勝利を飾りに8
盗賊団の討伐を終えて皇都に戻ってきた三日後、カルノーは少々慌しく旅支度を整えると今度は東に向かって出立した。目的地は生まれ故郷のマクレイム伯爵領。彼は討伐任務を終えたことで長めの休暇を貰ったのだが、その休暇を利用しての里帰りである。ちなみにカルノーはアーモルジュの弟子となってから一度も実家に帰ったことがなく、かれこれおよそ十年ぶりの帰省だった。
(こういう時に偉くなったと実感するのは、おかしな話かもしれないな……)
穏やかな旅の空の下、カルノーはふとそんな事を思い馬上で苦笑した。そんなカルノーの後ろには彼と同じく旅支度を整え、腰間に剣を差した護衛が五人、馬に跨っている。護衛付きで旅をするなど、これまでは考えられなかったことである。
カルノーは一人旅でも構わなかったのだが、彼は今や〈ロト〉の称号を名乗ることを許され、子爵位を持つ立派な貴族。加えて近衛軍で2000騎を預かる上級仕官である。そんな彼が護衛なしで旅をするなど、一般常識に照らして考えればありえないことだった。
周りの者たちからそのように言われ、また土産をロバに一頭分ほど持っていくことになったので、やはり護衛は必要かと思いカルノーは自分の部隊から精鋭を五人ほど連れてきたわけだが、それにしても数が少なすぎるし、また見栄えがしない。そもそも彼本人からして馬車に乗ることもなく馬に跨り、その出立ちはまるで旅の騎士である。お忍びのようであるが、しかし本人にその意識はない。要するに、貴族的な見栄にほとほと無頓着な男なのだ。
ちなみにカルノーは自分の部隊から、つまり近衛軍から護衛を連れてきたわけだが、これは決して公私混同ではない。近衛軍において兵を指揮する立場というのは重く、そのため100人隊長以上の役職の者には、公私を問わず遠方へ出向く際には自分の部隊から護衛を連れて行くことが認められているのだ。
なお、やはりこの頃生まれ故郷へ帰省しているジュリアにも、その道中には近衛軍から護衛が派遣された。これもまたライシュの妹可愛さのための公私混同ではなく、「皇族の護衛」は近衛軍の主たる任務の一つなのだ。彼女の場合はえりすぐりの20騎が護衛に付けられたのだが、これもまた皇族の姫君の護衛としては少なすぎる。その上、姫君本人までもが馬を疾駆させて行くのだから、こちらはさらに常識外れの一団だった。
閑話休題。さて、マクレイム伯爵領の〈ランプセン〉という街に着いたカルノーは、そこで護衛たちと分かれた。彼らには少し多目に銀貨を渡して宿を取らせ、この街で待機を命じておく。そして彼自身は土産の荷を負わせたロバを連れ、一人で実家へと向かった。彼の実家はこの街の郊外に建っている。
「おや……」
およそ十年ぶりに実家の姿を見て、カルノーは軽い驚きを覚えた。家そのものは、十年前とほとんど同じ姿である。しかし壁は綺麗に塗られ、石垣や垣根もきちんと整えられている。カルノーが覚えている実家の姿よりも、随分と小奇麗になっていた。
さらに、オスカー家所有のはずの畑には、しかしカルノーの知らない農民が働いている。もしや家と畑を売ったのではないか。そんな可能性がふと彼の頭に浮かんだ。
「もし、ここはオスカー騎士家の家ですか?」
頭に浮かんだ可能性を確かめようと、カルノーは畑で働いていた農民の男にそう声をかけた。男は顔を上げてカルノーの顔をまじまじと見ると、いささか怪訝そうにしながらも「そうだ」と言って一つ頷いた。
ここが間違いなくオスカー騎士家であることを確認すると、カルノーは男に礼を言ってから家に向かって歩き始めた。そして敷地の中に入ると家の中に声をかけた。
「もし、誰かいませんか!?」
「はい、只今!」
カルノーが声をかけると、すぐに家の奥から返事があった。かろうじて聞き覚えのある、女性の声である。
「お待たせしました。どちら様でしょうか?」
「お久しぶりです。カーラ、義姉さん」
家の奥から出てきた女性の名は、カーラ・オスカーという。オスカー騎士家の家長にしてカルノーの兄レムエルの妻である。よって、彼にとっては義理の姉になる。
カルノーが家を出たとき、レムエルはすでに彼女と結婚していたから、一緒に住んでいたこともある。ただほんの数ヶ月であったし、あまり話もしなかった。その上、ほぼ十年ぶりの再会である。ここまで来ると、ほとんど他人と言ってもいいだろう。だからカルノーもカーラは自分のことなど忘れていると思っていたのだが、しかし意外にも彼女は彼の名前を口にした。
