勝利を飾りに6
スピノザ・ジェルク・ロト・カディエルティにとって、欲しいと思ったものを手に入れることはそう難しいことではなかった。カディエルティの家は侯爵家。アルヴェスク皇国のなかでも有数の有力貴族であり、富も名声も十分に持っている。大抵のものは、望めば手に入った。だからこそ、欲しいと思いつつもどう手に入れればよいのか分からない、というのは彼にとって随分と久しぶりのことだった。
決して、初めてのことではない。しかし、ここまで「諦めきれぬ」と思ったのは初めてである。そしてまた恋に焦がれるのも、これが初めてであったかもしれない。
恋。そう恋である。スピノザが欲しいと思ったのは女だった。その女人の名を、ジュリア・ルシェク・アルヴェスクという。
一目惚れ、だった。
フロイトス・エルフルト・グラニア・アルヴェスクの戴冠式の後に開かれた晩餐会でジュリアの姿を見たとき、スピノザは彼女に一目惚れしたのである。可憐で、しかし弱々しくはない。凜としたその立ち姿は、一輪の花を思わせる。微笑を浮かべれば、それはまるで蕾が開いて華麗な花を咲かせるかのようだった。
欲しい、と思った。しかしそう思ったその時にはすでに、彼女は手の届かない存在となっていた。婚約者がいたのである。
その婚約者の名を、カルノー・ヨセク・ロト・オスカーという。今は独立した子爵家の当主であるが、元々はカディエルティ侯爵家に仕える家臣の一人であった男だ。それがまた、スピノザには気に入らなかった。
自分が欲しいと思った女を他の男が手に入れる。それだけでも気が狂いそうなのに、その男はよりにもよって自分の家に仕える一介の騎士でしかなかった男なのだ。これではまるでカディエルティ侯爵家がオスカー子爵家の後塵を拝したようではないか。主家を出し抜きその家名に泥を塗るとは、何たる恩知らずであろうか。
なんとかしてジュリアを手に入れる方法はないものだろうか。スピノザはそれを侯爵家の謀臣たちに諮った。年かさの、前の当主であるアーモルジュの下で働いていた者たちである。しかし彼らの返答は、スピノザにとって必ずしも耳当たりの良いものではなかった。
「そのお気持ちは遂げてはなりませぬ。お諦め下さい」
彼らはそう答えたのである。謀臣たちの返答にスピノザは眉をひそめた。そしてこう問い返す。
「なぜだ? ジュリア殿下を我が侯爵家にお迎えできれば、皇王家との結びつきを強めることが出来る。それは侯爵家にとって大きな利益となろう? カルノーを見よ。貧乏騎士家の三男でしかなかった奴が、ジュリア姫の婚約者となったことで今や子爵となり、さらには近衛軍の上級仕官だ。ならば姫を我が妻とできれば、侯爵家のさらなる繁栄は約束されたようなもの。
それにカディエルティ侯爵家は皇国でも有数の大貴族。アルクリーフ公爵家を牽制するためにも、我が家と皇王家が姻戚関係を結ぶことには意味があるはずだ。それが分からぬライシュハルト殿下ではあるまい」
スピノザのその言葉に、しかし謀臣たちは首を横に振る。「御館様は思い違いをしておられる」と彼らは言った。
「カルノー殿について言えば、ライシュハルト殿下にとっては順序が逆なのです」
「逆?」
「左様。ライシュハルト殿下はジュリア殿下の婚約者となったのでカルノー殿を重用しておられるのではないのです。むしろカルノー殿を重用したいがために、大切な妹君をかの人の婚約者とされたのです」
謀臣たちのその言葉を聞いて、スピノザは眉間に皺を寄せた。それはカディエルティ侯爵家よりもオスカー子爵家を、いやスピノザよりもカルノーを重んじるということか。それは彼にとって屈辱的なことだった。
「カルノーが、いなくなれば……」
その呟きは、スピノザの口からごく自然に出てきた。それを聞いた謀臣たちは皆顔を強張らせる。そして彼らのうちの一人が慎重に口を開いた。
「……仮に、仮にカルノー殿がいなくなったとしても、ライシュハルト殿下はジュリア殿下を御館様には下さらないでしょう」
「なに……? どうしてそう言える?」
不機嫌な声で、スピノザはそう尋ねる。それに対し、謀臣たちは彼を宥めるようにしながらこう答えた。
「恐れながら、御館様にはすでに正室がおられます。皇族の姫君を側室として迎えるなど、聞いたことがありませぬ」
皇族の姫が臣下の家に降嫁することは珍しくない。しかしその場、臣下の側は姫を正室として迎えるのが皇家に対する礼儀だった。それに今回の場合、ライシュハルト個人の感情としても、大切な妹を側室にするなど考えられないことだろう。
