勝利を飾りに1
大陸暦1060年1月10日、先皇レイスフォールの後を継ぐ正統な皇王フロイトス・エルフルト・グラニア・アルヴェスクの戴冠式が盛大に催された。戴冠式そのものは昨年の9月末に行われているのだが、それはあくまでも略式であったので、こうしてお披露目を兼ねた正式な式が催されたのである。
式には国内の貴族や代官、それに各国の駐在大使などが出席した。それだけでなく国外からも招待客が招かれ、そのなかにはギルヴェルス王国の王子(とはいえ子供ではなく、もう十分に大人だが)とその妃の姿もあった。どうやらアルクリーフ公爵家に嫁いだアンネローゼの両親であるらしい。
戴冠式は厳かながらもつつがなく執り行われ、問題が起こることもなく終わった。退屈そうにしたフロイトスが王冠を放り投げようとして周りの大人たちをヒヤヒヤさせた事件はあったものの、母親であるイセリナ皇太后が宥めて事なきを得た。
戴冠式が行われたその日の晩、フロイトスの戴冠を祝う盛大なパーティーが催された。尤も、フロイトス本人はパーティーの最初に顔を見せただけで、夜も更けきらぬ前にイセリナに連れられて退席した。だが主賓がいなくなってもパーティーは続く。むしろ、多くの人にとってはここからの方が本番であった。
パーティーと聞けば多くの人は華やかな場を想像するだろう。いや、実際に華やかである。会場は美しく飾り立てられ、楽団による演奏が雰囲気を盛り立てる。出席する人々、特に女性はここぞとばかりにお洒落に力を入れる。中央では男女がダンスを踊り、そこから恋が生まれることも珍しくはない。このようなパーティーが流行の発信地点となることもよくあった。
ただし、そのような華やかな面はパーティーの一面でしかない。国内外の有力者が集まるパーティーは、重要な政治と外交の場でもあるのだ。仮に具体的な要件を持っていないとしても、普段であれば会うだけでも一苦労するような大物が多くいるのだ、彼らに一通り挨拶をして顔をつないでおくだけでも十分に意味がある。
だからダンスや料理は二の次で、この機会にひたすら挨拶回りに奔走する者も珍しくない。ジュリア・ルシェク・アルヴェスクにとっても、今回のパーティーはそのような様相を呈していた。
ただしジュリアの場合は挨拶回りに奔走するのではなく、挨拶をする者がひっきりなしに彼女のもとを訪れていた。誰もが摂政となったライシュハルト・リドルベル・アルヴェスクの妹である彼女と誼を得ておきたいと思っているのだ。そのせいでジュリアはダンスを踊ることも料理を楽しむことも出来ず、パーティーの最初からずっと微笑を浮かべて立ちっぱなしだった。
「いやあ、今宵のジュリア殿下はまことにお美しい」
一人のよく肥えた貴族が、大仰な身振りを交えながらそう言ってジュリアを褒める。確かに、この夜のジュリアは美しかった。アイスブルーのドレスを身に纏い、純白のファーストールを肩に羽織っている。美しい銀髪は綺麗に結い上げられ、そこからまるで銀糸のような一房が背中に流れていた。胸元には大粒のサファイアが輝いており、深い藍色をした彼女の眼と相まってよく似合っていた。
だから「美しい」というその言葉に嘘はないのだろう。しかし、彼らがジュリアのことを美しいというのは、多分に彼女がライシュの妹だからだ。恐らく彼らはジュリアが酷い醜女であっても「美しい」と言うのだろう。彼女もその辺りの事情を心得ているから、浴びせかけられる賞賛の言葉もどこか空々しく聞こえてしまう。
「まことに、今宵のジュリア殿下はお美しい。まるで、可憐な雪の精のようです」
そう言ってまた一人、貴族がジュリアのもとに挨拶に来た。年の頃は30くらいか。痩躯で、恐らくは文官なのだろう、あまり鍛えられているようには見えない。その貴族は優雅に一礼してからこう名乗った。
「私はスピノザ・ジェルク・ロト・カディエルティと申します。殿下、どうぞお見知りおきを」
「スピノザ卿でしたか。お名前はアーモルジュ殿よりお伺いしています」
名前を知っている人物であったためか、ジュリアが浮かべていた作り物の微笑に少しだけ生気が混じった。彼女のその笑みを見て、スピノザもまた笑みを深くする。
「先日、伯父上より正式に家督を譲られました。今後はカディエルティ侯爵として殿下のため尽力する所存でございます」
「わたしなどより、どうか兄上に力をお貸しいただきたい。スピノザ卿がお支え下されば、兄の治世も安定しましょう」
二人はそう言葉を交わした。ただ挨拶するだけであれば、スピノザはここで会話を終えても良かった。しかし、彼はそうはしなかった。