「まさか……、カルノーさん、ですか……?」
驚いているのであろう、大きく目を見開きながらカーラはそう呟くようにして尋ねた。そんな彼女に対し、カルノーは少し照れくさそうな笑みを浮かべながら軽く一礼した。
「ご無沙汰しています」
「まあ……! 立派に成られて……!」
感極まった様子で、カーラはそう言った。そして急いで十年ぶりに帰ってきた義弟を家に招き入れる。カルノーはロバから荷を降ろすと、馬と一緒に使用人らしき男に預け、義姉に促されて家の中に入った。
家の中もまた、外と同じくカルノーがいた頃よりも小奇麗になっていた。手入れの行き届いたその様子は、オスカー家の今の暮らしぶりがある程度裕福であることを教えている。そのことに、カルノーは少しだけ安心した。
「懐かしい、ですか?」
「そうですね、少しは。……それよりも、母上はいらっしゃいますか? それと兄上も」
「お義母様はおられますが、旦那様は今は外に出ておられます」
そう答えるとカーラは少しだけ目を伏せ、そしてこう続けた。
「ただ、お義母様は最近臥せることが多くなって……。今も、部屋でお休みになっています」
「そう、ですか……」
「でも、カルノーさんのお顔を見ればきっと喜びます」
今案内しますね、と言ってカーラはカルノーを一つの部屋に案内した。そこはカルノーの記憶にも残っている、母ルクセラの寝室だった。
「お義母様、思いがけない尋ね人が来られましたよ」
軽くノックをしてからまずはカーラが部屋の中に入りそう声をかけた。数秒遅れて、カルノーがその後に続く。ルクセラはカーラの助けを借りながらちょうどベッドの上で身体を起こしたところだった。そして部屋の入り口を見た彼女の視線がカルノーを捉える。その瞬間、彼女は目を大きく見開いた。
「カルノー……、なの、ですか……?」
「ご無沙汰しております、母上。お加減はいかがですか?」
カルノーは穏やかな笑みを浮かべながらそう応じた。正直なところ、母に対してはまだ気持ちの屈折した部分がある。それは幼い頃に叔父の家に預けられたことで、「自分は愛されてはいなかったのではないか」と疑念が拭いきれていないからだ。しかしそれを表に出さないくらいには彼も大人になっていた。
カルノーの声を聞くと、ルクセラの目から涙が流れ落ちる。しかしその涙を拭おうともせず、彼女はただ息子の名前を呼びながら彼に向かって手を伸ばした。
「カルノー……、本当に、カルノーなのですね……!」
「はい。ただいま、帰りました」
およそ十年ぶりに「ただいま」の言葉を口にしながら、カルノーはルクセラが伸ばした手を握った。その手は、彼の記憶にある母の手よりもずっと細くて弱々しい。十年と言う時間の長さと重さを象徴しているかのようだった。
それから、カーラが席を外してルクセラと二人だけになると、カルノーは椅子に座り、まるで十年の時間を駆け足で埋めるかのように母とたくさんの話をした。主な話題となるのは、やはり家族のことである。
「ミクロージュの兄上と、オルパはどうしました?」
「二人とも、家を出ました」
ミクロージュが家を出たのは、カルノーがアーモルジュの弟子となるそのきっかけとなったあの戦のすぐ後だった。レムエルが生きて帰ってきたため、次男のミクロージュはかねてからそう決めていたように家を出たのだ。戦のすぐ後であり、アーモルジュから賜った金貨100枚のほかに、さらにマクレイム伯から支払われた恩賞金が二人分あったのでまとまった額の支度金を持たせてやることができた、とルクセラは話した。
「本来ならカルノーのお金だったのですが……」
ミクロージュに持たせた支度金は、実はカルノーが受け取るはずだった恩賞金の全額であったという。彼本人がその場にいなかったとはいえ、そのお金を勝手に渡してしまったことをルクセラは詫びた。
「それは、構いませんよ。それでミクロージュの兄上は、今どちらに?」
「さて、分かりません。どこをほっつき歩いているのやら……」
苦笑を浮かべながら小さく頭を振り、ルクセラはそう答えた。家を出て以来、ミクロージュはずっと根無し草の生活をしているのだと言う。時折便りは来るが、相手が定住していないので返事を出すこともできない。家に帰ってくることもなく、本当にどこで何をしているのか分からないという。