「では、アンネマリーを離縁すれば……」
アンネマリーとはスピノザの妻である。貴族らしく政略結婚であり、彼女を探してきたのはアーモルジュだった。現在の夫婦仲は決してよくなく、ここ数年は閨を共にすることもしていない。ただ、跡継ぎを含めて子供は生まれているし、表立って仲が悪いわけでもない。互いに一線を越えない限りは不干渉。それが今のところの関係だった。
そのアンネマリーを離縁すれば正室の座が空く。そうすればジュリアを迎えることに問題はない。スピノザは直感的にそう思ったが、しかしその考えはあまりにも短絡的と言わざるを得ない。
「そのようなことを言ってはなりません。アンネマリー様を離縁なされば、ロブシェーヌ伯爵家との関係はどうなります?」
謀臣たちは少し強い口調でスピノザを諌めるようにしてそう言った。ロブシェーヌ伯爵家とはアンネマリーの実家である。南方の海に面した領地を持つ貴族であり、カディエルティ侯爵家にとっては最大の交易相手だった。さらに言えば、侯爵領に出回っている塩のおよそ六割はロブシェーヌ伯爵領で生産されたものである。
このような両家の深い関係が、スピノザとアンネマリーの婚姻の上に成り立っていること明白である。それなのにアンネマリーを離縁、それも彼女には一切非がないのに一方的に離縁すれば、両家の関係は一挙に険悪なものとなるだろう。それが領地の運営に大きな、それも悪い影響を与えることは容易に想像がつく。つまり領主となったスピノザにとって、決してやってはいけないことなのである。
「それに、アンネマリー様の離縁は必ずや醜聞となります。ライシュハルト殿下はジュリア殿下をそのような醜聞に関わらせることを良しとはされないでしょう」
要するにアンネマリーを離縁したとしても、ジュリアを妻に迎えることは出来ないのだ。そのことを理解させられると、スピノザは眉間に深い深い皺を刻んだ。理解は出来ても納得はできない。そういう顔だった。
納得できないスピノザは、今度は彼と一緒に育ちまた学んだ友人たちに同じことを相談した。彼から一通りの話を聞いた友人たちは、おもむろにこう言った。
「……もし、もし御館様がジュリア殿下をどうしても手に入れたいとお思いならば、方法は一つしかございません」
「なに、方法があるのか。それはなんだ?」
「既成事実を作ってしまうことです」
「既成事実を、作る……」
それはつまり、体裁が整う前に契りを結んでしまうということだ。それも、ジュリアの意思を無視してでも。そして一度身体を重ねてしまえば、ジュリアはスピノザのもとに来ざるを得なくなる。友人たちはそう言った。
「し、しかしそれではライシュハルト殿下の怒りを買うことになるぞ……」
さすがのスピノザも友人たちの提案には躊躇いを見せた。大切な妹を手篭めにされたとあれば、ライシュは怒り狂うだろう。ともすればカディエルティ侯爵家はお取潰しになるかもしれない。
「なに、ジュリア殿下の方から誘われた、ということにすればよろしい」
「……!」
思わずスピノザは息を呑んだ。それは実際にジュリアのほうから誘わせる、ということではない。彼女の意識を奪った状態で手篭めにし、その後そのように説明するということだ。
「御館様がジュリア殿下を欲せられるのであれば、これしか方法はございません」
言葉を失うスピノザに対し、友人たちはそう言い切った。彼らの示した方法に、スピノザはまだ困惑していた。本当ならば、「そのような卑劣な真似は出来ない」と突っぱねるべきであったのだろう。しかし彼らの言うとおりにすれば、もしかしたら本当にジュリアを妻に出来るかもしれない。その可能性はスピノザにとってあまりにも甘美な、そして危険な毒だった。
「……具体的には、どうする?」
「カルノー殿が皇都を離れるときを狙ってパーティーを開き、そこにジュリア殿下を招待するのです」
そして、その席でジュリアに一服盛る。意識を失った彼女を部屋に運ばせ、そして事に及ぶのだ。
具体的な方法論を提示され、スピノザの心はさらに揺れた。これが正道を外れているということは分かっている。しかし、それでもジュリアのことは欲しい。奪ってでも手に入れたい。その欲望はある面野心にさえ似ていた。
□■□■□■
「カディエルティ侯爵がパーティーを開くそうだ」
カルノーが盗賊団討伐のために皇都を発ってからおよそ一週間後。ジュリアを執務室に呼び出したライシュは、届けられたパーティーの招待状を彼女に見せながらそう言った。
