勝利を飾りに9
ジュリア・ルシェク・アルヴェスクの父親は、言うまでもなくアルヴェスク皇国の先代皇王レイスフォール・イクシオス・グラニア・アルヴェスクである。では母親は一体誰なのかと言うと、ステラ・ルシェク・アルヴェスクという女性だった。なお、彼女が〈アルヴェスク〉の名を名乗るようになったのは、ごく最近のことである。
ステラはもともと、リドルベル辺境伯領土着の豪族の娘だ。実家の身分は騎士であり、しかも比較的裕福であったことから教育を受けることができ、また容貌にも恵まれていた。ライシュとジュリアの銀髪は彼女から受け継いだものであり、垂れ目気味の穏やかな雰囲気の女性だ。
そのおかげか、彼女は辺境伯、つまりベリアレオスの屋敷で侍女として働くようになった。ステラの父親の思惑としては、娘が辺境伯のお手つきとなることを望んでいたのかもしれない。
しかしその思惑を超えて、ステラをお手つきとしたのはなんと皇王レイスフォールだった。彼が辺境伯領を訪れてベリアレオスの屋敷に泊まった際、ステラを見初めて契りを結んだのである。およそ一週間の滞在期間中ずっと、レイスフォールは彼女を傍から放そうとせず、また夜毎に寝室へと呼んだ。
レイスフォールからすれば、これは遊びで済ませられる情事だった。だが珍しくも本気でステラのことを見初めており、また一週間の間にさらに彼女に惚れ込んでいだ彼は、ステラを皇都へと誘った。皇都に屋敷を用意することくらい彼にとっては簡単だったし、また彼女が望めば側室として迎え入れることさえ考えていた。
しかし、それをステラ自身が断った。それは彼女が無欲であったから、ではない。彼女が聡明であったからだ。
ステラが皇王の寵を受けた女として皇都に凱旋すれば、彼女は羨望とともに多くの嫉妬を向けられるだろう。身分の高い女たち、特にレイスフォールの正室や側室たちはステラの存在を疎むんで嫉むに違いない。
その時、実家がただの豪族でしかない、つまり有力な後ろ盾を持たないステラは、彼女達の目に無防備な獲物に映るだろう。きっと、容易く排除されてしまうに違いない。そのようなことを彼女は望んでいなかったし、またレイスフォールもそう言われれば無理強いはできなかった。彼女の言う未来を容易く想像できてしまったからである。ここで我を抑えられるあたり、彼は恋にほだされてはいても冷静で、また理性を失ってはいなかった。
結果として、レイスフォールはステラの存在を隠した。いや、隠すという言葉ほど隠してはいなかったが、少なくとも彼女を皇都へ連れて行くことは一度もなかった。辺境伯領に屋敷を一つ用意してそれをステラに与え、また彼女の世話をベリアレオスに頼んだ。
この頃からレイスフォールは足しげく辺境伯領へ赴くようになった。公務に支障が出るほどではなかったが、それでも年に数回の頻度であり、他の貴族領や天領への行幸と比べるとはるかにその頻度は多かった。その理由がステラという一人の女性であったことは明白だが、当時実はそれほど多くの人には知られていなかった。
レイスフォールが崩御し、息子のライシュが皇族を名乗って摂政となっても、ステラは辺境伯領に留まり続けた。ライシュやジュリア、それにマリアンヌも彼女が皇都へ来ることを望んだが、ステラはそれを固辞し続けた。
「わたしが皇都へ行けば、イセリナ様との間に角が立ちます。それはよくないでしょう」
本人達にその意図がなくとも、周りはそのようには受け取らない。摂政ライシュハルトの母が皇都へ赴けば、間違いなく皇太后イセリナへの対抗馬として見られる。そして派閥が生まれ、それは政治的な分裂へと繋がるだろう。それはライシュの治世にとって好ましからざる状況だ。そのような状況を招かないためにも、自分は辺境伯領にいる。ステラはそう言った。
ジュリアが帰省したのは、そのように辺境伯領に残った母に会うためだった。去年の九月ごろに皇都へ来てから一度も帰ってはいないので、かれこれ半年以上になる。ベリアレオスが領地に戻り、彼から諸々の話は聞いているのだろうが、それでもやはり自分の口から話したいことはたくさんあった。
「母上!」
屋敷の庭園で花の手入れをする母の姿を見つけると、ジュリアは思わず駆け出して彼女に抱きついた。ステラは驚いた様子を見せたが、すぐに微笑を浮かべて娘を優しく抱きしめる。そして「お帰りなさい」というと、作業を切り上げて屋敷へと入った。
「カルノー殿とは上手くいっているの?」
