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アルヴェスク年代記  作者: 新月 乙夜
承の章 勝利を飾りに
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勝利を飾りに14


 アルヴェスク皇国遠征軍がグレイマス平原を発ったのは、降伏を伝えるメルーフィス王国の使者が来た、その次の日の朝のことである。遠征軍はまずメルーフィスの王都プレシーザへ向かう街道を進み、そこからそれぞれ目的地に応じて別々の道を行くことになっている。


 なお、案内役は降伏したメルーフィス軍の参謀たちである。因縁の敵国であるナルグレーク帝国の侵攻軍が迫っていることもあってか、彼らは非常に協力的だった。


 遠征軍の先頭を進むのは、ラクタカス将軍率いる第二軍である。その後ろにはカルノー率いる第三軍が続き、ライシュ率いる第一軍は最後尾だった。第一軍が最後尾にいるのは、負傷した兵達の移動させるその足に合わせてのことである。ただし距離が近いこともあり、最初に目的地に到着したのは第一軍だった。


 第一軍の目的地はメルーフィス王国王都プレシーザである。プレシーザの王宮、つまりこの国の政治中枢を掌握し、完全にメルーフィスをアルヴェスクへ併合すること。それがライシュの目的だった。


 プレシーザに着くと、ライシュはまず捕虜としていたメルーフィス軍の兵士たちを解放した。すでに武装解除は完了してあり、メルーフィスを併合するというのに彼らをこの場所で捕虜にしておく理由がなかったのだ。


 ただし、ラグナス将軍以下主だった幕僚たちについては、その身柄を軟禁した。併合が完了していないこの段階で、彼らを自由にしておくわけにはいかなかったのである。


 さて、エルストを伴い王都プレシーザの王宮に入ったライシュには、どうしても決断を下さなければならない大きな問題があった。すなわち、国王アルバート4世の処遇をどうするのか、という問題である。


「アルバート4世陛下には死んでいただく」


 ライシュはアルヴェスク皇国の摂政としてそのように決断した。


「ただし、それは皇国に降伏した故ではない。我が国に私掠船を(けしか)けたが為である」


 戦に負けることは罪ではない。ライシュはそう言ってラグナスの命を助けた。しかし隣国に私掠船を嗾け強盗行為を扇動するというのは、決して許されない罪であるとライシュは判断したのだ。


「余が死ぬことについては、もはや是非もない。しかし臣下たちと家族については、どうか温情を賜りたい」


 死を命じられたアルバート4世は、すでに覚悟を決めていたのであろう、いささかも動揺することなくそれを受け入れた。その態度にライシュはいたく感銘を受け、要望通り臣下たちと彼の家族の命についてはこれを安堵することを約束した。


「それを聞ければ、もはや思い残すことはござらん」


 その夜、アルバート4世は最後の晩餐を楽しんだ後、毒杯を呷って自決した。処刑されたのではなく、あくまでも自決である。こうしてライシュは、彼の最後の名誉を守ったのだった。


 アルバート4世が死んだその夜、彼の後を追った者がいた。グレイマス会戦においてメルーフィス軍の指揮を執ったラグナスである。彼は短剣で喉を突いて果てていた。


『グレイマス平原で散ったメルーフィスの勇士たちは、きっと陛下のお供をすることだろう。敗戦の将なれど、是非そこに加えていただきたい』


 ラグナスは遺書の中にそう書き残した。自分が生き残り、しかし主君であるアルバート4世が死ぬということに、もしかしたら彼は耐えられなかったのかもしれない。


 ラグナスの死を聞くと、ライシュはただ一言だけ「そうか」と呟いた。あるいは予感していたのかもしれない。


 アルバート4世の死を見届けると、ライシュはメルーフィス王国の掌握に全力を挙げ始めた。エルストは彼の傍らにあってこれを補佐した。メルーフィスの廷臣たちはわりあい協力的だった。その筆頭は、宰相のゾルタークである。アルバートとの約束もあり、命を安堵されたことが大きかったのだろう。実際、協力を拒む者については、ライシュは彼らの職を解くだけで済ませた。協力を拒んで殺された者はいなかったのである。


 ただし、これは先の話も含むが、反逆を企てる者たちについては、ライシュも容赦しなかった。大鎌を振るい、首謀者は全て打ち首とした。その中にアルバート4世の側室が含まれていることもあったが、彼は決して例外を設けなかった。


 とはいえ、ライシュは味方にも厳しかった。彼がプレシーザに入ってから1週間後、2人の兵士が略奪の罪で、さらに1人が暴行の罪で首を刎ねられた。これによって遠征軍の軍規は粛然とし、またプレシーザの人々も胸を撫で下ろしたのだった。