「どうだ、行くか?」
「……兄上は、どうされるのですか?」
招待状にはお二人で、と書いてある。ただライシュが行くことになれば、当然彼の妻であるマリアンヌも同伴することになるので、実質的には三人への招待だ。
「そうだな、お前が行ってくれるのであれば、俺は行かずにすむ」
ぬけぬけとそう言う兄を、ジュリアは睨みつけた。が、ライシュに怯んだ様子はない。それを見て、彼女は深々とため息をついた。
「……行くのは構いませんが、一人で行くのはちょっと……」
「それもそうだな……」
婚約者のいる女性が一人で男性の誘いに応じるというのは、いささか体裁が悪い。ライシュが行かないというのであれば、彼の代わりにエスコートをする者が必要になるだろう。本来ならば婚約者であるカルノーがエスコートをすればいいのだが、生憎と彼は皇都を離れている。では、他に誰が良いか。
「親父殿は領地に戻っているし……」
ライシュが真っ先に思いついたのは、義理の父親であるベリアレオスだった。ただ、今彼は領地に戻っている。いない人間にエスコート役を頼むわけにはいかない。とはいえ、彼以外となるとなかなか思い浮かばない。
「では、アーモルジュ様に頼んでみましょうか?」
「アーモルジュ老か。うむ、老公ならば適任かも知れんな」
アーモルジュはカルノーの師匠であり、またほとんど父親代わりだ。そのことは貴族であればほとんどの者が知っており、その彼がジュリアのエスコートをしても妙なことを勘繰られることはないだろう。
「ところで兄上」
「どうした、ジュリア?」
エスコート役はアーモルジュでいいだろう。だが、そのほかにもまだ問題がある。ジュリアは澄ました顔でその問題を指摘した。
「着ていくドレスがありませぬ」
「……分かった分かった。一着買って来い。高いものでよいぞ」
ライシュが苦笑しながらそういうと、ジュリアは得意げな笑みを浮かべて頷く。妹のその様子を見て、そんなにドレスが欲しいのであればもっと普段からねだればよいのに、と思うライシュであった。
さて、ライシュのもとに招待状が届けられてから10日後、ついにパーティーの開かれる夜となった。会場となるのは、皇都にあるカディエルティ侯爵家の屋敷である。そして招待客たちを接待していたスピノザのもとに、ジュリアが来たという知らせがもたらされる。
(ついに来たか……!)
背徳的な興奮と決意を胸に抱きながら、スピノザは一つ頷くとジュリアを迎えるために玄関に向かった。そして彼女の姿を認めて一歩踏み出そうとし、しかしその後ろにアーモルジュの姿を見つけて固まった。
「おお、スピノザよ。出迎えご苦労じゃ」
甥の姿を見つけたアーモルジュが笑みを浮かべながら彼の名前を呼ぶ。思わずスピノザは顔を引きつらせる。
「スピノザ卿、本日はお招きいただきありがとうございます」
「ジュ、ジュリア殿下におかれましては、おこしいただき誠に光栄でございます」
ジュリアの口上に、スピノザはどうにかそう答えた。本当であればもっと美辞麗句を並び立てて褒めそやし、彼女の警戒を解いてから一服盛る計画だったのだ。しかし動揺した彼はそこから言葉を続けることが出来なかった。
「な、なぜ叔父上が……?」
「なに、ジュリア殿下のエスコート役を仰せつかってのう。本来であればカルノーが来ればよかったのじゃろうが、あれは今皇都にはおらぬからな。代わりに、儂に白羽の矢が立ったというわけじゃ」
細々と口を出す気はないので安心せい、と上機嫌な様子でアーモルジュは笑いながらそう言った。そしてジュリアを促すとさっさと屋敷の中に入っていく。スピノザは自分が案内するとは言えなかった。まだ動揺が抜け切っていなかったし、なによりアーモルジュはつい最近までこの屋敷に住んでいたのだ。現在は「自分がいると余計な気を使わせてしまうから」と言ってカルノーの屋敷に部屋を借りているが、彼にしてみれば勝手知ったる自分の屋敷である。案内の必要など、あるはずもない。
(しかし、これは……)
スピノザは内心で歯噛みする。アーモルジュが彼女と一緒に来たことで、彼の計画は根底から揺らいでしまった。まさか彼の目の前でジュリアに一服盛ることなど出来るはずもない。仮に出来たとしても、ジュリアが体調を崩せばすぐにアーモルジュが連れて帰ってしまうだろう。つまり、どうやっても今夜彼女と関係を持つことは出来そうにもない。
(……っ!)