「本当に、男の子など生むものではありませんね。大きくなったらすぐどこかに行ってしまうのですから」
愚痴っぽい口調でそう言われ、カルノーはさすがに怯んだ。手紙のやり取りはしていたが、この十年家に帰ってこなかったのは彼も同じである。
「レ、レムエルの兄上は家に残られたではありませんか」
「当たり前です。あの子にまで家を飛び出されては、オスカーの家がなくなってしまいます」
レムエルは長男である。長男は家を継ぐものと相場が決まっている。加えて早くに父が死んだためか、彼は「家を守るのだ」という意識が強い。もしかしたら彼に奥底にも「家を飛び出してみたい」という欲求があって、長男でなければそれに従っていたのかもしれない。
もしかしたらルクセラは、息子のその欲求に気付いていたのかもしれない。レムエルまで家を飛び出していたら、オスカー家の男子は“全滅”である。そして真っ先に飛び出してしまったカルノーには返す言葉もない。
「そ、それでオルパはどうしました?」
旗色が悪いと判断したカルノーは、不利な戦いを続けることなく速やかに話題を変えた。ルクセラは息子の下手な戦術を当然見抜いていたが、やり込めてやろうなどと思っていたわけでもない、舌鋒を納めてその話題に応じた。
「オルパなら嫁ぎましたよ」
三年前のことで、嫁ぎ先は〈リムアット〉の街のレイムケート商会だという。夫の名はエルマー・レイムケートといい、すでに子供も生まれているという。なお、リムアットはランプセンの隣街で、カルノーの叔父のオズベッドが道場を構えている街でもある。ランプセンからは、馬を飛ばせば半日ほどの距離だ。
「そうですか……」
感慨深いものを感じながら、カルノーはそう呟いた。彼の記憶に残っている妹の姿は十歳当時で止まっている。その妹がすでに結婚し、すでに子供も生んでいるという。やはり十年と言う時間は長い。
「せっかく結婚式の招待状を出したというのに、貴方は来ませんでしたね」
ルクセラから少し責めるような口調でそう言われ、カルノーは再び顔を引きつらせた。確かに招待状を受け取った記憶はある。ただ三年前と言えば、あちらこちらで内乱が起こっていたころ。忙しさにかこつけて、お祝いの品物を送るだけで済ませてしまった。
「せっかくこちらに来たのですから、後で顔を見せに行きなさい」
「……そうですね。そうします」
内心で全面降伏しながら、カルノーはそう答えた。カルノーから言質を取ってルクセラは穏やかに微笑む。そして、さらに言葉を続ける。結婚と言えば、彼自身のことも忘れてはならない。
「そういえば、カルノーも結婚するそうですね」
「……ええ、実は。今日はそのこともあって帰ってきました」
若干の気恥ずかしさを堪えながら、カルノーはこう応えた。そして懐から一通の封通を取り出す。彼はそれをルクセラに差し出した。
「式の招待状です。日付は正式に決まり次第お知らせしますが、是非おいでになってください」
「もちろん、と言いたい所ですが、私は難しいでしょうね……」
ルクセラはカルノーから招待状を受け取ると、少し寂しげな表情を浮かべてそう言った。ここのところ体調が思わしくなく、体力も衰えてしまったことは、彼女自身もまた自覚している。そのため、長旅をして皇都で行われる息子の結婚式に出席するのは無理だろうと感じていた。
「レムエルが出席することになるのでしょうが……、まあ、細かいことはそのときに考えましょう」
ルクセラの言葉にカルノーは頷いた。彼にしてみれば、何がなんでも家族に出てもらいたいわけではない。新郎の家族が誰もいないと言うのは体裁が悪いかもしれないが、しかし身分を考えれば出しゃばっても恥をかくだけだろう。こうして招待状を持ってきたのだって、半分以上はアーモルジュにそう言われたからだ。責任を果たした以上、あとはレムエルらが考えて判断すれば言いと思っていた。
さてカルノーはそれからまたルクセラと様々な話をした。そしてそうこうしている内にレムエルが帰宅した。およそ十年ぶりに弟の姿を見た彼は相好を崩し、笑みを浮かべながらカルノーの肩を叩いた。
「よく来たな、カルノー。いや、ここはオスカー子爵とお呼びすべきかな?」
「呼び捨てで結構ですよ、兄上」