 さて、そのようにライシュとエルストは忙しく動き回っていたが、その一方でジュリアはすることもなく暇だった。あまりに暇だったので婚約者、いや夫であるカルノーのもとへ駆けつけてやろうかとも思ったが、ここは彼女にとって見知らぬ土地。一人で出て行くのはあまりにも危険だし、かといってリドルベル領軍を動かすことはできない。結局、大人しくしているしかなかった。


「街へ行くことができればよいのじゃがなぁ……」


 ジュリアはそう嘆息する。現在、王都プレシーザの治安は決して悪くはない。遠征軍の兵士たちが各地で目を光らせているからだ。それは必要なことなのだが、しかし住民からの心象はよくない。多くの民にとってメルーフィスの併合はただ単に税を納める先が変わるだけの話なのだが、しかしそれが目の前であからさまにされるといい気分はしないらしい。


 要するに、ジュリアが遠征軍の人間であることが露見すると危険なのだ。そしてジュリアが何かしらの事件に巻き込まれたら、ライシュはそれに対処しなければならない。


『この忙しいときに仕事を増やしてくれるな。それに、お前にもしものことがあれば、カルノーに申し訳がたたん』


 だから大人しくしていろ、とライシュは人妻となった妹に言いつけた。そしてジュリアはその言いつけを守っている。これが平時であれば聞き捨てにして街へと繰り出しているところだが、今が大切な時であることは彼女も重々承知していた。


 そのようなわけで、プレシーザに来てからというもの、ジュリアは王宮から出ていない。ただ王宮内には広い中庭があり、そこを散策するのがこのごろのジュリアの日課となっていた。


「ふむ、やはり見事なものじゃな……」


 王宮の中庭には、当然のごとく非常に手間がかけられている。それだけでなく、交易で栄えていたメルーフィスらしく、異国の花も植えられていた。探さなければ見つからないような場所にも綺麗な花が咲いていたりするので、散策していてなかなか飽きない。


 飽きないが、やはり庭よりも賑やかな街のほうへ行きたいと考えるのがジュリアという人間である。街が無理ならばせめて遠乗りがしたい。どうしてもそんなふうに思ってしまう。つくづく自分は物静かな令嬢にはなれないな、とジュリアは苦笑した。


 しかし、どうやらそうは思わない者も、この世の中にはいるらしい。


「……やはり姫様は、戦場よりもこのような場所にいる方がふさわしい」


「スピノザ卿……」


 声のした方にジュリアが視線を向けると、そこにいたのはスピノザだった。


「姫はお止めいただきたい。わたしはすでにオスカー子爵家に嫁いだ身です」


「そうでしたな……。実に、おいたわしい」


 スピノザの言葉に、ジュリアの眉が不快げに動いた。「おいたわしい」というのは慰めの言葉である。つまり彼は、ジュリアがオスカー子爵家に嫁いだのは不幸でかわいそうな事だと言っているのだ。


 それは、非常に独善的な考えであるようにジュリアには思えた。実際、彼女はこれが不幸どころか幸福な結婚であると思っている。無関係なスピノザにとやかく言われる筋合いはない、というのが彼女の正直な心情だった。


 それに、ジュリアとカルノーの婚約を決め、その婚姻を主導したのはライシュだ。それを「おいたわしい」というのは、つまりライシュを批判していることに他ならない。それは皇国を支える重臣カディエルティ侯爵として、あるまじき態度と言わなければならないだろう。


「スピノザ卿におかれては、滅多なことは口にしない方がよろしいでしょう。今の発言は聴かなかったことにしますゆえ……」


「しかし、皇族の姫ともなれば、臣下に降嫁するにしても普通は伯爵家以上の家柄が選ばれるもの。それは姫様もご存知でしょう?」


 ジュリアはスピノザを嗜め、早くこの話題を切り上げようとしたが、しかし当のスピノザがそれを振り払って言葉を続けた。しかも、さらにだんだんと饒舌になっていく。


「しかしカルノーは子爵。しかもついこの間までただの騎士でしかなかった男だ。いかに武功があるとはいえ、家格の不足は明らかです。これでは姫様が軽く見られてしまいます。あまつさえ戦場で式を挙げるなど、これをおいたわしいと言わずして何と言えばいいのでしょう。


 ……あの夜、私は姫様を攫ってしまいたかった。それができなかった事、お詫び申し上げます。しかし今からでも遅くはない! 姫様、どうぞわたくしめに攫われて下さい。私は侯爵です。家格は十分のはず。それに私は姫様を愛しております。私なら姫様を幸せに……!」


