薄氷の同盟1
メルーフィス遠征を終えた、大陸暦1061年の春先。柔らかな春の日差しが、部屋の中に差し込んでいる。そのおかげで暖かくなった室内に、一人の男がいた。
「まさか、クシュベガの族長たちからこのような申し出があるとはな……」
愉快げな笑みの中に一抹の呆れを混ぜながら、アルヴェスク皇国摂政ライシュハルト・リドルベル・アルヴェスクはそう呟いた。彼の手元には、昨年併合したメルーフィスの総督から送られてきた、とある報告書がある。
「まことに。クシュベガの民がこうも明確に恭順の意を示して来るとは。皇国の歴史上、初めてのことなのではありませんか?」
ライシュの傍らに立ちそう応じたのは、彼の侍従長であるハウザー・ロト・ジュベーニだった。ハウザーは元々リドルベル家の執事であり、有能であったので将来は家令となることを嘱望されていた。だがライシュが摂政となったことで、面識がありさらに信頼の置ける彼が侍従長に指名されたのである。
これは異例の大抜擢とはいえ、そのため難色を示す者もいた。だが侍従長とは本人の能力以上に主からの信頼が重要な役職。ライシュにしてみれば、よく知りもしない貴族にその役職を任せられるはずもない。そのため彼はこの人事をやや強引に押し通した。
ちなみに、ハウザーの身分が騎士であったことが、反対が強くなった一因であるのだが、さすがにライシュも摂政の侍従長が騎士であるというのは体裁が悪いと思ったのか、彼に〈ロト〉の称号を与えて貴族とした。ただし、爵位は与えてはおらず、そのためハウザーはミドルネームを名乗っていない。
まあ、それはそれとして。クシュベガの民が皇国に接触してくることはこれまで何度も会った。それは商売のためであったり、あるいは略奪のためであったりした。特に規模の大きな商売のときには、彼らのまとめ役として族長が窓口となることも珍しくない。つまり、皇国とクシュベガの間には、細々としたものではあるがきちんとパイプが存在しているのだ。
とはいえ、今回はその細々としたパイプを使っての接触ではなかった。より太くて大きなパイプ、つまりメルーフィスを介しての接触である。メルーフィスを併合していなければ恐らくこのような接触は有り得ず、ライシュにとっては自らが行った遠征事業の影響力の大きさを改めて感じる機会ともなった。
それでクシュベガの族長たちが何を言ってきたのかというと、「アルヴェスク皇国の庇護下に入りたい」と言ってきたのだ。それは国境際に居を構えることや、ともすれば入植することも含んでいる。つまり先ほどハウザーが述べたとおり恭順の意を明確に示したわけで、このようなことはこれまで一度もなかった。
皇国にとって、これまでクシュベガの民とは、厄介な蛮族以外の何者でもなかった。確かに彼らとの間で商取引が行われることはあった。しかしその規模は非常に小さい。してもしなくても、皇国の経済にはなんの影響もない。
それよりもクシュベガの略奪隊の方がはるかに大きな問題だった。遊牧民であるクシュベガの民は、そのまま優秀な騎兵でもある。その武力は侮りがたく、皇国はこれまで何度も大きな被害を強いられてきた。
それでも皇国がこれまでクシュベガの民を本格的に討伐してこなかったのは、はっきり言って割に合わないからである。
遊牧民である彼らは基本的に家族単位で移動しながら生活している。つまり、どこかに定住しているわけではない。そのため、どこかの拠点を攻め落とせば彼らを屈服させられるというわけではないのだ。
クシュベガの民を討伐するためには、まず彼らを探し出さなければならない。だが見つけたとしても、それは十数人程度の小さな集団であることが多い。これを討伐しても全体に与える影響は極めて軽微であり、目に見える効果を得るためにはこの“狩り”を長期間に渡って繰り返さなければならないのだ。しかしそれは、どう考えても費用対効果が悪すぎた。
さらに、クシュベガの民が生活している土地、つまり大陸の中央部にも魅力がない。そこは森が存在しない、砂漠と紙一重の草原地帯である。土地自体が痩せているし、また雨が少なく大きな水源もないので畑作には向かない。
そのため草を食べて育つ馬や羊を育てるほかない。しかし一箇所でそれらの動物たちを養うことができないので、彼らは牧草を求めて移動を繰り返す遊牧の生活を強いられている。そもそも一箇所に定住して生きていけるような土地であれば、クシュベガの民とて遊牧の生活など選ばなかったであろう。