「はは。ではそうさせてもらおう」
およそ十年ぶりの兄弟の会話は比較的和やかだった。そしてレムエルが帰ってくると、すぐに夕食になった。カルノーが来ているためだろう、随分と豪勢な食事だった。
食事の席で、レムエルは自分の子供たちをカルノーに紹介した。彼の子供は今のところ三人で、長男クロムス、長女スピカ、次男ハルムといった。カルノーにしてみれば甥や姪に当る子供たちである。
カルノーも食事の席で持ってきた土産をそれぞれに配った。レムエルには贈ったのは銀杯である。緻密な彫り物細工が施されて美しく磨き上げられた、熟練の職人の手による一点ものだ。桐の木の化粧箱に入れられていた。
カーラには手鏡を贈った。縁は銀製で、柄の部分には鮮やかな緑色の翡翠がはめ込まれている。レムエルの子供たちにはそれぞれお金を包んで渡した。
一番多くの贈り物を渡したのは、母ルクセラに対してだった。絹のストールに金の腕輪、乳香、没薬、雪花石膏の容器に入った香油などだ。
「連れてきたロバも置いていくので、好いように使ってください」
「そうか。では、ありがたくいただいておこう」
食事の最中、話題はやはりカルノーの話に集中した。クロムスとハルムはテムタス河の会戦の話を聞きたがり、スピカはカルノーの婚約者であるお姫様のことを聞きたがった。子供たちがはしゃいで、随分と賑やかな夕食になった。
「カルノー、もう少し飲まないか?」
夕食も終わり、ルクセラが「疲れた」といって部屋に戻り、カーラが子供たちを寝かしつけるために下がると、レムエルはそう言ってカルノーを誘った。特に断る理由もなく、彼はそれに応じた。
「随分と活躍しているようだな。お前の話はこんな田舎にまで聞こえてくる」
明るい笑みを浮かべながら、レムエルはカルノーと自分の杯にそれぞれワインを注ぐ。なお、彼が使っているのは先程貰ったばかりの銀杯だった。
「兄上こそ活躍しておられるのではありませんか。暮らし向きも随分と良くなっているようにお見受けしますが?」
「まあ、あの頃に比べれば、な」
まんざらでもない様子でレムエルはそう言った。オスカー家を立て直したのは、間違いなく彼の功績である。
「伯爵家に仕官することができた。そのおかげで、何とかなった」
「そうでしたか」
弟の言葉に、レムエルは「うむ」と頷きながら銀杯を傾けた。そしてそれから「後は、お前のおかげだな」と付け加える。
「私の、ですか?」
カルノーはここ十年ほど、一度も家に帰ってきていない。当然、仕送りなどをしたこともない。それなのに、どういうことなのか。
「オルパの嫁ぎ先が商会であることは聞いたな? エルマーが新たな商売を始めるというのでな、結納金と合わせてカディエルティ侯爵からいただいた恩賞金を出資したのだ」
その商売が上手くいった。結構な額の配当金が何もしなくても入ってくるようになり、そのおかげでオスカー家の暮らし向きは随分とよくなった。今では畑を買い増やし、人を雇って農作業をさせるまでになっている。ちょっとした地元の豪族と言っていい。
「まあ、それはそれとして、だ」
そう言ってレムエルはこの話題を打ち切った。そして、地元産のチーズを一切れ口に放り込みワインを飲んで流し込むと、さらにこう続けた。
「実は、な。最近、領軍を動かす準備に忙しい。しかも、明らかに遠征を行うための準備だ」
レムエルは遠征という言葉を使ったが、これは要するに「領軍が領地から出る」という意味だ。貴族の領軍がその領地から出てくるとしたら、その理由は大きく分けて二つ。中央政府に命じられた出兵か、あるいは反乱か。ちなみに貴族同士の私戦を行うことは反乱と同義とされている。
レムエルによればここのところの準備は大っぴらで、つまり伯爵にはこれを隠すつもりがない。ということは、これは正式な許可の出た、あるいはそれを見越した準備であると言うことだ。同じく東方の貴族、例えばカディエルティ侯爵なども同じように領軍の準備を進めているようで、国内に内乱の兆しはないし、これは近々大掛かりな遠征があるのではないかとレムエルは睨んでいた。
「それで、お前はなにか聞いていないか?」
「……明確にどこが相手なのかは、まだ。ただ、ライが、摂政殿下が軍を動かすつもりなのは間違いないでしょうね」