「しかし、これまでジュリア殿下が社交界においでにならなかったことが残念でなりません。かように可憐なお姿、もっと早く見せていただきたかった」
そう言ってスピノザは大げさに残念がる。その仕草は芝居がかっているが、しかし彼の目に浮かぶ光にはどこか危ういものを滲ませているように思えた。ジュリアはそれにあえて気付かぬ振りをしながら、浮かべた微笑が固まらぬように注意して無難にこう答えた。
「……スピノザ卿は、お上手ですね」
「いえいえ、お世辞ではありませんよ。先程は『雪の精のようだ』と申し上げましたが、春になればきっと『天使のようだ』と申し上げなければならなくなるでしょう。その時が今から楽しみでなりません」
スピノザの言葉に熱が篭る。彼の目に浮かんでいるのは、巧妙に隠されていようとも狂気の光だ。そのことに気付いたジュリアは、内心で一歩彼から距離を取る。ただ実際に後ろに下がるわけにも行かず、彼女は浮かべた微笑が固まるのを自覚した。しかしスピノザはどうやらそのことに気付いていないようで、さらに熱っぽい声でこうまくし立てる。
「聞けば、ジュリア殿下は先の内乱で甲冑を身に纏い戦場に立たれたとか。致し方ないことであったとはいえ、さぞかし怖い思いをされたことでしょう。それを思うと我が身も凍える思いでございます。
これより先は殿下が戦場に立つこともなくなりましょう。殿下には、甲冑よりもドレスの方がお似合いです。どうぞ社交界に美しい華を添えてくださいませ。なんでしたら、我が侯爵家からドレスを一揃い献上いたしましょう。いいえ、ぜひとも献上させてください。そして……」
「姫! こちらにおられましたか」
スピノザが熱っぽく語るその言葉を遮るようにして、別の男がジュリアに話しかけた。彼の隠しきれなくなってきていた狂気を気味悪く思い始めていたジュリアは、これ幸いとその声がした方に視線を向ける。そしてそこにいた婚約者の姿を見て、彼女は嬉しげな笑みを浮かべた。
「カルノー!」
ジュリアが彼の名前を呼ぶと、カルノーもまた笑みを浮かべた。そして彼女に傍に歩み寄ると、そのかたわらに立つ。ジュリアは傍に来た婚約者の腕に、ごく自然な動きで自分の腕を絡ませた。そうやって腕を組む二人の距離は、スピノザのそれよりはるかに近い。
「スピノザ様、お久しぶりにございます。正式に家督を継がれたとお聞きしています。これでカディエルティ侯爵家も安泰ですね。お喜び申し上げます」
現在は違うが、カルノーはもともとカディエルティ侯爵家の家臣だ。そのため、侯爵家の世子であったスピノザとは、当然面識がある。
「……カルノー殿か。いや、オスカー子爵とお呼びした方がよろしいかな?」
話を遮られたせいなのか、少しだけ不満げな様子を見せながらスピノザはそう言った。
「今までどおり、どうぞカルノーとお呼び下さい」
「ではカルノー殿。貴官の最近の活躍は私も聞いている。貴官のような有能な家臣を手放さざるを得なかったことは、侯爵家にとってまこと大きな損失であった」
そう言うスピノザの声に先程までの熱はない。それこそ世辞であることは一目瞭然であったが、カルノーは彼に恭しく一礼をしながらこう言った。
「過大な評価を下さり、恐悦至極にございます。ですが、侯爵家には優秀な方々を多くおられますので、私の抜けた穴などすぐに埋まりましょう」
カルノーの言葉に、スピノザは「うむ」と言って頷いた。その様子はまるで「当然だ」と言わんばかりである。
「それで、カルノー殿におかれてはジュリア殿下にどのような要件がおありか?」
スピノザのその物言いに、ジュリアは少々不快げに眉をひそめた。それではまるで、ジュリアに話しかけるのにスピノザの了解を得る必要があるようではないか。これが婚約者であるカルノーならばまだ話は分かるが、彼とは今さっき初めて会ったばかりである。話の途中であったことは確かだが、一体何様のつもりなのか。ジュリアがそう思ってしまったのも無理からぬことである。
同じようなことを、きっとカルノーも感じていたに違いない。しかし彼はその内心をおくびも出さず、穏やかな笑みを浮かべながらこう言った。
「そうでした。……実は姫、これからライシュハルト殿下とマリアンヌ夫人のところへご挨拶に伺おうと思っているのですが、ご一緒にいかがですか?」
「ええ、是非」
ジュリアはすぐにそう答えた。今はひとまず、この場を離れたかった。
「それでは姫をお借りします」
カルノーがジュリアの周りにいた人々にそう告げると、彼らも「それならば」と理解を示して頷いた。それを見てから二人は身を翻し彼女を連れてその場から歩き去った。二人が去ったことで、ジュリアの周りにいた人々もそれぞれ思いおもいに散っていく。ただ一人スピノザだけは最後までその場から動かず、ジュリアと腕を組むカルノーの背中に忌々しげな視線を向けていた。
