薄氷の同盟4
(やれやれ……。大人の振りをした子供の相手をするのは、疲れるな……)
サンディアスのもとを辞したゾルタークは、王都〈パルデース〉にある彼の屋敷の廊下を歩きながら内心でそう嘆息を漏らした。「大人の振りをした子供」というのは、言うまでもなくサンディアスのことである。
子供が「もう大人だ!」と言い張るのは見ていて微笑ましいが、身体ばかり大きくなっても中身は子供のままというのはいただけない。しかも本人がそのことを自覚していないのだからなお性質が悪い、というのがゾルタークの見立てだった。
サンディアスは兄のユーリアス王子を排除して玉座に付こうとしている。いや、ユーリアスだけを排除して事が終わるとは思えない。恐らく、父王さえも弑することになるだろう。
弑逆と簒奪という、大罪を企んでいるのである。その理由は、本人に言わせるならば「ユーリアスに国を任せれば、遠からずギルヴェルスはアルヴェスクの属国になる」から。なかなか殊勝な理由ではある。とはいえその言葉が上っ面だけであることに、ゾルタークはすでに勘付いていた。
(何ということはない。ただ、自分が持っていないものを兄が持っているのが、羨ましいだけ……)
ゾルタークがそう思うのは、サンディアスが王位に付いた後の展望を語ろうとしないからだ。ギルヴェルスをアルヴェスクの属国にしないといいつつも、その具体的な方策を語ろうとはしない。そもそも考えていないのだろう、とゾルタークは思っている。
要するにサンディアスにとっては王位に付くことが最終目標なのだ。これが創作の物語であればそれでもいい。しかし、現実は違う。むしろ王座に就くことは始まりでしかない。宰相と言う比較的王に近い立場で働いていたゾルタークは、そのことを人よりは知っているつもりだ。
しかし、それがサンディアスには分かっていない。自分ではなく兄が玉座について国を手に入れる。それが許せない。それが羨ましい。だから力ずくでも欲しい。そんな理由で動くのは子供だけで十分だ。しかも、自分ではほとんど何もしない。自分のために人が働くのが当然だと思っている。要するに「貢げ」ということだ。この有り様が子供でなくてなんだと言うのか。
あまつさえ尤もらしい理由をひねり出し、「祖国のためにあえて大罪を犯すのだ」と憂国の士を気取って悦に浸っている。人を見下すことに長け、そうやって自分の有能さと大器を信じ、だからこそ王位に相応しいと自己完結する。ゾルタークにしてみれば、正直に言って王位に相応しいとはとても思えない人物だった。
(まあ、無能であってくれた方が私にとっては都合がいいのだがな……)
そう内心で呟き、ゾルタークは薄い笑みを浮かべた。そして懐に大切にしまってある封筒を服の上から確認する。そこには彼がライシュハルトと交わした契約を証明する、玉璽の割り印が納められている。
ゾルタークにとって仕えるべき主とはサンディアスのことではなかった。彼の仕えるべき真の主、それはアルヴェスク皇国の摂政ライシュハルトだった。
『ギルヴェルス王国に乱を起こせ』
その密命を帯びて、ゾルタークは今こうしてギルヴェルスの地にいる。そして弑逆と簒奪を企むサンディアスに取り入り、その下で彼の謀略のために働いている。王位を望むサンディアスに内乱を起こさせ、こうしてギルヴェルス国内を混乱させ、アルヴェスクの付け入る隙を作り出すために。
そこから先はライシュの仕事である。軍勢をギルヴェルスに進ませ、かの地を併合する。それが成れば、ゾルタークは旧メルーフィス領の総督にしてもらえる約束だった。
(いや、総督職など、あえては望むまい)
彼が欲しいのは、いや欲しいなどという生温い言葉ではいかほども足りない。魂の奥底から希求する至宝は唯一つ。
それは自決したメルーフィス王国最後の国王アルバート4世の、正室の末娘シルディアーナ姫である。彼女をその手に抱くこと。それがゾルタークの最大の望みだった。
(そのためならば……!)