言葉を選びながら、カルノーはそう答えた。彼の言うとおり近衛軍でも遠征の準備が進められており、いまだどこにも宣戦布告がなされていないにも関わらず、すでに戦時中のような熱気と緊張感が漂っていた。
「ふむ、そうか……。そうなると相手はどこであろうな……? 東方の貴族が動員されるようであるし、やはりクシュベガか?」
レムエルのその呟きのような問い掛けに、カルノーは何も答えなかった。何も知らないからだ。現時点でそれを知っているのは、ライシュと近衛軍の上の一握りだけだろう。ただクシュベガの略奪隊によって皇国はなんども大きな被害を出している。その線は十分に有り得るだろう。
「お前もやはり行くのか?」
「どうでしょうね……。今こんなところにいますし」
そう言ってカルノーは苦笑した。彼が遠征に参加するのであれば、今はその準備で忙しくしているべきだろう。加えてジュリアとの婚礼も近い。今回は外されるかもしれない、と彼は思っていた。
「ふむ、留守居役を仰せつかる、か」
「そうかもしれませんね」
ただ、近衛軍が忙しそうなのでカルノーが休暇を返上しようかと上司のラクタカス将軍に申し出たところ、「準備はこっちでやっておく。また後で仕事をしてもらうから今は羽を伸ばしてこい」と言われた。彼の言う「仕事」が留守居役なのか、それとも遠征への参加なのか、それは今のところ不明である。
「なるほど、な……」
レムエルは顎を撫でながら呟くようにそう言い、銀杯を傾けてワインを一口飲んだ。そしておもむろに話題を変える。
「明日は、どうするつもりだ?」
「叔父上と、オルパのところに顔を出して見るつもりです」
前述したとおり二人が住んでいるのはレムアットという街で、ランプセンの街からは馬を駆けさせて半日ほどの距離がある。おそらく明日の夜はレムアットで宿を探すことに成るだろう、とカルノーは言った。
「ふむ、では叔父上とエルマーによろしく伝えておいてくれ」
レムエルの言葉に、カルノーは頷く。そして二人はもうしばらく他愛のない会話を続けた。
そして次の日、朝早く起きたカルノーは街の外で護衛たちと合流し、そのままレムアットの街を目指した。彼らが街に着いたのはお昼前で、カルノーは屋台で早めの昼食を済ませると護衛と分かれて叔父のオズベッドの家へ向かった。
「カ、カルノー!? カルノーなのか!?」
オズベッドは母屋の隣にある道場にいた。昔、まだカルノーがこの家に預けられていた頃、彼もまたこの道場で木剣を振るったものである。ここで学んだことが14のときに出た戦場で自分を生かしてくれたと彼は思っている。
突然やって来た甥をオズベッドはいたく歓迎した。カルノーにとっても彼は幼少の頃に父親代わりとなってくれた恩人である。様々なことを話し、時間はあっという間に過ぎてしまった。
「夕食を食べて、泊まって行ったらどうだ?」
オズベッドはそう言ってくれたが、カルノーはこれからオルパのところに行くつもりだからと言ってそれを断った。そして土産を渡して叔父の家を辞した。ちなみに彼に贈った土産は、銀食器のカトラリーセットである。
オルパの嫁ぎ先であるレイムケート商会は多くの客で賑わっていた。客だけではなく、遠方から来たらしい行商人の姿も多く見られる。商売が上手く行っているというのは、どうやら本当らしい。
カルノーが商会の人間に声をかけて名前を告げると、すぐさま丁重に応接室へと通された。どうやら彼のこと、つまりオルパの兄で今は子爵位を持つ貴族であることは、よくよく知っているらしい。
「兄さん……? 本当に、カルノー兄さんなの?」
しばらく待っていると、応接室にオルパが現れた。当たり前だがもう十歳の童女などではなく、立派に成長した大人の女性である。その姿を見て、カルノーは昨日からのなかで十年と言う時間を一番強く感じた。
「やあ、久しぶり、オルパ」
ややぎこちない笑顔を浮かべながら、カルノーはそう応じた。感極まったオルパが泣き出してしまい焦ったが、彼はなんとか妹を宥めてソファーに座らせる。思えばこうして兄らしいことをするのは初めてのような気がして、カルノーは思わず苦笑してしまった。
「……じゃあ、昨日こちらに帰ってきたばかりなんだ」
落ち着いたオルパにカルノーが昨日からのことを話して聞かせると、彼女はそう言って何度も頷いた。
