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アルヴェスク年代記  作者: 新月 乙夜
承の章 勝利を飾りに
30/86

勝利を飾りに15

 大陸暦1060年8月の初め頃、アルヴェスク皇国はメルーフィス王国を征服し、かの地を完全に併合した。旧メルーフィス王国の版図は54州。アルヴェスク皇国の元の版図344州であるから、この併合によって皇国の版図は398州となった。


 併合が完了すれば、過剰な軍事力は必要ない。むしろ養うのに金がかかる。そこでライシュは一部の戦力を除いて遠征軍に本国への帰還を命じた。ちなみにライシュ自身もプレシーザに残るので、この度の遠征の戦功褒賞は彼が皇都アルヴェーシスに帰還してから行われることになる。


 ライシュと共にプレシーザに残るのは、本陣10万のうちのおよそ5万。これをラクタカス将軍が率いる。ライシュはエルストにも居残って仕事を手伝ってくれるよう頼んだのだが、彼は「新しい領地のことが気がかりですので」と言ってそれを断った。ライシュも友人を無理に引き止める理由はなく、こうしてエルストはアルクリーフ領軍と共に本国へ戻ることになった。


 帰還する軍勢を指揮するのは、近衛軍の仕官であるカルノーだった。彼の直接の隷下にいるのは本陣のうちの、プレシーザに居残らなかったおよそ5万。さらにここにリドルベル領軍の5000騎が加わる。当然、ジュリアは彼の隣にいた。


 来た道を引き返し本国へと向かう遠征軍の雰囲気は、全体としては明るかった。メルーフィスを併合し、さらにナルグレーク帝国の軍勢をも撃破した。遠征は大成功と言ってよく、褒賞も期待できる。彼らは自らの武功を自慢しあい、勝利を与えてくれた総司令官のライシュをたたえた。


「摂政殿下がおられれば皇国の未来は明るい」


「ナルグレーク帝国も大したことはなかった。そのうち、帝国も皇国の一部になるであろうよ」


「殿下がユーラクロネ大陸を統一される日も、そう遠くはないかも知れんなぁ!」


 遠征軍の兵士たちは毎晩そのようなことを語り合った。気が緩んでいるようにも思えるが、夜襲を仕掛けてくるような敵勢力も近くには存在しない。昼間の行軍に支障が出ない限りは、カルノーもうるさく口出ししようとは思わなかった。


 しかし、遠征軍の全てがそのように明るい雰囲気だったわけではない。なかには今回の遠征における自分達の戦果に満足できない者たちもいた。グレイマス会戦で叩きのめされた東方貴族たちと、その隷下にいる兵士たちである。


 いや、そのなかでもオルブレヒトをはじめとする、ナルグレーク帝国軍との戦いに加わった東方貴族たちはまだ良かった。彼らはその戦いにおいて武功を上げ、グレイマス会戦での失敗を取り戻していたからである。


 しかし、ナルグレーク帝国軍との戦いに加わっていない者たちは、ついに汚名返上の機会を得られないまま、こうして本国への帰路についている。そのため彼らは周囲の浮かされた雰囲気に馴染めず、むしろそういう空気を疎ましく思うようになっていた。


 当然、不満が溜まる。そしてその不満はグレイマス会戦において先鋒を務め、しかし単独で突出しすぎたことにより、自らのみならず両翼の敗走の原因となった、カディエルティ領軍へと向けられた。


「まったく、なぜカディエルティ領軍はあそこでああも無謀に飛び出したのか……」


「単独で飛び出されては、どれだけ全体の数で勝っていようとも意味がない。各個撃破されるだけではないか」


「左様。連携を乱して突出すれば袋叩きにあうことくらい、下級仕官でも分かりそうなものであるが」


「先代のアーモルジュ殿であれば、このような失敗をすることはなかったであろうになぁ」


「スピノザ殿もこのように大きな戦は初めてで、手柄が欲しかったのであろうが……」


「一人で功を焦るのは勝手だが、それに巻き込まれる身になってみよ。堪らんぞ」


「まったく。軍勢を率いる才を持たぬ者がしゃしゃり出るのは悲劇だ」


「代わりとなる者を早急に見つけ、後ろに引っ込んでいてもらいたいものだな」


 東方貴族たちは夜な夜な集まってはこのような会話を弾ませた。敗走の責任を誰か一人に押し付けるのは、つまり自分たちは被害者であると慰めあうのは、彼らにとって心地よいことだった。