そのためならば、悪魔に魂を売ることもしよう。幸い彼が契約を交わしたのはアルヴェスク皇国の摂政ライシュハルト。彼は人間だから悪魔よりは幾分ましな存在であろう。少なくとも交わした契約書の中に「魂を寄越せ」とは書かれていなかった。
さらに彼はシルディアーナ姫のことを総督職に付随する装飾品程度にしか考えていない。ならば総督職を与えると約束してくれた以上、彼女もまた間違いなく与えてくれるだろう。ゾルタークはライシュのことをその程度には信頼していた。そして信頼しているからこそ、こうして我儘な主にも我慢して仕えている。
(破滅させてやるときが今から楽しみだな……)
そのときを想像して、ゾルタークは暗く笑う。仕えてみて分かったことだが、ゾルタークはサンディアスのことが嫌いだった。人間どうしても折り合いの付かない相手がいるものだと言うが、ゾルタークにとってはサンディアスがそうらしい。そういう主に仕えるのは苦痛の連続で、その度にゾルタークはシルディアーナ姫を、またサンディアスの破滅する姿を思い浮かべて耐えていた。
(まあ、これからしばらくは離れていられる。喜ばしいことだな)
内心でそう呟くと、ゾルタークは満足げに頷いた。これから彼はギルヴェルスに流れてきたというスピノザに会いに行く。内乱を起こすつもりでいるサンディアスには、しかし人材が不足しており、そのため彼に「仕官しないか」と誘いに行くのだ。
尤も、現時点ではスピノザがどこにいるのかも定かではなく、まずは彼を探し出さなければならない。これには相応の時間がかかるだろう。サンディアスの配下でスピノザの顔を知っているのは、実際に彼に会ったことがあるゾルタークだけ。そのため彼は指示を出すだけでなく、自ら動いてスピノザを探すつもりだった。
それには無論、相応の時間がかかるだろう。よってその間、ゾルタークはサンディアスからは離れていられる。実に結構なことだ、とゾルタークは内心で喜んでいた。
(まあ、さすがにそれだけが理由ではないがな……)
ゾルタークはギルヴェルスの混乱を望んでいる。そのためにはこれから起こる内乱が泥沼化する、つまりサンディアスの思うとおりに進まないことが望ましい。それなのにここで彼に高度な教育を受けた人間を紹介するというのは、ある意味では本末転倒だ。それなのにスピノザのことを紹介したのは、ひとえに彼のことをライシュへの土産にするためだった。
スピノザが国外追放になったそのいきさつについて、当時まだメルーフィス王宮のライシュの下で働いていたゾルタークは随分詳しいことを知っている。その私戦の理由が、近衛軍を率いていたカルノーへの嫉妬であることや、彼を庇ったエルストへ強い憎しみを抱いているであろうことも知っている。
友人二人と対立し、特に義弟であるカルノーの命を狙ったスピノザのことを、ライシュは決して許すまい。その彼を、サンディアスが破滅するとき一緒にライシュに引き渡す。この土産はライシュを喜ばせ、彼は間違いなく契約を履行してくれるだろう。小ざかしい点数稼ぎのような気もするが、宿願を達成するためにも念には念を入れておくべきであろう。
(それに、スピノザは思う以上に役に立つかも知れぬしな……)
決してサンディアスの、ではない。ゾルタークの、である。嫉妬に狂った男は使い物にならない。そういう男を放り込んでやればサンディアスの陣営は混乱し、内乱の泥沼化の一助になるかもしれない。ゾルタークはそんなふうに思っていた。尤も、これは多分に希望的観測であるが。
何にせよ、今は動くべきときである。動かなければ事態を自らの望む方向へ導くことはできない。ならば行動あるのみ、だ。
(それにしても、寒いな……)
念のために言うが、本日はこの時期における平均的な気温である。南国メルーフィスで生まれ育ったゾルタークにとって、北国であるギルヴェルスの気候は寒すぎた。
(冬をこの地で迎えることはしたくないものだ……)
その願いは、叶えられることになる。ただし、彼の望まぬ形で。
□■□■□■
ゾルタークがスピノザを見つけたのは、ギルヴェルス王国の南部から王都パルデースへと向かう街道が通る、とある宿場町だった。どうやらスピノザはパルデースを目指していたようなのだが、ここで手持ちの路銀が尽き、仕方なく乗っていた馬を売って金に換えていた。その馬は見事な黒毛の駿馬であり、そのため買取った側もスピノザのことをよく覚えていた。
ゾルタークがスピノザを見つけたとき、彼は宿場町の酒場にいた。人の少ない店内で一人隅の席に座り、麦酒を呷る彼の姿を見てゾルタークはほくそ笑む。