「……助かったぞ、カルノー」
婚約者と腕を組んで歩きながら、ジュリアは小声で彼にそう言った。出会ったばかりの頃は彼のことを「婚約者殿」と呼んでいた彼女だが、今では気安く名前で呼ぶようになっていた。カルノーのほうは相変わらず彼女のことを「姫」と呼んでいるが、同じ言葉でも固さが取れて温かみが増したように思える。つまり二人の仲は至極順調だった。
「大勢の方に囲まれていましたからね」
「そういうわけではないのだが、まあよい」
カルノー自身、大勢の人々に囲まれて大変な思いをしたのでそう言ったのが、ジュリアが「助かった」と言ったのは別にそのことではなかった。ただ彼女はその勘違いを殊更訂正しようとは思わず、むしろ話題を変えてこう言った。
「それよりも、その制服。よく似合っているぞ?」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ジュリアはカルノーにそう言った。それに対し言われた方は苦笑を浮かべながら視線を泳がせる。どうにもこなれない、というのが着ている側の本音だった。
カルノーが着ているのは、白を基調とし背中には小さなマントがついた軍服だ。これは近衛軍の中でも特に上級仕官にのみ着ることが許された儀式祭典用の仕官服である。これより上のものとなると、あとはもう将軍職用の仕官服しかない。この仕官服を着ていることからも分かるように、彼は今近衛軍にいる。現在の彼は、2000からなる騎馬隊を預かる隊長だった。
先の内乱において、カルノーはわずか1000騎で討伐軍45万を翻弄し、さらにはその崩壊のきっかけを作るという大手柄を立てた。その褒章として、彼は摂政ライシュハルトの妹ジュリアの婚約者となり、さらに子爵位を賜って〈ロト〉の称号を名乗ることを許され、名を〈カルノー・ヨセク・ロト・オスカー〉と改めた。
つまり皇王の、有体に言えば摂政ライシュハルトの直臣になったのだ。もともと一貴族の家臣でしかなかったことを考えると、異例の大出世と言えた。それだけカルノーの働きをライシュが高く評価し、さらに彼のことを信頼しまた頼りにしていることが伺える。
余談ではあるが、ライシュはこの学友にして未来の義弟を、当初故アームレーム皇太子の後任として総督にするつもりだった。それだけ信頼が厚いことの証拠なのだが、しかしこの人事にはさすがに周りが難色を示した。
『オスカー子爵の武功は確かに大きく、その堯勇は疑いありませぬ。しかし、子爵はこれまで万を超える軍勢を指揮したことがありません。総督と言えば有事の際には10万を超える軍勢を指揮しなければなりませんが、それが子爵に可能なのかは疑問です。
子爵の器が総督職に足りぬとは申しませぬが、実績が足りておらぬのは明白です。無論、相応の補佐役をつければ勤まりましょうが、しかしそれでは総督職がただの名誉職になってしまいます。レイスフォール先皇陛下もそのようなおつもりで総督職を創設なさったわけではございません。どうぞ、お考え直しください』
そのように諫言され、さらにカルノー自身からも同じようなことを言われ、結局ライシュはその案を破棄した。そしてその代わりに、彼は建て直しが急務な近衛軍にカルノーを入れたのだ。ちなみに近衛軍におけるカルノーの上司は、あのラクタカス将軍である。
そのようにしてカルノーは近衛軍で騎馬2000騎を預かることになったのだが、彼はまず自分の部隊の副隊長を選ぶことになった。副隊長は部隊の半分を預かり、さらに隊長に何かあった場合には部隊の全てを預かることになる、非常に重要な役職だ。アーモルジュとも相談した結果、彼が副隊長に指名したのはジェイル・アニル・ロト・グリークという男だった。
彼は男爵家の当主であり、アーモルジュをして「忠臣」と言わしめる男だ。先の内乱ではアザリアスのために皇都を死守しようとし、しかし「彼奴にその価値はない」とアーモルジュに説得されて門を開いた。
『ジェイル殿! お話を受けていただいたこと、感謝します』
挨拶にやって来たジェイルの手を取り、カルノーは喜色を隠そうともせずにそう言った。あまりの歓迎ぶりに、むしろジェイルの方が戸惑った。
『カルノー隊長……。本当に私などでよいのですか?』
ジェイルは兵を率いる自分の能力はさほど高くないと思っている。近衛軍に入ってある程度出世し、グリーク男爵家の婿養子となってその家を継ぐことが出来たが、しかし自らの栄達はそこまでだと考えていた。