 実際、スピノザがカディエルティ領軍を突出させてその結果痛撃をくらい、それが両翼の敗走にまで繋がったことは事実だ。少々の憶測が混じっていようともその事実がある限り、彼らが被害者になるのは容易だった。


 さらに、カディエルティ領軍の内部からも、同じような声が聞かれた。彼らの批評はより直接的で、さらには鋭いものだった。


「何と言う体たらくか。これが、簒奪者アザリアスを討ったあのカディエルティ領軍なのか!?」


「つまりは何事も頭が重要と言うことよ」


「その通り。近衛軍を見よ。先の内乱ではホーエングラムのせいで大敗を喫したが、此度の遠征で見事に息を吹き返したではないか」


「うぅむ、全てはラクタカス将軍の(いさお)よ」


「いや、カルノー殿の働きも見過ごせまい。グレイマス平原では迫りくるメルーフィス軍を押し返し、フラン・テス川ではナルグレーク軍を打ち破ったのは彼だ」


「おお、確かに。ラクタカス将軍に勝るとも劣らぬ武功よ」


「思えば内乱の際、カルノー殿はたった1000騎で45万の大軍を翻弄し、打ち破って見せた」


「まったく、あれは凄まじい戦いであったよ」


「なんと、お主、その場にいたのか!?」


「うむ。最初は慎重すぎるかとも思ったが、一度動けばその後はまさに電光石火。やることなすことが全て上手く行った。あれはまさに奇跡のようであったぞ」


「あれ以来、カディエルティ領軍の勇名は皇国中に(とどろ)き渡っていたというのに……」


「アーモルジュ様にカルノー殿。お二人とも、今はもうカディエルティ領軍にはおられぬからなぁ……」


「せめてカルノー殿がおられればなぁ!」


「そもそも、カルノー殿はアーモルジュ様の愛弟子だ。ならばカディエルティ領軍におられるのが最も自然な形ではないのか?」


「いや。なればこそ、摂政殿下はカルノー殿を傍におきたいと願われたのだ」


「それに、アーモルジュ様の薫陶を受けたという意味では、スピノザ様も同じではないのか?」


「摂政殿下もそれを期待しておられた。だが、結果はこのとおりよ」


「まあ、そういうことじゃな」


「しっ、滅多なことを言うものではないぞ」


 このようなところで口をつむぐのが彼らの常だった。そして、口には出さずとも彼らの思いは共通している。


《スピノザはカルノーに及ばない。もしカルノーがカディエルティ領軍の指揮を執っていれば、このような醜態を曝すことはなかったであろう》


 つまり彼らはそう思っていたのだ。そしてそう思っていれば、それは口に出す言葉に影響してくる。


 部下達のそのような会話を、スピノザが直接耳にすることはなかった。しかし、言葉の端々はどうしたって聞こえてくるし、また雰囲気としても伝わってくる。彼自身失敗した自覚はあったし、またカルノーが武功を立てたのも事実だったから、反論することもできない。努めて聞き流し、聞こえない振りをするほかなった。


 しかし、次のような会話が聞こえてくれば、さすがにスピノザの心はささくれ立った。


「それにしても、カルノー殿はまさしく飛ぶ鳥を落す勢いであるな」


「うむ。ジュリア殿下ともご結婚なされ、これで名実共に摂政殿下の右腕じゃ」


「まさか、戦場で挙式されるとは思わなかったが」


「なに、お似合いであったではないか」


「あのお二人が陣頭に立たれれば、まさに向かうところ敵なしであろうよ」


「我らがそれにあやかることは、もう無いのであろうなぁ……」


「いや。将来、もしカルノー殿が東方の総督に任じられることがあれば、有事の際には我らもそのもとにはせ参じることになる。そうなれば……」


「我らもお二人の下で戦えるな」


「おお! では、カルノー殿には是非大いに出世してもらわねばな!」


 自分の部下たちが、よりにもよってカルノーの出世を願っているのである。無論、大部分は無責任な冗談なのだろうが、スピノザにとってはこの上も無く不愉快だった。あまつさえ、彼らはカルノーとジュリアのことを「お似合い」と言っているのだ。それはまるで、スピノザが彼女に相応しくないと言われているようだった。