上等な仕立てであったであろう衣服は、落ち延びていく中で埃にまみれて小汚く、またあちこちが擦り切れていた。目には生気がなく、髪の毛は乱れ、顎には無精髭が生えている。まさに落ち武者といった有様で、鬱屈した不満をこれでもかと抱え込んでいるのが容易に見て取れた。
この無様な姿を見て一体誰が、この男が元カディエルティ侯爵であると思うだろうか。実際、酒場にいる者たちは彼に見向きもしない。まるで世界から忘れ去られたかのように、彼はそこにいた。
(いや、実際忘れ去られているのだろうな……)
ゾルタークは少々哀れに思いながら内心でそう呟いた。アルヴェスク皇国の表舞台から姿を消したスピノザは、メルーフィスの併合と言う輝かしい業績の裏で人々の記憶のなかから消え去っていく。あと一年もすれば、彼の名前は記録のなかにしか残っていないだろう。
もちろん、あの私戦の当事者たちはスピノザのことを覚えているだろう。しかし彼らとて、時経つうちにその重要度は下がっていく。やがては恨みや憎しみさえ覚えぬ、道端の石ころと同じ程度の存在になっていくのだ。
(それでは、私の役には立たぬなぁ……)
石ころを献上しても、ライシュは喜ぶまい。やはりまだ記憶に新しいうちに献上してこそ価値があるというものだ。このタイミングで彼を見つけられたことを僥倖と思い、ゾルタークはスピノザに近づいた。
「もし。カディエルティ侯爵のスピノザ卿ですな?」
あえて「元」と付けずにそう呼び、ゾルタークはスピノザに話しかけた。その呼びかけは彼の中の自尊心をくすぐったらしく、スピノザは酒精で淀んだ目に鈍い光を灯してゾルタークに視線を向けた。
「そうだが……、貴様は……?」
「ゾルタークでございますよ。メルーフィスの王宮で何度かお会いしましたな。お久しぶりにございます」
にこやかな笑みを浮かべて、ゾルタークは略式ながらも恭しく一礼して見せた。そして一緒に座ってよいか尋ね、承諾が得られたのでテーブルを挟んで彼の向かいに座る。
椅子に座っても、ゾルタークはすぐに話を切り出さなかった。スピノザは彼の要件が気になるようだが、しかしゾルタークはそれに気付かぬ振りをして、まずは酒とつまみを注文する。そして注文を取りに来た娘がテーブルから離れると、彼はまずおもむろにこう言った。
「スピノザ卿は、大変な目に合われましたなぁ……」
心底同情している、と言ったふうの声音でゾルタークは話しかけた。それに対し、スピノザは何も答えない。答えないが、その視線は正面に座るゾルタークに注がれている。彼の意識が自分に集中しているのを見て取り、彼はさらに言葉を続けた。
「スピノザ卿こそ誠の忠臣。それをあらゆる権利と地位を剥奪した上で国外追放にしてしまうとは……」
それを聞いて、スピノザの顔が苦みばしった。自分に下された処分について、彼自身予想はしていたはずである。しかしあるいは、その内容についてスピノザが聞くのは、これが初めてであったのかもしれない。
もはや国には戻れぬと知り、しかしそれでもカディエルティ侯爵であった過去の栄光にしがみ付かずにはいられない。そんなスピノザの内心が、ゾルタークには手に取るように分かった。
「そもそも、ライシュハルトは身内に甘すぎる」
ゾルタークはそうスピノザの内心を代弁してやった。彼は二人の学友を重用しすぎである、とそう批判する。しかもそのうちの一方は元をただせば貧乏騎士家の三男でしかない。そのような者に妹を与えて重用すれば、国の正格が揺らぐのは明白である。
「むしろ、スピノザ卿のような方を重用するべきだったのです」
ゾルタークはそのように言い切った。ただしその言葉は彼の本心からは程遠い。
能力のある者、手柄を立てた者を重用する。それによってこそ、国家に正格が生じるのである。血筋や身分ばかりを重視する権威主義に陥っていては、国の機構は形骸化しいざという時には容易く瓦解してしまうであろう。
スピノザがどれほどの能力を持っているのか、ゾルタークは知らない。しかし、カルノーやエルストについては、多少なりとも知っている。二人とも、メルーフィス遠征の際には大いに活躍していた。
カルノーは大きな勲功を二つも立てた。エルストは軍勢を率いる指揮官としても、また政に関わる文官としても有能であることを証明して見せた。この二人を大いに重用することは、ライシュの立場からしてみればむしろ当然のことであろう。