スピノザは少しだけ顔を歪め、胸の中で舌打ちをもらした。悔しい、と言う気持ちはもちろんある。しかし彼は、どこかで自分が安心していることも感じていた。
なにはともかく、いつまでも突っ立っているわけにはいかない。こうしてジュリアがパーティーに来てくれただけでも滅多にない機会なのだ。スピノザはすぐ家人の一人に計画を中止するよう告げると、自身はジュリアの後を追って会場へと入った。
ジュリアはすでに何人もの客たちに囲まれていた。当然、男もいれば女もいる。ただアーモルジュが傍に寄り添っているおかげなのか、近づきすぎている者はいないようだった。そのことを確認するとスピノザはすぐに彼女達の所へは行かず、まずは招待した別の客達のところへ挨拶に行った。面倒事を先に片付けるためであり、また収まりきらない動揺を鎮めるためであった。
「いかかです、ジュリア殿下、叔父上。楽しんでおられますか?」
パーティーが始まってからおよそ一時間。挨拶周りを終えたスピノザは、ジュリアの周りから人がはけた頃合を見計らって彼女に近づいた。
「スピノザ卿。ええ、楽しませてもらっています」
屈託のない笑顔を見せながら、ジュリアはそう応じた。実際、彼女はこのパーティーを楽しんでいた。最初はライシュもカルノーもおらず不安な部分もあったが、しかしエスコート役のアーモルジュが上手に話題を提供してくれ、そのおかげで挨拶に来た人々との会話も弾んでいた。
「それは良かった。カルノー殿はお忙しく、殿下ともなかなかお会いになれないご様子。きっとお寂しい思いをされていると思い、僭越ながら今宵こうして招待させていただきました。どうぞ、心ゆくまでお楽しみください」
「ありがとうございます、スピノザ卿。でも、カルノーはなかなか律儀に会うための時間を作ってくれていますよ。もちろん、今は皇都を離れているので会うことは出来ませんが……」
ジュリアのその言葉にスピノザは内心に暗いものを感じたが、しかしそれを表に出すことはなく、笑みを浮かべたままただ「そうですか」とだけ応じた。とはいえ、決して消し去ったわけでもなかった事にしたわけでもない。彼の心の中のその暗いものは、確実に彼の言動に影響を与えていた。
「では、やはりあれはただの噂だったのでしょうなぁ」
思わせぶりに、スピノザはそう言った。彼の浮かべる笑みには、皮肉気なものが混じっている。その、彼の言う噂に心当たりがあったのか、ジュリアの表情が少し硬くなった。しかし彼女はその話題に食いつこうとはしない。だがスピノザは彼女の様子を見て口の端を少しだけ広げ、構うことなくこう続けた。
「いえね、カルノー殿が自分の副官に手を出しているのではないかという、そういう噂を聞いたことがあったものですから」
さも無邪気を装ってスピノザはそう言った。だが言葉の端々に浮かぶ得意げな内心を隠しきれていない。ジュリアはそれを敏感に感じ取ると、パーティーを楽しんで浮き立っていた心が急速に萎んでいくのを感じた。
カルノーが自分の副官、つまりイングリッド・テーラーに手を出しているのではないかと言う噂は、それこそ彼女がカルノーの副官として赴任したときから巷で囁かれていた。イングリッドは若くて凛々しい女性であったから、それがまた噂に尾びれと胸びれをつけることになっていた。
実際のところ、そのような事実は全くない。カルノーとイングリッドの関係はあくまでも隊長と副官でしかなく、噂されているような男女の関係にはなっていない。ただ若い男女であり、しかも男の隊長と女の副官と言う、一方が求めればもう一方は断れない組み合わせというところが、人々の想像力をかき立てるようだった。