 そしてある夜のこと、浴びるようにワインを飲み、そのまま眠りに落ちたスピノザは夢を見た。悪夢であった。


 アーモルジュが世子としてスピノザではなくカルノーを指名し、彼にカディエルティ侯爵家を継がせると言う内容だ。カルノーの横にはジュリアが立っており、二人は揃ってスピノザに嘲笑を向けていた。いや、二人だけではない。スピノザの周りにいる全ての人々が、戦と恋に破れた彼を嘲笑っていた。


 夢らしく、ずいぶん荒唐無稽な内容である。しかしこの悪夢はスピノザの心にとって強力な一撃となった。彼の自尊心の最後のよりどころである侯爵家さえもカルノーに奪われ、全てを失いただ嘲笑されて生きる。それはまるで先のことを知らせる予知夢のようにスピノザには思われた。いや、ともすればこの時の彼には、夢と現実の区別は付いていなかったのかもしれない。


「おのれぇ! おのれおのれぇえええ!!」


 大声を上げてスピノザは跳ね起きた。彼の胸のうちは屈辱と悔しさで一杯である。血走った目の端から、涙が流れ落ちる。蝋燭に照らされた天幕のなか、その涙はまるで血のように赤く見えた。


「許さぬ……! 許さぬぞ、カルノー!!」


 これが平時で、さらに屋敷の中のことであれば、スピノザはあるいは日の出と共に冷静さを取り戻すことができたかもしれない。しかしここは野営の天幕の中で、彼の回りには3万を越える軍勢がいた。そして、力はどのようなものであれ、人を容易く狂わせる。


「敵襲!!」


 その見張りの大声で、カルノーは飛び起きた。そして、すぐに天幕の外に出る。


「何事だ!?」


「カ、カディエルティ領軍ですっ。カディエルティ領軍が夜襲を……!」


「カディエルティ領軍だと……!?」


 思わずカルノーは言葉を失った。カディエルティ領軍といえば、彼の古巣であり、言うまでもなく味方である。それが、自分たちに夜襲を仕掛けてきた。にわかには信じがたい。しかし、聞こえてくる悲鳴と怒号は間違いなく戦場のものだった。


「……っ、迎撃する! ただし、逃げる兵は追うな!」


 ともかく、攻撃されているのであればそれに対処しなければならない。カルノーは迎撃を命じると、一度天幕に戻り急いで甲冑を身につけた。


「カルノー! これは一体……!?」


 カルノーが再び外に出ると、そこにはジュリアが立っていた。彼女の後ろには、カルノーの副官であるイングリッドも控えている。二人ともすでに戦支度を整えた姿だ。


 カルノーとジュリアはそれぞれ別の天幕で休んでいたのだが、彼は妻の身の回りの世話を数少ない女性仕官であるイングリッドに頼んでいたのだ。公私混同のようにも思えたが、まさか男に世話を任せるわけにも行かなかったのだ。


「カディエルティ領軍が攻めて来たというが、一体どうして……。 スピノザ卿は乱心されたのか?」


「なんにせよ、襲われているのであれば私は戦わなければなりません。姫は……」


「姫はよせ。もうお主の妻じゃ」


 こんなときでも律儀にそう訂正するジュリアに、カルノーは思わず嘆息しそうになった。が、それを何とか堪えてこう続けた。


「……ジュリアはイングリッドと一緒にリドルベル領軍の方々のところへ。いざという時にはロキのところへ、アルクリーフ領軍と合流してください」


「嫌じゃ! わたしも一緒に……!」


「イングリッド。ジュリアを、妻を頼みます」


「はっ、お任せを」


 言い募るジュリアをイングリッドに強引に任せ、カルノーは馬に跨った。そして部下を引き連れ“前線”へと向かう。


 カルノーが前線に到着すると、そこには確かにカディエルティ領軍の旗が翻っていた。その旗を見てカルノーは苦しげに顔を歪めた。その旗を見るとき、彼の脳裏にはアーモルジュの顔が浮かんでくる。だというのに、そのカディエルティ領軍が敵に、反逆者になるとは!