 まるで自らに陶酔するかのように、スピノザは滑らかに舌を回し続ける。彼の目は大きく見開かれ、さらには血走ってさえいた。口元には虚ろな笑みが浮かべ、彼はゆっくりとジュリアに歩み寄る。


「寄るな、気色悪い!!」


 明らかに尋常ではない彼の様子に、ジュリアは大声でそう叫び、そして慎重に後ずさって距離を取る。彼女の鋭い声に、スピノザは思わず足を止めた。そんな彼に、一呼吸置いてからジュリアはこう言った。


「……わたしたちはお互いすでに伴侶のある身。軽々に愛を囁くような真似はお止しになった方が良いでしょう。ましてや攫うなど、皇国の貴族としてあるまじき発言です。此度のことはわたしの胸に収めておきますゆえ、今後は自らの発言にお気をつけ下さい」


 臆することなくそう言うと、ジュリアは「失礼いたします」と言って一礼した。そしてそのまま去っていこうとする彼女に向かって、スピノザは思わず手を伸ばす。


 パァン、と乾いた音が庭に響く。スピノザが伸ばした手を、ジュリアが無言で払いのけたのだ。


「……っ」


 思わず、ジュリアはスピノザのことをキッと睨みつけた。睨まれて、スピノザは臆したように半歩後ずさる。そしてジュリアは身を翻すと足早にその場を後にした。その背中を、スピノザは顔を醜く歪ませて見送った。


(あまり一人にならぬ方が良いな……。アトーフェル将軍に頼んで護衛を用意してもらうべきか……)


 王宮の廊下を足早に歩きながら、ジュリアはそう考える。先程のスピノザの様子は尋常ではなかった。まさかとは思うが力ずくで事に及ばれれば、女であるジュリアが男の彼に抵抗するのは難しいだろう。


「……っ!」


 思わず寒気を感じ、ジュリアは腕をさすった。暖かい気候のはずなのに、まるで血が凍っているように感じられた。


「カルノー……」


 夫となった人の名前を呼ぶ。早く彼に会いたかった。



□■□■□■



 第一軍と別れ、さらに第二軍とも分かれて第三軍単独となると、カルノーは隷下のうちの騎馬2000に対し、目指す渡河地点への先行を命じた。この騎兵たちはカルノーが直々に鍛えていたあの2000騎であり、これを率いるのはジェイル・アニル・ロト・グリーク男爵だった。


「オスカー子爵は用心深いですなぁ」


 どこか呆れたような口調でそう言ったのは、第三軍に加わっているオルブレヒトだ。目指す渡河地点にはすでに斥候が派遣されており、ナルグレーク帝国軍がいずれに現れるかを監視している。彼らからの報告は未だなく、それはつまり帝国軍がまだ姿を見せていないことを意味している。


「無駄になるならば、それでも良いのです。しかし最悪の場合を想定すると……」


 カルノーが想定する最悪の事態とは、帝国軍10万全てが第三軍のほうに現れることである。その場合、第三軍は2倍以上の相手と戦わなければならず、まともにぶつかれば劣勢は確実だろう。


 そこでカルノーが先行する騎馬2000に命じたのが、防衛のための拠点造りだった。とはいえこの短時間で造れるものなど限られているから、要するに柵を作って立てて置くように命じたのだ。ちなみにこれらの作業の熟練度について、カルノーは何も心配していない。なぜならつい最近同じことをやったばかりだからである。


「ふむ……。まあ、相応の準備がしてあれば戦いやすいのは事実。勝つための準備と考えれば、大いに結構なことですな」


「そういうことです」


 オルブレヒトと話を合わせながらも、カルノーは胸のうちでは別のことを願っていた。つまり、第三軍のほうに帝国軍が来なければいいと思っていたのである。しかし、どうもそうは上手く行かないようだった。


 カルノー率いる第三軍が目的地であるフラン・テス川の渡河地点に到着してからおよそ10時間後、彼らの目の前にナルグレーク帝国軍が現れたのである。その数、およそ5万。報告にあった帝国軍のおよそ半分であり、第二軍のほうにもほぼ同数の敵軍が現れているであろうことが予想された。


 実際、少し先の話になるが、ラクタカスとカルノーはそれぞれ情報交換を行い、それぞれが5万程度の帝国軍と相対していることを確認した。つまりこの度ナルグレークは両方がフラン・テス川を渡河して侵攻するつもりだったのである。ちなみに第二軍のほうに現れた帝国軍を率いるのはシリーザーという将軍であり、第三軍と相対しているのはアントニヌス将軍だった。