一方スピノザはどうか。少なくともメルーフィス遠征において、彼は目立った功績をあげてはいない。それなのに重用してくれというのは、物事の道理として通らない。客観的に考えれば簡単なことなのだが、人間我が身のこととなるとそうは考えられぬらしい。スピノザはゾルタークの言葉に躊躇いながらも同意する。
「…………私を頼りにしていただければ……、皇国のために尽くしたものを……!」
「まことに。アルクリーフ公爵エルストロキアの増長を抑えられるのは、カディエルティ侯爵となったスピノザ卿しかいないというのに。ジュリア殿下も、むしろ貴方にこそ嫁ぐべきであられた」
「そう言って下さるか、ゾルターク殿!」
そう言ってスピノザは涙を流した。彼が流すのは悔し涙か、はたまた悲嘆の涙か。どちらにせよゾルタークにしてみれば、彼が悲劇の主人公を気取って自らを慰めているようにしか見えなかった。
スピノザが涙を流したことで会話が途切れる。そしてまるでそのタイミングを見計らったかのように、店の娘がゾルタークの注文した麦酒とつまみを持ってくる。注文された品をテーブルの上に並べ終えると、娘は一礼してテーブルを離れた。そんな彼女にゾルタークは小額の銅貨を数枚握らせてやる。彼女はその小銭に満面の笑みを浮かべると、深々と一礼してからカウンターの方へと戻った。
娘がテーブルから離れると、ゾルタークはまず麦酒を一口呷る。土地か気候か、あるいは水のせいなのか。メルーフィスの麦酒とは風合いが異なる。飲みなれたものと比べると、いささか味が尖っているように思えた。そして静かに麦酒のコップをテーブルの上に戻すと、おもむろに会話を再開する。
「…………見返したくはありませんか?」
ゾルタークがそういうと、スピノザは俯いていた視線をゆっくりと上にあげた。彼の視線が自分に向いたことを確認してから、ゾルタークは言葉を続ける。
「実は、私もライシュハルトにメルーフィスから放逐されてしまい……」
頭を左右に振りながら、いかにも忌々しげな口調でゾルタークはそう言った。そうやってその放逐が不当であり、彼がアルヴェスクとライシュハルトを恨み憎んでいることを印象付ける。それにより、同じく不当にも国外追放となったスピノザとの共通項を、ゾルタークは巧みに作り上げた。
「そうしてギルヴェルスに流れてきたわけですが、しかし幸いにもこの地で良き主と巡り合うことができました」
「その、主とは?」
「サンディアス王子です。私は今、ここギルヴェルスで殿下にお仕えしています。殿下はスピノザ卿の力を必要としておられます。どうかその力、お貸しいただきたい」
そう言ってゾルタークは頭を下げたが、スピノザはすぐに答えようとはしなかった。サンディアスがギルヴェルスにおいて主流派ではないことを知っているからだ。仕官した主が日陰者では、栄達は望めまい。大国アルヴェスクの有力貴族の一角であったスピノザにとって、それが自らに相応しい新たな活躍の場であるとはなかなか思えないのだ。
スピノザのそのつれない反応は、しかしゾルタークにとっては予想の範疇内である。彼は身を乗り出し、周りを気にするそぶりを見せながら声を潜めてこう言った。
「……あまり、大きな声では言えませぬが、実は……」
サンディアスは王位を狙うつもりである。そのための計画も立てられ、そして実際に進行中である。ゾルタークはスピノザにそう告げた。
「それは……!」
スピノザは目を大きく見開いた。彼は告げられた情報の価値の大きさに戸惑う。そしてそれを告げたゾルタークの真意を見極めようと、必死に頭をめぐらせた。
「……よろしいのですかな、そのようなことを私に教えて。例えば、私にはユーリアス王子に密告するという選択肢も……」
「失礼ながら、ユーリアス殿下はスピノザ卿の言葉を信じますかな?」
ゾルタークにそう言われ、スピノザの視線が険しくなった。今の彼は大国アルヴェスクを追われた罪人である。その罪人の言葉を一体誰が信じるというのか。金目当ての戯言であると切って捨てられるのが関の山であろう。
そうなると、スピノザがこの情報を有効に使うためには、ゾルタークの誘いに乗ってサンディアスに仕官するほかない。今の彼は確かに日陰者だが、しかし企みが成功すれば一挙にギルヴェルスの国王である。そしてその企みの成功に尽力した忠臣には、多大な恩賞が与えられるであろう。この地で再び貴族に返り咲くことも夢ではない。
(しかしユーリアス王子と対立するということは……)
彼の娘が嫁いでいるアルクリーフ公爵家、つまりエルストが出しゃばってくる可能性が高い。つまり事はギルヴェルス一国に留まらず、アルヴェスクまでも巻き込むことになるのだ。
(エルストロキア……!)