そのような土地であるから、皇国にしてみれば占領して入植するだけの価値がない。そのような土地を手に入れるために、金をかけて軍勢を出すなど馬鹿らしいことだった。その上、仮にそこに土地を得たとしても周りはクシュベガの民ばかり。そこが略奪隊にとって格好の獲物になることは簡単に予想できる。
そのため、歴代の皇王たちはクシュベガの民に対して積極的な関与をしてこなかった。 要するに、積極的な討伐などせず、ただ国境際の守りを固めておくのが一番簡単で安上がりな対処法だったのだ。
ライシュもその例に漏れず、クシュベガに対してちょっかいを出す気はなかった。しかしどういうわけなのか、彼らの方から皇国に接触があった。しかも、恭順したいとさえ言っている。
「それほどまでに、彼らの状況は悪いのでしょうか?」
「そうなのだろうな」
クシュベガの民は良くも悪くも自由で、独立の気風が強い。そんな彼らが誰かに恭順したいと言うのだから、よほどのことである。そしてその理由に、ライシュは心当たりがあった。
一つは、皇国のメルーフィス遠征である。その遠征の趨勢を決した決戦、グレイマス会戦においてメルーフィスに雇われたクシュベガの騎兵隊は敗走した。それによって彼らが少なからず打撃を被ったことは間違いない。
しかし全体としてみれば、それは小さな要因でしかない。もっと大きく、より直接的かつ決定的な理由があるのだ。
「ナルグレーク帝国は、よほど苛烈に攻めたらしいな」
「左様ですな」
呆れを滲ませたライシュの言葉に、ハウザーは大きく頷きながらそう応じた。
ナルグレーク帝国は皇国のメルーフィス遠征に呼応し、漁夫の利を得ようとして軍勢を動かした。しかしその軍勢がメルーフィス領内に侵入することはなかった。遠征軍がそれを打ち破ったからである。
帝国軍を撃退して隷下の軍勢にフラン・テス川を渡らせたラクタカス将軍は、しかしそれ以上軍を進めようとはしなかった。そしてライシュの指示で帝国軍と交渉を行い、彼らが賠償金として金貨5000万枚を支払うことを条件に停戦したのである。
この金貨5000万枚というは大金である。当然、その支払いはナルグレークの経済を圧迫することが予想された。だがこの賠償金は早急に支払わなければならない。なぜなら、大陸暦1061年からは未払い分について利息が発生するからである。
それで、そのお金をどこから調達するのか。そこでナルグレークが目を付けたのが、他でもないクシュベガの民だったのである。
遠征軍を撃退するためにメルーフィスがクシュベガの騎兵隊を金で雇ったことは、当然ナルグレークも知っている。結局それは失敗したわけだが、しかしクシュベガの民に対して多額の金銭が支払われたという事実は変わらない。その金を奪うことを、ナルグレークは考えた。
要するに、国を挙げての略奪である。略奪を繰り返すクシュベガの民のことを散々野蛮と罵っていたくせに、いざ自分たちがその立場になっても彼らはなんら痛痒を感じないらしい。まあ人とはそのようなものなのであろう。
その略奪の実動隊となったのは、すでに軍勢としての体裁が整っている、メルーフィスに侵攻するはずだったあの10万の兵である。ただし、遠征軍との戦闘で多数の死傷者が出ており、動かすことができたのは全部で8万程度だった。
この軍勢を率いていたのはやはりシリーザー将軍とアントニヌス将軍だったのだが、アントニヌス将軍の軍勢の方が損害は少なく、こちらが実動隊の主力となった。
ナルグレーク帝国軍によるクシュベガへの“遠征”は苛烈の一言だった。彼らは目に付く全てのものを奪い取っていった。人、物、金、家畜、食料。ありとあらゆるものである。彼らの通った後には草原しか残らなかったという。
クシュベガの民は無論これに抵抗しようとしたが、メルーフィスでの敗走が響いた。戦力そのものが低下していたし、またそのためか一枚岩となることができず、結局各個撃破されるような形になった。
この“遠征”は成功裏に終わったと言っていい。ナルグレーク帝国は期待していたものをほぼ手に入れることができた。アルヴェスクへの賠償金を一括で支払えるほどではなかったが、しかしかなり残高を減らすことができた。
さらにこの“遠征”の成功は、ナルグレーク帝国の民に非常にうけが良かった。クシュベガの“蛮族”は略奪を繰り返す忌まわしい存在であり、それを“成敗”してきた国軍はまさに英雄だった。国への支持が高まるという意味で、帝国は大きな戦果を手に入れたと言っていいだろう。