 双方に敵が現れたことを知ったラクタカス将軍は、すぐさまカルノーに対して次のような指示を出した。


「第三軍は防戦を主体とせよ」


 第三軍は敵とほぼ同数であるが、第二軍にはおよそ2倍の戦力がある。そこでまず第二軍がフラン・テス川を渡河して目の前の帝国軍を破り、そののち第三軍の方に現れた帝国軍を挟み撃ちにする。それがラクタカスの考えた作戦だった。


「まあ、それが常識的な作戦でしょうな」


 オルブレヒトはラクタカスの作戦をそのように評した。彼が少々つまらなそうにしているのは、作戦通りにことが進めば第二軍の勲功のほうが大きくなるからであろう。手柄を欲している彼にしてみれば、思う存分に戦えないのは面白くないのだろう。


「楽な防戦にはなりませんよ。恐らく、敵は苛烈に攻めてきます」


 カルノーはそう言った。第二軍の方が数が多いのは、恐らく敵も情報を交換して知っている。ならば数の少ない第三軍を破って第二軍の背後に回ろうと考えるのは、これもまた常識的な作戦である。


「なるほど。ではオスカー子爵の用意させた柵が役に立ちますな」


 嬉しそうにそう話すオルブレヒトに、カルノーは曖昧な笑みで応じた。彼にしてみれば役に立って欲しくなかったのだが、それを言うことはさすがに(はばか)られた。


 さて、それはともかくとして、ナルグレーク帝国軍を迎え撃つための陣割りである。最も敵の攻撃が苛烈になると予想される正面、つまり主翼に割り当てられたのは、一番数の多いマクレイム領軍である。さらにその左右に両翼を配置し、カルノーが指揮を執る本陣は主翼の後ろに配置された。


 カルノーの言ったとおり、帝国軍の攻撃は苛烈だった。ここを突破しないことには、彼らに勝ち目はほぼないと言っていいのだから、それも当然である。しかしカルノーが用意させた柵が役に立った。


 柵のおかげで敵の射る矢は命中率が低かったし、また川を渡ってきても柵でまた足を止められ思うように進めない。柵の格子目から突き出された槍の餌食なって、帝国軍の兵たちは次々に倒れた。一方、柵の後ろで防戦に徹し、決して無茶な攻めをしない第三軍の損耗率は驚くほど低かった。


 そして戦いが始まってから三日目。カルノーのもとに待ちわびた報告がやって来た。ラクタカス将軍率いる第二軍が、ナルグレーク帝国軍を破り対岸へと渡ったのである。川を渡らなければならない戦いは難しいのだが、さすがに彼は戦上手だった。


 これよりさらに上手いのがカルノーだった。いや、彼の場合は時勢の見極めに優れていたというべきか。第二軍勝利の報告を聞くと、彼はすぐさま隷下の全軍に渡河を命じた。これまで防戦に徹していた第三軍が、一転して攻勢を仕掛けたのである。


 下流の渡河地点へ向かった友軍が敗れたことを、当然アントニヌス将軍は知っていた。それで早く撤退しなければ敵に背後に回りこまれると思い、第三軍が渡河を開始するとほとんど戦うことなく軍勢を引いた。第三軍の完勝と言っていいだろう。


 それぞれ対岸の敵を退けた第二軍と第三軍は、フラン・テス川の北側で合流した。そしてその総勢およそ13万の軍勢を率い、ラクタカスは国境近くにあるナルグレーク帝国の砦に対して陣を敷いた。敗れたシリーザー将軍とアントニヌス将軍が逃げ込んだ砦である。


 帝国の砦に対して陣を敷いたラクタカスであるが、しかし砦を攻めることは全くしなかった。要するにナルグレーク帝国軍の動きを封じることが目的だったのである。そして、そうして帝国軍の動きを封じている間に、彼はプレシーザに使者を出して戦いの顛末を報告し、さらに今後の指示を仰いだ。


「交渉せよ」


 というのがライシュの指示だった。交渉の責任者となるのはラクタカス将軍だったが、プレシーザからさらに相談役が派遣された。メルーフィス王国の元宰相、ゾルタークである。


