそう言った。彼にとって、デレスタ子爵の思惑はあまりにも見え透いていた。
要するにデレスタ子爵はブロガ伯爵の失敗を望んでいるのだ。ここでブロガ伯爵が敵軍の撃退に成功すれば、サンディアス配下の筆頭となるのは間違いなく彼だ。デレスタ子爵にして見れば、その流れは面白くない。面白くないが自分では何も出来ず、ただ失策を期待するだけの彼をブロガ伯爵は嗤った。
「戦場では、何が起こるか分かりませぬゆえ」
嗤われていることを知りつつ、デレスタ子爵は無表情を貫いて一般論を口にした。とはいえ、建前ではあるが後方の備えが重要であることに変わりはない。なにより、読みが外れて敵軍が西から来た場合、王都に軍勢がいなければこれを防ぐ手立てがない。
デレスタ子爵の進言をサンディアスは良しとし、それを彼に任せた。とはいえ、迎撃の主力となるのはあくまでもブロガ伯爵が率いる軍勢である。そのため、なにかとこちらの方が優遇された。
季節は夏。大きな戦いが、今年は北で始まろうとしていた。