庭を見渡せるサンルームで椅子に座り、手ずからお茶を入れながらステラはジュリアにそう尋ねた。婚約者ができたこと、それが兄ライシュの学友のカルノーであることはすでに手紙で報告してあるし、またベリアレオスからも聞いているはずだ。この婚約が政略に類することは明白なのだが、しかしステラの声音には恋人同士を優しくからかうような響きがあった。
「概ね、順調です」
「そう、それはなによりだわ。それにしても、ジュリアの婚約者がまさかあのカルノー殿になるなんて、ね……」
感慨深げにステラはそう呟き、お茶をジュリアに差し出した。カルノーとエルストのことはライシュが学生時代によく話していたため、会ったことはないもののジュリアとステラも彼らのことはよく知っていた。その二人が好青年であることはライシュの話からよく分かったので、ある時ステラはジュリアの結婚相手としてその二人の内のどちらかはどうかと話したことがあった。
『エルスト殿はアルクリーフ公爵家の跡取りでジュリアには荷が重そうだから、やっぱりカルノー殿のほうかしら』
もちろんこれを話したときはただの冗談だったのだが、運命とやらは面白いもので、本当にカルノーがジュリアの婚約者になった。ステラとしても、政争とは程遠い場所で育った娘が嫁ぐ相手として、全く知らない相手ではない彼のことは悪く思ってはいない。それに先程のジュリアの反応を見ても、二人はきちんと恋人をやっているようで、ステラとしては微笑ましい気持ちになる。
「そうだ、母上。カルノーから手紙を預かってきました」
「あら、未来の義息子からの恋文? うれしいわね」
そう言って微笑みながらステラはジュリアの差し出した封筒を受け取る。「恋文」という単語を聞いたジュリアがギョッとした顔をするが、そこは母親らしく素知らぬふり。ちょっとからかってみたのだが、思った以上に効果はてきめんである。
「……そ、それで母上。手紙には、なんと?」
焦った様子を見せながら、やや上ずった声でジュリアがそう尋ねる。どうやら気になるらしい。ステラは「そうねぇ」と言いつつもったいぶりながら封筒を破いて手紙を読み進める。途中「うふふ」と怪しく笑って見せると、ジュリアがさらにそわそわして落ち着かなくなった。
「は、母上!」
たまらなくなったのか、とうとうジュリアが声を上げる。それでも手紙を奪うような真似をせず、大人しく座って待っているのはこれまでの教育の賜物かもしれない。そんな娘にステラが妖艶な流し目を向けると、ついに彼女は目の端に涙を浮かべた。
「はい、どうぞ」
たっぷりと娘の反応を楽しんでから、ステラはカルノーの手紙を彼女に渡した。ジュリアはそれをひったくるようにして受け取ると、食い入るようにしてその文面を確認する。そして大きく安堵の息を吐いた。書かれていたのは、どうということはない、簡単な自己紹介と挨拶の言葉などだけ。当然、恋文らしい言葉は一つも書かれていない。
「は、母上……」
ようやくからかわれたことに気付いたジュリアがステラに非難の眼差しを向ける。だが顔を真っ赤にしていては怖くもなんとない。むしろ微笑ましいだけで、ステラはにこにことうれしそうに微笑むばかりだった。
「これで、ようやくジュリアもお嫁にいけるわね」
どこかしみじみとした口調でステラはそう言った。ジュリアの場合、父親がレイスフォールだったことや、また内乱の影響などでこれまで結婚が先延ばしになっていた。それが、この頃になってようやく婚約者が決まり、しかもその相手はライシュの学友。心配事が一つ片付き、しかも良縁に恵まれステラとしてはうれしい限りだった。
「母上……。式には、ぜひ来てくださいね」
「もちろん。あなたの花嫁姿、楽しみにしているわ」
そう言って優しく微笑むと、ステラはお茶を一口啜った。そしてティーカップをソーサーに戻すと、母親らしく娘に準備の進捗状況を尋ねる。
「それで、ジュリア。準備は進んでいる?」
「はい。必要なものはすでに手配済みですし、ドレスの方も一月前には仕上がると聞いています。兄上も、『皇国の威信にかけて盛大な式にしてみせる』と意気込んでいました」
ジュリアはそう答えた。しかしステラが聞きたいのはそういう事ではないらしい。
「式の準備についての心配はしていないわ。わたしが心配しているのは、ジュリア、あなた自身のことです」
「わたし、ですか?」
何のことなのかよく分かっていないジュリアが小首をかしげる。その様子を見てステラは少しだけ険しい視線を娘に向けた。
「そうよ、ジュリア。あなたはカルノー殿の妻となる準備をちゃんとしているの?」
「そ、それは……」
母親の指摘に、ジュリアの視線が泳ぐ。それを見て、ステラの視線がさらに険しくなった。