「ゾルターク殿におかれては、どのような条件を提示するべきとお考えか?」


「ライシュハルト摂政殿下におかれましては、戦火の拡大を望んではおられません。領地の割譲か賠償金を条件にして、ここは矛を収めるべきであると進言いたします」


 ラクタカスはゾルタークと相談しながら、停戦のための条件を纏めた。その条件を簡単に纏めると以下のようになる。


 一つ、旧メルーフィス王国とナルグレーク帝国の国境とされてきたフラン・テス川の管理権は、これをアルヴェスク皇国のものとする。


 一つ、ナルグレーク帝国はアルヴェスク皇国に賠償金として金貨1000万枚を支払う。


 この条件に対し、ナルグレーク帝国は難色を示した。賠償金はともかく、フラン・テス川の管理権は渡せないと主張したのだ。もしアルヴェスクがあくまでも川の管理権を求めるなら、もう一戦戦うことも厭わないとまで言った。


 その強硬な反応にラクタカスは少なからず驚いた。そんな彼に、ゾルタークはナルグレーク側の心のうちを説明する。


「彼らにとって、フラン・テス川は文字通り生命線なのです」


 ナルグレーク帝国の西側の国境は、ほとんど全てフラン・テス川である。川の西岸にも畑地が広がっているので川がそのまま国境となっているわけではないが、国の西側がフラン・テス川に沿って発展してきたことは間違いない。


 そのため、彼らは川の上流を抑えられることを極端なまでに警戒する。それは川の水を他国に好き勝手させないためであるし、また上流を抑えられて軍事的な劣勢に陥らないためだ。つまりフラン・テス川の管理権は、ナルグレーク帝国が国を守る上でどうしても保持しておかなければならないものなのである。


 結局、ラクタカスは川の管理権を諦め、代わりに賠償金を増額した。その額、総額で金貨5000万枚。莫大な金額で、足元を見たと言っていい。当然すぐに支払える額ではなく、年末までに払えなかった分については年利で一割の利息がつくという条件で折り合いを付けた。


 停戦交渉が終わると、ゾルタークはアルヴェスク皇国摂政ライシュハルトからの親書をナルグレーク帝国側に手渡した。その内容は、簡単に要約すれば「両国間に通商条約を結びたい」というものであった。


 メルーフィスとナルグレークは国交を断絶しており、これまで両国の間に正式な通商条約はなかった。メルーフィスは貿易立国だったわけだが、アルヴェスクを相手にするだけで十分に潤っていた。


 そのためメルーフィスは、事あるごとに侵攻しているナルグレーク帝国に対しては極めて排他的な態度を取っており、交易などもってのほかという立場だった。帝国の軍事的侵攻に対して、いわば経済的な報復措置を取っていたわけである。そういう立場が帝国の強硬姿勢に拍車をかけていた面もあるのだが、まあそれはそれとして。


 しかしアルヴェスクがメルーフィスを併合したことで状況が変わった。この機会にナルグレークと通商条約を結び、両国の間で交易を行うべしというのがゾルタークの進言であり、ライシュがそれを聞き容れたのだ。


 少し先の話になるが、アルヴェスク皇国とナルグレーク帝国は無事に通商条約を締結した。この条約を締結するために奔走したのは、他でもないゾルタークだった。メルーフィスの元宰相である彼にとって帝国は因縁の敵国であるはずなのだが、征服者に対してそこと交易すべしと進言し、さらにそのために奔走できる彼はもしかしたら傑物なのかもしれない。少なくとも柔軟な思考を持っていることは間違いないだろう。


 閑話休題。停戦交渉を終えて第二軍と第三軍がプレシーザに戻ってくると、ライシュは交渉の結果についてラクタカスから報告を受けた。


「そうか……。川の管理権は取れなかったか……」


 前述したとおり、川の上流を抑えられれば軍事的に優位に立てる。そのためフラン・テス川の管理権を得られなかったと知ったライシュは少々残念そうな声を出した。


「はっ。申し訳ありませぬ」


 主の残念そうな声を聞き、ラクタカスは頭を垂れた。そんな彼にライシュは苦笑を向ける。


「いや、将軍はよくやってくれた。代わりに賠償金を多く取れた」


 そう言ってライシュはラクタカスを労わった。金貨で5000万枚という多額の賠償金を負わされたナルグレーク帝国の財政は、しばらくは逼迫(ひっぱく)した状況が続くだろう。軍事遠征などやっている余裕はなく、今後数年は帝国との間に戦端が開かれることはないと思っていい。アルヴェスクから仕掛ければその限りではないが。


 ナルグレーク帝国との間に停戦が成立したことにより、アルヴェスク皇国遠征軍の軍事的な作戦は終わった。メルーフィス王国は降伏しており、かの地の併合と言う当初の目的はすでに達している。あとはこの地を安定させていくだけであり、そのために過剰な軍事力は必要ない。そのため、ライシュは一部の戦力を除き遠征軍に本国への帰還を命じるのだった。


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