加えて、軍部への影響も見過ごせない。アルヴェスクに負けて以来、ナルグレークの軍部は雰囲気が暗かった。だがこの“遠征”を成功させたことで、彼らは自信を取り戻した。雰囲気は随分明るくなったそうだ。
直接敗北を喫した二人の将軍はそれが顕著だった。特にアントニヌス将軍は先の戦いで川を渡ってきたカルノー率いる第三軍に対し、ほとんど戦うことなく兵を引いた。その判断を「軟弱」と誹る雰囲気は確かにあったが、こうして彼の部隊が主力となり“遠征”を成功させたわけだから、その判断は結果的に正しかったことが証明された形である。十分に汚名を雪いだと言っていい
一方で踏んだり蹴ったりであったのがクシュベガの民である。メルーフィスの地でアルヴェスクに負け、さらにナルグレークに蹂躙された。散々な有様であり、彼らは弱り果てていた。
さらに、ナルグレークの“遠征”が終わってすぐ、冬が来た。クシュベガの地の冬は厳しい。凍死したり、あるいは餓死したりする者が続出した。
さすがにこの現状に危機感を持ったのだろう。クシュベガの族長たちの幾らかは庇護者を求めた。その一つが、アルヴェスク皇国というわけだ。
「ということは、北のギルヴェルスのほうにも同じような話が行っているかも知れんな」
はたと思いついた様子で、ライシュはそう言った。彼の脳裏には大陸地図が浮かんでいた。
クシュベガの地は大雑把に言って、東はナルグレーク帝国、西はアルヴェスク皇国、南はメルーフィス王国(現在はアルヴェスクの一部)、北はギルヴェルス王国にそれぞれ接している。
この内、略奪犯であるナルグレーク帝国に庇護を求めることなど有り得ない。すると残りはアルヴェスク皇国かギルヴェルス王国だ。アルヴェスクにこのような話が来たのだから、ギルヴェルスに来ていてもおかしくはない。
これは別に、クシュベガが両者を秤にかけているとか、内部で分裂してしまっているとか、そういうわけではない。つまりそれぞれの部族がどこを庇護者として選ぶのかという問題なのだ。アルヴェスクを庇護者に選んだ部族があるのだから、ギルヴェルスを選んだ部族があってもおかしくはない。ただそれだけの話である。
(ギルヴェルスとクシュベガ、か……)
ギルヴェルスとクシュベガ。頭の中で並んだこの二つの単語に、ライシュはさらにもう一つ人名を追加した。旧メルーフィス王国で宰相を務めていた男の名前で、ゾルタークという。
ゾルタークにはクシュベガの族長との間に太いパイプがある。先の遠征時にはそのパイプを利用し、短期間のうちに7万もの騎兵隊を集めて見せた。そんな彼に、ライシュはある密命を与えていた。
『ギルヴェルス王国に乱を起こせ』
ギルヴェルスで内乱を起こし、アルヴェスクの介入する余地を作る。それが、ライシュがゾルタークに下した密命だった。そのようにしてアルヴェスクの軍隊をギルヴェルスに進ませ、最終的にはかの地を併合する。それがライシュの目的だった。
どのようにしてギルヴェルスで内乱を起こすのか。その具体的な方法について、ライシュはゾルタークに何も指示をしていない。ゾルタークは十分に有能な男であるから、そのあたりのことは自分で考えるであろう。
ただ、このような情勢になったからには、ライシュもある程度その方法について予想が付く。つまり、ギルヴェルスに接触しようとしているクシュベガの民を利用する、という方法だ。
これまで何度か述べたが、クシュベガの民は優れた騎兵でもある。つまり彼らを抱え込めば、その武力をも取り込むことができるのだ。そこで野心はあれど武力のない者に、彼らを売り込む。その仲介役となるのが、ゾルタークだ。メルーフィスの宰相であった彼なら、誰にクシュベガの騎兵を売り込めばいいのかも分かっているはず。これはライシュの勝手な想像でしかないが、そう的外れでもないように彼には思えた。
(ということは、情勢がまた大きく動くのは、思ったよりも早いかも知れんな……)
そう考え、ライシュは全身の血が滾るのを感じた。皇国はついこの間、メルーフィス遠征を終えたばかりである。その地を完全に皇国の一部とするには、まだ時間がかかる。だというのに、彼はもうすでに次の戦乱の気配を感じ取っていた。しかし臆することは少しもない。むしろそれは、彼の望んだ戦乱だった。
余談になるが、ギルヴェルスの併合を望むのはライシュの野心の故だが、ではなぜギルヴェルスなのかという、そこにはちゃんと理由がある。メルーフィスを併合したライシュにとって、次に狙うことになる獲物は二つ。つまりギルヴェルス王国とナルグレーク帝国である。