(いや、ともすれば旗を賊に奪われただけかも知れぬ……!)


 それが都合のいい希望に過ぎぬと知りつつ、カルノーはそう願わずにはいられなかった。しかし彼のその願いも、数秒後には無残にも打ち砕かれることになる。前線で狂ったように剣を振るうスピノザの姿を見つけてしまったのだ。


「スピノザ殿! これは一体どういうことなのです!?」


 カルノーがそう叫ぶと、スピノザの視線が動いて彼を捕らえた。その瞬間、スピノザの顔が狂気と憎悪で歪む。


「カルノォォォォォオオ!! 死ねぇぇぇええ!!」


 絶叫を(ほとばし)らせながら、スピノザは馬首を向け高々と剣を掲げて突撃してくる。カルノーは慌てて剣を抜き、振り下ろされるスピノザの剣を受け止めた。


「スピノザ殿、どうか落ち着いてください!」


「黙れぇぇええ!!」


 出鱈目(でたらめ)に振るわれるスピノザの剣を防ぎながら、カルノーはなんとか彼を説得しようと試みる。しかしカルノーが何を言えば言うほど、スピノザはますます頭に血を上らせて手がつけられなくなっていく。


「渡さぬ……。渡さぬぞ……! 武功も、侯爵家も、ジュリアも、全て私のものだァアアア!!」


 そう叫びながら、スピノザは激しく剣を振るった。カルノーは防戦一方である。彼の本来の剣腕から言えば、反撃してスピノザを切り伏せることは難しくない。しかしアーモルジュの跡継ぎである彼を、カルノーはどうしても傷つけることができなかった。


 カルノーは何十合か剣をぶつけ合ってその攻撃を防いでいたが、ついにスピノザの剣が血に染まった。ただし、カルノーの血ではない。彼が乗っていた馬の血である。なかなか彼に剣の刃が届かぬことに業を煮やしたスピノザが、馬の方を狙ってその首筋に切り裂いたのだ。


 悲しげな悲鳴を上げながら、カルノーの乗っていた馬が一瞬暴れて彼を振り落とす。地面に落された彼は左腕を痛打し、さらに剣を手放してしまう。左腕を押さえて(うめ)き声を漏らすカルノーを見て、スピノザは口の端を歪めて笑った。


「いい(ざま)だな、カルノー。切り捨ててやるゆえ、そこへ直れっ!!」


 そう言ってスピノザはカルノー目掛けて馬を走らせる。振り下ろされる彼の剣を、しかし別の剣が受け止めた。


「狂人ごときに我が親友の首をくれてやるわけにはいかんな!」


 スピノザの剣を払いのけ、さらに自分の剣の切っ先を彼に突きつけながら、この場に現れた乱入者は高らかにそう宣言した。淡い金髪とアイスブルーの瞳を持つその麗人の姿を認めると、カルノーは驚いて声を上げた。


「ロキ!? どうしてここへ……!?」


「なにやら愚か者が騒いでいるようなのでな。冷やかしに来てやったのよ」


 不敵な笑みを浮かべながら乱入してきた麗人、エルストはそう答えた。その間も彼は鋭い視線をスピノザに向けて外さない。


「さあどうする反逆者。私はカルノーほど優しくはない。胴と首が泣き別れする覚悟ができたらくるがよい!」


「くっぅ……。お、覚えておれ!」


 エルストが鋭い声でそう言うと、スピノザは顔を青くした。そして馬首をめぐらし、捨て台詞を残して暗がりの向こうへと逃げ去って行った。


(上手く逃げおおせるがいい。生き残ったならば、そのときは私のために使ってやる)


 逃げ去るスピノザの背中を見送りながら、エルストは胸のうちでそう呟いた。彼が本気で追えば、恐らくスピノザを討ち取ることはできる。しかし彼はそれをしようとは思わなかった。