「それにしても、オズベッド叔父さんの方へ先に行ったのなら、部下の人たちをこちらに寄越すなりして教えてくれても良かったじゃない。兄さんも貴族なら、その辺のことはきちんとやらないと」
おかげで何の準備もできていない、とオルパは少し不機嫌そうにそう言った。その言葉に彼女の成長を感じカルノーは小さく笑ったのだが、オルパはそんな兄を睨みつける。妹の鋭い視線に気付いたカルノーは大げさに両手を上げて詫びた。
「ごめんごめん。次から気をつけるよ。これで機嫌を直してくれ」
そう言ってカルノーが懐から取り出したのは、小さな化粧箱だった。彼がその化粧箱の蓋を開けると、そこには大粒のルビーのついた耳飾りが一組収められている。これが大変に高価なものであることは、一目瞭然である。それを見てオルパは目を輝かせた。
「これ、兄さんが買ってくれたの?」
「いや、これはジュリア殿下がオルパに、と下さったものだ」
カルノーの家族構成を聞き、彼に妹がいることを知ったジュリアが、リドルベル辺境伯領へ戻るその日の朝、彼の手紙を取りに来たときに代わりに置いていったのだ。
『カルノーの妹であれば、わたしの義妹じゃ』
昔から妹が欲しかったのだ、とジュリアは笑顔を見せながら話したものである。そして「お古で申し訳ないが」と言ってこの耳飾りをオルパへとカルノーに渡したのだ。高価なものであることはすぐに分かったので彼も一度は固辞したが、「どうせ使わないから」と言われて最後には受け取った。
余談になるが、カルノーはこの時もう少し深く物事を考えるべきだったのかもしれない。つまり、なぜジュリアがこの耳飾りを持っているのかということだ。彼女は正真正銘のお姫様だから、ルビーの耳飾りくらい持っていても不思議ではない。ただ彼女自身「どうせ使わない」と言っているので、自分で買ったというよりは誰かから貰ったと考えた方が良さそうだ。
では、誰から。つまり、父親であるレイスフォール先皇陛下から。
そこまで考えが及べば、カルノーは恐らくこの耳飾りを決して受け取りはしなかっただろう。しかし彼はそこまで考えていなかったし、オルパに至っては言わずもがなである。まあジュリアがいいというのだから、いいのであろう。
「ジュリア様かぁ……。ねえ兄さん、どんな方なの?」
「……凛々しい方、かな」
少し考えてからカルノーはそう答えた。そしてその言葉はとてもしっくりくるように思えた。美しいだとか可憐だとか、そんな言葉よりもやはり「凛々しい」という言葉が一番ジュリアを端的にあらわしているように思える。
そうやってオルパと話しているうちに、応接室に今度は二人の男がやって来た。一人はオルパの夫であるエルマー・レイムケートで、もう一人はその父親であるルッドである。
二人の名前から分かるように、ルッドは平民だがエルマーは騎士である。なぜ二人の身分が違うのかと言うと、ルッドが騎士の身分を買ってエルマーに与えたからである。意外かもしれないが、騎士の身分は金で買えるのだ。
レイムケート商会は、もともとはルッドが始めた小さな商店である。商いを大きくし、将来的には貴族とも取引をしたいと考えたルッドは、そのためにどうしても必要になる騎士の身分を自分の跡継ぎであるエルマーに与えたのだ。
なお、自分で騎士にならなかったのは、その時点ですでにエルマーは生まれており、ルッドが騎士になっても彼は平民のままだったからだ。将来のことを考えれば、やはりエルマーのほうを騎士にしておくべきだった。そして生まれてくる子供たち、ルッドにしてみれば孫たちも騎士の身分を受け継げるよう、騎士の身分を持つ女性が嫁として迎え入れられた。それがオルパである。
ルッドとエルマーの親子にとって、嫁であるオルパの兄があのカルノーであるというのは望外の幸運だった。彼との縁を上手く利用すれば、商会を大きくしてさらには皇都に進出することも可能かもしれない。
しかし意外にも彼らはほとんど商売の話をせず、それがカルノーにいい印象を与えた。夕食と宿泊を勧められ彼がそれに応じたのは、オルパに義母や子供を紹介したいと言われたことも理由の一つだが、やはり彼らに好感を抱いていたことが大きいだろう。
さてこの翌朝、カルノーはランプセンに戻って実家でもう一日過ごし、さらにその翌朝皇都アルヴェーシスへ発った。そして、まるで彼の帰りを待っていたかのように、皇国の歴史はまた大きく動き始めるのである。