この内、ナルグレーク帝国とはすでに一戦事を構えている。だがその時は旧メルーフィス領を安定させている最中であり、ライシュはそのまま帝国との全面戦争に移行することを望まなかった。
そこでラクタカス将軍に命じて停戦交渉を行わせたのだが、フラン・テス川の上流を抑えることはできず、代わりに金貨5000万枚という多額の賠償金を得た。それでこの賠償金を全て得るまでは、ひとまず帝国に手出しをしないで置こう、というのがまず一つ目の理由だ。
さらにもう一つ理由がある。それは、アルクリーフ公爵家の力を削ぐため、という理由だ。
公爵家の現在の当主は、ライシュの学友でもあるエルストロキア・レダス・ロト・アルクリーフ。そして彼の妻であるアンネローゼは現ギルヴェルス国王の孫姫である。当然、公爵家とギルヴェルスは関係が深い。
ギルヴェルスという一つの国家を後ろ盾としたアルクリーフ公爵家は、皇国のなかでも特に大きな発言力と影響力を持つようになった。そしてその当主は極めて有能なエルスト。彼は今のところ忠実な臣下でありライシュにも協力的だが、しかしエルストには間違いなく野心がある。ライシュは自分と同じ匂いをこの友人から嗅ぎ取っているのだ。
これを放置しておくことはできない。しかし公爵家を無理に粛清しようとすれば、強烈な反発が起こり国は割れるだろう。そもそもライシュにエルストを殺してしまおうという気がない。
ではどうするのか。ギルヴェルスを併合し公爵家の後ろ盾を取り除く。そうすればライシュとエルストの力関係は歴然たるものになる。ただそうなったとしても、友人は己の野心を諦めないだろう。彼はそのことを今から予期していた。
(まあ、いい……)
エルストは愚かな男ではない。野心を諦めないとしても、勝算のない状態で事を起こしたりはしないだろう。つまり公爵家の力を削げば、その分だけライシュは有利なる。今はそれでよしとするべきだった。
(もっとも、上手くいくかもまだ分からんがな)
ライシュはそう苦笑する。ゾルタークが内乱を起こせるかもまだ分からないし、仮にそれがうまくいったとしても、エルストがその事態を座して見ているとも思えない。きっと駆け引きをしなければならなくなる。それを、まるで友人と遊戯を競うかのように感じてしまうのは、もしかしたら自分の度し難いところかもしれない。ライシュそう思った。
「なんにせよ、今はクシュベガの民への対応だな」
そう口に出して意識を切り替え、ライシュは視線をもう一度手元の報告書に向けた。族長たちの要望通り彼らを受け入れるのか、それとも受け入れないのか。まずはそれを決めなければならない。
「摂政殿下は、いかがお考えなのですか?」
「基本的には受け入れてもいいと考えている」
ハウザーの問い掛けにライシュはそう答えた。皇国がクシュベガの民の庇護者となれば、彼らは領内への略奪を止めるだろう。それにクシュベガの優秀な騎兵を皇国の戦力として組み込めるのも魅力的だ。
無論、庇護者となる以上、彼らのことを守らなければならない。この場合、外敵となりえるのはギルヴェルスとナルグレークか。ただ、アルヴェスクが後ろにいると知ってなお、彼らがクシュベガの民に手を出すとも思えない。どう考えても割りに合わないからだ。
そうなると、庇護の大部分は食料の供給ということになるだろう。そもそも、クシュベガの民が略奪を行う最大の理由は食料が足りないからである。それくらいならば大した負担にはならない。彼らの持つ、例えば羊毛や乳製品あるいは家畜の肉などと交換すればいいのだ。飢饉の時には国の倉庫を開く必要があるかもしれないが、略奪の被害に比べればはるかにましだ。
「受け入れた方が皇国の利となる。私はそう考えている」
「ですが、感情的な部分で受け入れることができるでしょうか?」
ハウザーのその指摘に、ライシュは「なるほど」と思った。特にこれまで被害を受けてきた東方の貴族たちは難色を示すかもしれない。少なくともライシュの独断で決めてしまえばしこりを残すことになるだろう。
「ハウザー、予定は空けられるか?」
「……調整すれば、明後日の午後に時間を作れます」
主の予定を確認しながら、ハウザーはそう答えた。彼の頭のなかでは、すでにどこをどう調整すればいいのか、その計算が始まっている。
「ではその時間に主だった者を集めろ。対応を協議する。それと、受け入れる方向で根回しを進めておいてくれ」
「御意」
ライシュの言葉にハウザーはそう言って一礼した。歴史がまた、動こうとしていた。