「……いいわ。これも母親の務め。幸いにしてまだ時間はありますし、しっかりと仕込んであげましょう」
「は、母上!?」
固い決意の込められたステラの声に剣呑なものを感じ取り、ジュリアが怯えたような声を出す。こうしてステラによるジュリアの花嫁修業が始まったのだが、この修行はそう長くは続かなかった。
ジュリアが極めて優秀な生徒であったから、ではない。ベリアレオス・ラカト・ロト・リドルベル辺境伯に対し、摂政ライシュハルトより軍勢を連れて皇都へ上るよう命令が下されたのである。ついにライシュが摂政となって初めての、そしてアルヴェスク皇国にとっては久しぶりの遠征が行われるわけだが、ジュリアはその軍勢にくっ付いて皇都へと戻ったのだ。
『この一大事に際し、兄上とカルノーの傍にいる』
と言うのが彼女の言い分だったが、そのほかにも涙を浮かべるほど厳しかった花嫁修業から逃げ出すためという理由も何割か混じっていたに違いない。母親の勘でそれを見抜いたステラは、呆れたような、しかしそれでいて温かい眼差しで娘を見送った。
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大陸暦1060年5月の半ば、摂政ライシュハルトは宮廷にメルーフィスの駐在大使を呼び出した。差し向かいに座った彼に、ライシュはまずこう切り出した。
「メルーフィスは交易の要衝。黙っていても人とモノと金が集まってくる。羨ましい限りだな」
「アルヴェスク皇国という大国が存在し、また安定しているからこその要衝でございます。それに、『黙っていても』というのはいささか事実とは異なります。要衝が要衝たり得るのは人の努力の故と存じております」
ライシュの言葉に大使はそのように応じた。彼の言葉にはメルーフィスにおいて政治に関わるものとしての苦労と、またこれまでに積み上げてきたものへの自負が滲んでいる。
「なるほど。大使殿の言うとおりであるな。なんにしても交易によって国を富ませるのは、政に関わるものにとってもはや義務も同じと思うが、いかがか?」
「小官も摂政殿下と同じ考えでございます」
大使の言葉にライシュは一つ頷く。そしてこう言葉を続けた。
「交易といえば、船と海路だ。近頃では航海技術や造船技術が進歩し、それが我が国においても交易の拡大に繋がっている。喜ばしい限りだな」
「全くですなぁ」
交易の拡大はそこから得られる富の増加に直結している。これを疎む国はない。仮に国が疎んだとしても、国民はそれを望むだろう。例えそれが水面下であろうとも、交易は拡大を続けていくのだ。そこに人の欲がある限り。
「ところで大使殿。我が国では新たな航路を開拓し、ハルン・ジ・ミール半島と直接交易を行うことを計画している。いや、一部ではすでに始まっているか。順次これを拡大していていく方針であるが、メルーフィスの大使としてこのことをいかが考える?」
「……恐れながら、あまり良い策ではないと申し上げなければなりませぬ」
「まあ、貴国としてはそう答えるであろうな」
僅かに冷笑を浮かべながらライシュはそう言った。メルーフィスはハルン・ジ・ミール半島とアルヴェスク皇国の交易の、その中継地点としてこれまで栄えてきたのだ。それなのに両者が直接交易を行うようになれば、要衝としての地位は失われ、それと共に要衝であるがゆえに得られていた莫大な富もまた失われる。メルーフィスの国益を守る大使として、それは看過できぬことであろう。
「そのような事情を否定するつもりはありませぬ。しかし、恐れながら摂政殿下は船乗りの心理を見誤っておられる」
「ほう?」
皇国が半島と直接交易を行うためには、メルーフィスを大きく迂回する航路を通らねばならない。つまり陸地に沿って進むのではなく、外洋に出て行くということだ。それは大いに危険が増す行為であると大使は指摘した。
「海の上とは、寄る辺なき場所であります。一度時化れば、小さな船とそこに乗っている者たちになす術などありませぬ。そのため船乗りたちはより安全な航路を望むのです」
つまり、大陸に沿って進む航路だ。確かに常に陸地が見えていれば、いざという時に助かる確率は上がるだろう。そういう意味では確かに安全であり、船乗りたちがそちらの航路を望むという大使の意見には説得力があった。
「なるほどな。大使殿の意見も尤もである。そして船乗りたちが陸地沿いの航路を使う限り、貴国は交易の要衝として栄える。よくできた話だな」
ライシュの態度に険を感じたのか、メルーフィスの大使は慌てて言葉を挟もうとする。しかしその前にライシュが口を開いた。