あの夜、エルストに邪魔をされまた大いに侮辱されたことを、スピノザは忘れていない。最も憎いのは間違いなくカルノーだが、エルストにもまた彼は忘れられぬ恨みを抱いているのだ。
サンディアスの側に与すれば、エルストに雪辱を果たす機会もあるやもしれぬ。さらにギルヴェルスとアルヴェスクの関係が悪化すれば、そのうちに両国が本格的な戦端を開くこともあるだろう。それはカルノーを殺すまたとない機会に思えた。
(エルストロキアを殺し、カルノーを殺し、そして……!)
奪うのだ、ジュリアを。あれだけ情熱的に愛を囁いてやったというのに、あの女はよりにもよってカルノーに擦り寄って行った。あまつさえ、真に夫となるべき自分に弓矢を射掛けるとは。二度とそのようなことをせぬよう、あの尻軽女は厳しく躾けてやらねばなるまい。
(取り戻すのだ……! 何もかも!)
不当に奪われた全てを取り戻す。そのときを思い浮かべてスピノザは歪んだ笑みを浮かべた。
彼が自らに都合の良い想像を勝手に膨らせているのを見て、ゾルタークは内心でほくそ笑む。ここまで来れば、後は簡単である。一言二言、彼の勝手な想像を補強してやればいい。
「サンディアス殿下に協力していれば、いずれアルヴェスクに凱旋する日も参りましょう。スピノザ卿なれば、その日もそう遠くはないと思いますが?」
滑らかな口調でゾルタークはそう言った。心にもないことをそれらしく話す能力に長けているという意味で、彼はまさしく百戦錬磨の政治家だった。
結局、スピノザはゾルタークの手を取った。彼の目に危険な光が宿っていることに、ゾルタークは無論気付いていた。しかし彼はそれを意図的に無視する。その狂気はきっとギルヴェルスに乱を起こす上で役に立つ。そう思ってのことだった。
後日、スピノザはゾルタークによってサンディアスに紹介され、そして正式に仕官した。ゾルターク以上に表に出せる素性ではなかったので、サンディアスは彼に偽名を名乗らせた。〈モリード〉というのが、その偽名である。
「そなたの働きに期待する。励めよ」
サンディアスが鷹揚な態度でそう言うと、スピノザは静かに頭を垂れた。内乱をもたらす風雲は、こうして人目につかぬところでその勢いを増していく。大多数の人々にとっては、迷惑この上ないことであるに違いない。
なおスピノザが売った馬であるが、これほどの駿馬を見逃すのは勿体無いと部下に進言されたゾルタークはこの馬を買い、その上でスピノザにこれを返した。
『これで、まずは一つ取り戻しましたな』
ゾルタークがそう言われ、スピノザは歪んだ笑みを浮かべながら馬の手綱を受け取る。これで彼は取り戻すことの味を知ってしまった。その味を忘れることはできないだろう。まるで麻薬に溺れるかのように、彼はそれを求め続けることになる。
(せいぜい、役に立てよ……)
内心でそう呟き、ゾルタークはほくそ笑んだ。