恐らくはやっかみもあるのだろう。カルノーの異例の大出世を快く思っていない者は少なからずいる。さらにライシュハルトに対する不満ややっかみの一部も、どうやら彼にむかっているらしい。
ただ摂政であるライシュハルトはもとより、彼に重用され、さらには彼の妹であるジュリアの婚約者であるカルノーと真正面から敵対するのはどう考えても得策ではない。そこで聞こえのよくない噂で彼の評判を落そうとする、そういう動きは実際にあるようだった。
加えて、もう一方の当事者であるイングリッドにもその矛先は向けられていた。女、それも若くて有能な女と言うのはある種の男たちにとって、いや男だけでなく同性の女たちにとっても嫉みや僻みの対象になりやすい。そのせいか噂には二種類あって、一つは「カルノーが迫った」というものであり、もう一つは「イングリッドが誘った」というものだった。繰り返しになるが、そのような事実は一切ない。
余談になるが、イングリッドを副官にすればこのような噂が立つであろうことは、ラクタカス将軍だけでなくライシュもまた十分に予想していた。それでも彼女をカルノーの副官としたことには、幾つかの理由がある。
まず、カルノーの希望である「若くて有能な者」という条件をイングリッドは十分に満たしていた。さらにこれまで裏方で働いていたイングリッドは近衛軍という組織を熟知していた。そのため新参者であるカルノーの副官としてちょうどよかったのだ。
さらに、噂を起こさせることそのものが、彼女を副官とした理由の一つだった。カルノーの出世をやっかむ者は必ず現れる。その中には過激な手段に訴える者もいるかもしれない。ならばそのやっかみを向ける、分かりやすい対象があったほうが事態を制御しやすい。それに事実無根の噂であれば、そのうちに消えてなくなるだろうから、無用な傷を負うこともない。
加えて、ライシュはこの噂を一種の踏み絵にするつもりだった。つまり誰がこの噂をすき好んで流布しているのかを調べさせ、その結果を今後の人事の参考にするつもりなのだ。だからカルノーはある意味で生贄にされているといえなくもないのだが、まあそれはそれとして。
スピノザの言う噂について、ジュリアは当然そのことを知っていた。カルノーはどうだか知らないが、女性はこういう事柄に関しては敏感なのである。そして同時に、その噂が根も葉もないただの噂であることをもまた彼女は知っている。
とはいえ、自分の婚約者が他の女に手を出しているなどと面と向かって言われれば、さすがにいい気分はしない。だがジュリアは内心のその不快感を顔に出すことなくスピノザにこう言葉を返した。
「ええ、ただの噂です。このわたしが保証いたします」
「ほう。殿下におかれましては、何か確証がおありですかな?」
皮肉気にそう問うスピノザに対し、ジュリアは艶然と微笑みながらこう答えた。
「我が婚約者殿はああ見えてなかなか初心な男ですから。浮気などしていれば、すぐに分かります」
ジュリアがそう言った瞬間、スピノザは一瞬だけ苦虫を噛み潰したような顔になった。そして会話が途切れたその合間を見計らい、アーモルジュが口を挟む。
「おお、姫。あちらにメニアム子爵夫人がおられますぞ。挨拶に行かれてはどうですかな?」
「ええ、是非。アーモルジュ様、紹介していただけますか?」
「もちろんですとも。さ、こちらへ」
そしてスピノザに「失礼します」とだけ告げると、ジュリアはアーモルジュに連れられてその場を離れていった。スピノザは小さく舌打ちしてその背中を見送るしかなかった。
その後しばらくしてジュリアは早々にパーティーを切り上げて帰路についてしまい、スピノザは十分に話をすることも出来なかった。その結果、彼の心には鬱屈としたものが残ることになった。