「しかしだ、大使殿。先程も言ったが航海技術と造船技術の進歩は止まらぬ。いや、止めてはならぬ。である以上、技術の進歩に伴い情勢が変化していくことは止められぬ」
ライシュはそこで一旦言葉を切ってメルーフィスの大使に鋭い視線を向けた。そして、その言葉を口にする。ここからが彼にとっての本論である。
「例え、メルーフィスが私掠船を用いて我が国の交易を妨害しようとも、だ」
私掠船、という言葉が出てもメルーフィスの大使は顔色一つ変えなかった。彼は百戦錬磨の外交官。彼がこの程度で馬脚を現すとはライシュも思っていない。それでライシュは試すように彼の次の言葉を待った。
「……私掠船とは、これはまた物騒な話ですな」
数秒の沈黙の後、メルーフィスの大使はそう言った。彼の言葉に、やはり動揺は見受けられない。
「そう、物騒な話だ。しかしそれ以上に不届きな話だ。なにしろ一国家が犯罪行為を推奨し、我が国の交易を妨げ経済に損害をもたらしているのだからな」
「確かに国家がそのようなことを唱道していれば不届きこの上ない話ですが……。まさか摂政殿下はその不届き者がメルーフィスであるとお考えで?」
「そう言ったつもりだが、伝わらなかったか?」
「それは甚だしい濡れ衣でございます」
メルーフィスの大使はそう言い切った。いや、彼の立場からすればそう言い切るほかに道はない。しかしそれにしても確信のこもった、人にそれと信じさせる力のある言葉だった。そして、そう言い切った大使はやや身体を前かがみにして口の前で手を組み、やや視線を険しいものにしながらこう言葉を続けた。
「なぜそのようにお考えになったのかは小官には分かりませぬが、摂政殿下におかれましては事実無根の流言に惑わされぬよう愚考いたします。メルーフィス王国とアルヴェスク皇国はこれまで良い関係を築き、互いに交易によって富を得てきました。この関係を損なうことは両国の益とはなりませぬ。そもそも我が国は……」
「饒舌も過ぎれば滑稽だな、大使殿」
ライシュはそう言って口を挟み、大使の言葉を遮った。大使の視線がさらに険しくなるが、ライシュはそれを無視して懐から一通の書類を取り出す。それを見た瞬間、にわかに大使の顔色が変わった。
「これが何であるのか、大使殿に改めて説明する必要はあるまい」
そう言ってライシュは取り出した書類を、二人の間にあるテーブルの上に少々乱暴に投げ出した。その書類は言うまでもなく、クレニオ・カレア・ロト・ブランメール伯爵が彼に献上した、メルーフィス発行の私掠免状である。メルーフィスが影で行っていたアルヴェスク皇国への宣戦布告のその証、と言っても過言ではない。
「恐れながら摂政殿下……!」
メルーフィスの大使は顔色を失いながらも懸命に舌を回転させようとする。しかしライシュにそれを聞く気はない。片手を突き出し、それを制した。
「これ以上ここで大使殿と言葉を交わしても意味はあるまい。この件はすでに大使殿の権限の範囲を超えている。そうであろう?」
ライシュの言葉にメルーフィスの大使は悔しそうに無言を返した。そしてその無言は何よりの肯定だった。その彼に少々哀れなものを感じながらも、ライシュはソファーから立ち上がりついにその決定的な言葉を口にした。
「事ここに至ればもはや是非もなし。アルヴェスク皇国はメルーフィス王国に対して宣戦を布告する。……もっとも、貴国は何年も前からそのつもりであるようだがな」
「お待ちください! 我々は……!」
「大使殿におかれては、急ぎこのことを国許に伝えられるがよかろう。それを邪魔立てするつもりはないゆえ、安心召されよ。もっとも、それを待つ義理もないがな」
「…………っ! し、失礼いたしますっ!!」
顔色を失ったまま、メリーフィスの大使は急ぎ足で宮殿を後にした。宣戦布告の話はこの日のうちに各国の駐在大使の知るところとなる。
一人になった部屋で、ライシュはソファーに座り直す。ティーカップを手に取るが、中のお茶はすでに冷めていた。だがそれを気にすることもなく、彼はお茶を一息で飲み干す。
「さあ、ここからだ……」
ライシュはそう呟く。小さな呟きだったが、しかしそこには多量の熱量が込められていた。
この日、ライシュはラクタカス将軍に対して近衛軍の出撃準備を急ぐよう命令を出す。そしてベリアレオス率いるリドルベル領軍が皇都に到着すると、留守居役を彼に任せて近衛軍に出撃の命令を下した。さらに領軍の準備をさせていた貴族たちにも正式な命令を下し、それぞれの軍勢をメルーフィスとの国境に集結させる。
ここにメルーフィス遠征が始まろうとしていた。