 スピノザはカルノーのことを大いに恨んでいる。生き延びれば、その恨みを晴らさずに置くことはできないだろう。スピノザがどの程度踊ってくれるかはエルストにも分からないが、彼が恨みを晴らすために動けば、大なり小なり皇国に波風が立つ。そして波乱が起こればエルストも動きやすくなるだろう。せいぜい、派手に踊ってくれればいい。彼はそう思っていた。


(もっとも、今回のことで私にも恨みが向きそうだがな……)


 エルストはいっそ楽しげにそう思った。とはいえ、スピノザ如き小物にどれだけ恨まれようと、彼は痛くも痒くもない。


 スピノザの背中が夜の闇に隠れて完全に見えなくなると、エルストは馬から下りてカルノーに駆け寄った。そして彼に肩を貸して立たせてやる。


「立てるか、カルノー」


「ああ、すまない。おかげで助かった、ロキ」


「まったく、このお人好しめ。あの程度の小物、さっさと切り捨ててしまえばよかったものを」


「師父のことを思うと、どうしてもね……」


「アーモルジュ老であれば、『遠慮せずに切り捨てよ』くらいのことは言いそうだがな」


 エルストの言葉にカルノーは苦笑した。確かにアーモルジュであればそう言いそうだった。しかしそれでも、カルノーにはどうしてもスピノザは殺せそうになかった。


「スピノザは逃げたぞ! これ以上の戦闘は無意味である!」


 カルノーは大声でそう呼ばわった。主将が遁走したことを知り、カディエルティ領軍の兵士たちは次々に武器を捨てて投降した。スピノザの後を追おうとするものはいない。彼らもこの戦闘に疑問を感じていたのだろう。


 後になって、カルノーとエルストはスピノザが領軍の兵士たちに告げた、戦闘のための大義名分を聞いた。


『カルノーはメルーフィスの旧王族と結託し、その姫を娶ってメルーフィスの王となることを画策している。これは言うまでもなく摂政殿下に対する反逆である』


 カディエルティ領軍の兵士たちは頭からこのお題目を信じたわけではなかったが、しかし自分達の主将がそのように言う以上、彼らには信じて戦うよりほか道がなかったのだ。


 さて、スピノザである。エルストの鋭い舌鋒と剣先を逃れて闇の中を走る彼は、屈辱と恐怖にまみれていた。どこをどう走っているのかも、まったく分かっていない。今はただここから遠くへ離れ去り、そしていつの日にか復讐を遂げる。彼の頭にあるのはそれだけだった。


 闇雲に馬を走らせるスピノザは、やがてある一団の目の前に飛び出した。比較的少数であり、そのためスピノザは遠征軍とは関係のない一団と思い接触を試みたのだが、しかしそこには彼は今一番顔を合わせたくない人物がいた。


「スピノザ卿!?」


「ジュリア、殿下……」


 スピノザとジュリアは共に言葉を失った。ジュリアが遠征軍の野営地から離れた場所にいる理由は、彼女の身の安全を優先したアトーフェル将軍が、戦闘に巻き込まれぬに避難させていたからだ。リドルベル領軍の中でも指折りの護衛を付けていたのだが、それでも人数は100人弱。しかも暗がりで視界が利かず、そのためスピノザは遠征軍と関係のない集団だと思ってしまったのだ。


 ちなみに、アトーフェル自身は『万が一、殿下の義弟を死なせたとあっては末代までの恥』と言って、リドルベル領軍の大部分を率い戦いに加わっていた。


「捕らえよ! スピノザ卿はこの私戦の首謀者じゃ!」


 二人のうち、先に我に返ったのはジュリアのほうだった。鋭い口調でスピノザを捕らえるように命令を出す。そこに一切の躊躇いはなかった。


「くっ……!」


 ジュリアの声を聞き、スピノザは再び馬首をめぐらして逃げた。その後ろを、ジュリアらが地響きを立てながら追う。


「スピノザ卿! 大人しく投降されよ! カルノーも口添えをしてくれる!」


 ジュリアはそう叫んで説得を試みた。しかし、カルノーの名前を出したのは失敗だった。彼を頼るくらいならば、とスピノザは意固地になって馬を走らせ続けた。


「……っ、弓を射よ! 逃がしてはならん!」


 ジュリアの命令に従い、スピノザ目掛けて弓が射られた。とはいえ、殺さずに捕らえるつもりであるから、その照準は鈍い。結局、彼には一本として当らなかった。


 当らなかったとはいえ、弓を射掛けられることはそれ自体が恐ろしい。しかも、暗がりでよく見えない中を矢が風切りの音を立てながら飛んでくるのだ。スピノザは恐怖でふるえ、(たてがみ)に顔をうずめて馬にしがみ付く。そして追ってくる一団の松明を逃れようと、ひたすら闇の濃い方へ進んだ。


 結局、スピノザは逃げおおせた。彼の乗っていた馬が駿馬であったからだ。その駿馬は、かつてアーモルジュが彼に与えたものだった。


 夜が明けると、カルノーは昨晩の顛末について報告書をまとめ、早馬を出してプレシーザにいるライシュに知らせ、また今後の指示を仰いだ。


 カディエルティ領軍による襲撃事件とその顛末について知ると、ライシュは珍しく怒りを露にした。だが、すぐにカルノーとジュリアが共に無事であることを知り、胸を撫で下ろす。そしてすぐさまこの襲撃事件について処分を下し始めた。


 主犯であるスピノザは国外追放とし、さらに皇国内における一切の地位と権利を剥奪する。カディエルティ領軍の仕官たちについては譴責(けんせき)処分とした。カルノーやエルスト、それにジュリアやアトーフェルなどは罪に問われなかった。


 カディエルティ侯爵家については、スピノザがその当主である以上、まったくのお咎めなしというわけには行かなかった。ただし、カルノーからの口添えもあり、そう重い処分とはならなかった。


 内戦後に褒賞として与えられた2州を没収。先日隠居したアーモルジュを侯爵家の当主として復帰させ、襲撃事件の賠償を行わせる。これが侯爵家に下された処分だった。


 没収されたのは新たに増えた領地だけで、もともとの領地については安堵されている。さらにスピノザの嫡子をアーモルジュの養子とした上で侯爵家の世子とすることも認められた。お取り潰しの可能性さえあったことを考えれば、かなり穏当な処分といえた。


 アーモルジュは忠臣である。彼が当主の座にある以上、滅多なことは起こらないだろう。加えて、この穏当な処分がカルノーの口添えによるもの。侯爵家は彼に巨大な借りを作ったことになる。特にスピノザの嫡子は彼のおかげで侯爵家の世子という立場を守れたのだ。カルノーには決して頭が上がるまい。この関係はカルノーが貴族社会で生きていくうえで大きな力になるだろう。


 これらの措置をライシュは書面にしたため、カルノーに送り返した。そしてカルノーがその書状を持って皇都に帰還すると、処分の内容はアーモルジュにも知らされた。彼はスピノザが行ったことをつぶさに聞かされ、その上で処分を言い渡されると、ただ一言「愚か者が……」とだけ呟いた。


 この後、アーモルジュはカルノーに厚く礼を言うとすぐさまカディエルティ領へと戻り、そして当主としての仕事に臨んだ。彼の辣腕(らつわん)は健在で、侯爵家の傷は最小限ですんだ。しかしそれはアーモルジュの老体に鞭打ってのこと。晩年彼は身体の節々を痛めながら執務をおこない、さらに後継者を育成しなければならなかった。結局、彼が悠々自適な隠居生活を送ることはかなわなかったのである。



□■□■□■



 租税を安くするなりしてメルーフィスの民の人心を掴み、その新たな領土を安定させると、ライシュもまた皇都へ戻ることになった。これにより、アルヴェスク皇国によるメルーフィス遠征は本当の意味で終わることになる。そしてこれより先、両国の新たな歴史が始まるのである。


 ライシュが皇都へ帰還する日が近づいたある日のこと、彼はゾルタークを呼んだ。彼は皇国による支配に協力的だった。メルーフィスが思った以上に早く安定したその要因に、彼の一助があったことは間違いない。


「さてゾルタークよ。今後のメルーフィスについてであるが、しばらくは総督を派遣して監督させることにした」


「それがよろしいかと存じます」


 ライシュの言葉にゾルタークは賛同する。征服したばかりの土地と言うのは、小さなきっかけで混乱に陥りかねない。また、ライシュがここを離れれば反乱を起こす者が現れるかもしれない。そのような問題に対処するためにも、最初は総督という強権を持つ者がいた方がいい。


「それで、本題はお主の今後だ」


 そう言ってライシュはゾルタークに三つの選択肢を提示した。


 一つ、政の世界からは身を引いて隠居する。この場合、十分な額の支度金を用意すると約束した。


 二つ、派遣されてくる総督の傍で顧問官となる。つまり総督の側近となるわけで、彼がメルーフィスの元宰相であることを考えれば、その影響力は極めて強くなるといえるだろう。


 三つ、もう一仕事して、彼自身が旧メルーフィス領の総督となる。


「さあ、どうする?」


「……もう一仕事とは、一体何をすればよいのでしょうか?」


 ゾルタークは慎重にそう尋ねた。それに対しライシュは鷹揚(おうよう)に頷き、その仕事の内容を端的に告げた。


「ギルヴェルス王国に乱を起こせ」


 そして国を乱してアルヴェスク皇国が介入する余地を作る。見事ギルヴェルスを併合した暁には、ゾルタークを旧メルーフィス領の総督にしてやる、とライシュは言った。


「それは……、誠でございますか?」


「おう。このライシュハルト、嘘は言わん」


 ライシュはそう言い切った。それを聞いて、ゾルタークはゴクリと唾を飲む。


「……その仕事を引き受けるに当り、二つほどお願いがございます」


「聞こう」


 ゾルタークがまず求めたのは、ライシュの言葉を書面にしたため正式な契約書とすることだった。契約書は二通用意し、それぞれが一通ずつ保管する。しかしこれにライシュは難色を示した。契約書を交わせば、いざという時ゾルタークの後ろにアルヴェスクがいることをギルヴェルスに知られてしまう。


 ギルヴェルスを乱す騒乱は、あくまでもアルヴェスクと関係のないところで起こらなければならない。もし背後に皇国がいることを知られれば、ギルヴェルスは逆に外敵に対し一致団結するだろう。それでは意味がない。


「では、割り印を下さいませ」


 契約書は一通で、それはライシュが管理する。ただし割り印を押して、その片方をゾルタークが保管する。これならば、仮に割り印を見られてもライシュは白を切ることができる。


「それならばよかろう。それで、二つ目の願いは何だ?」


「私が総督となることができたその暁には、どうかシルディアーナ姫をいただきたく」


 それを聞いてライシュの眉が少しだけ動いた。シルディアーナとは、アルバート4世の正室の末娘である。このとき、14歳。50を過ぎているゾルタークとは、いささか歳の差がありすぎるように思えた。


「……よかろう。その条件も契約書に織り込む。これでよいか?」


 数秒の間、眉をひそめてゾルタークの顔を凝視した後、結局ライシュはそう言った。メルーフィス総督となったゾルタークの隣に、旧王家の姫が立つ。それは存外巧い手のように思えたのだ。そしてライシュの言葉を聞くと、ゾルタークは深々と(こうべ)を垂れた。


「有難き幸せにございます。このゾルターク、身を粉にして働き、必ずやギルヴェルスを陥れてみせまする」


「うむ、期待している」


 一つの戦いが終わり、大陸の勢力図は大きく書き換わった。メルーフィスの併合。それはアルヴェスク皇国史上でも、稀に見る輝かしい業績だった。しかし野心と言う名の魔獣は底なしに貪欲であるらしい。ライシュの目には、もうすでに別の獲物が映っていた。



 第二話 ―完―

と言うわけで。

第二話「勝利を飾りに」いかがでしたでしょうか?


物語が動いてきた感じがしますね。

あとはどこまで動かせるのか。我ながら心配な部分がありますね(苦笑)


第三話も書き上げてから投稿したいと思います。

第三話はタイトルだけ決まっています。

タイトルは「薄氷の同盟」。


何時になるか分かりませんが、気長にお待ちくださいませ。

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