その思いはホーエングラムから捨て駒にされたことを知ったときからさらに強くなった。それを知ったとき、当然怒りは感じたがそれ以上に「やはり自分はここまでの人間だ」と思ってしまったのだ。実際、彼は近衛軍を退役することも考えていた。
ジェイル自身、自分が無能であるとは思わない。騎士の身分に生まれ、貴族になったのだ。客観的に見て成功したと言っていい。騎馬2000騎の部隊の副隊長ならば、今の自分でも務まるだろう。
しかし、カルノーにとってこの部隊はただの通過点でしかない。摂政ライシュハルトに重用される彼は、恐らくそう遠くない未来に将軍職につく。ともすれば大将軍にさえなるだろう。そんなカルノーの部下、それも副隊長になるということは、彼と一緒に出世していく可能性が高い。だが、果たしてそれが自分に勤まるだろうか。
『ジェイル殿に支えていただければ、私も安心です。これからよろしくお願いします』
戸惑うジェイルにカルノーは屈託のない笑顔を見せながらそう言った。その笑顔を見てジェイルは思った。今はひとまずこの若い上司を支えよう。そして、いつかもう彼に付いて行くことができなくなったら、その時ははっきりとそう言おう。その時まで今しばらく近衛軍にいるのもいいだろう。
さて、こうして上司と部下になったカルノーのジェイルは、近衛軍の再編や部隊の調練などもあって忙しい毎日を過ごしていた。特に先の内乱で大きな被害を出した近衛軍の再編は急務であり、責任ある立場に就いたカルノーの仕事は多かった。
ちなみにオスカー子爵家の当主となったカルノーは屋敷やそれを管理する使用人その他諸々を用意しなければならなかったのだが、彼の毎日は忙しくそのようなことをしている時間はない。そんな彼の代わりにそれら一切を手配してくれたのが、家督をスピノザに譲ったアーモルジュだった。本人は「暇だったから」と言っていたが、本来であれば養子ですらないカルノーのために彼がそこまでやる必要はない。つまりは師匠としての完全な善意であり、カルノーはますます彼に頭が上がらなくなった。
『雑用など儂がやっておく。それよりお主はジュリア殿下に顔を見せて差し上げろ』
アーモルジュは笑みさえ浮かべながらそう言ったものだ。忙しい日々の中でもカルノーとジュリアの仲が進展し、二人が多少なりとも婚約者同士らしくなれたのは、彼の気遣いがあったからなのは間違いない。
閑話休題。話をパーティー会場に戻そう。カルノーとジュリアがライシュのところに来るより少し前、彼はもう一人の学友であるエルストロキア・レダス・ロト・アルクリーフの挨拶を受けていた。
「摂政殿下とマリアンヌ夫人におかれましてはますますご壮健な様子。お喜び申し上げます。昨今は内乱などもあり国内は乱れておりましたが、殿下が摂政となられたからには皇国の安寧と繁栄は約束されたも同然でございましょう」
「ありがとうございます、エルストロキア様」
笑顔を浮かべながらまずそう応じたのは、ライシュの隣に立つ女性だった。長く伸ばした濡羽色の髪の毛が美しい成熟した大人の女性で、彼の妻のマリアンヌだ。
「うむ、大義である。アルクリーフ公爵」
笑顔を見せる妻の横で厳しい顔をしながらそう言うと、ライシュはふと苦笑を浮かべる。そしてそのままエルストにこう言った。
「お前のことをこう呼ぶのは慣れんな、ロキ」
「これからは慣れていただかなければなりません。少なくとも、このような場では」
「まったくだな。気をつけるとしよう」
そう言ってライシュは笑みを浮かべた。それにつられるようにしてエルストも笑みを見せる。
「妻も一緒に来ることができれば良かったのですが、なにぶん子を産んだばかりの身体。本人も残念がっておりましたが、大事を取らせました。なにとぞご容赦いただきたく……」
「おお、そう言えば子が生まれたのであったな。名は何と言う? アンネローゼ夫人の様子はいかがか?」
「娘の名はアンジェリカと申します。妻は産後の肥立ちもよく、体調も安定していると聞いております」
「そうか。それはなによりだ」
「アンネローゼ夫人とは是非一度お会いしたく思っています。ぜひそうお伝えください」
マリアンヌがそう言うと、エルストは彼女に「ありがたき幸せ、必ず伝えましょう」と応じて軽く一礼した。そして、そのまま続けてこう言う。
「つきましては、娘のアンジェリカをフロイトス陛下の婚約者として差し上げたいと考えております」
「……ほう」
エルストの突然の申し出に、ライシュは笑みを浮かべたまま短くそう答えた。ただし、彼の目は少しも笑っていない。
アンジェリカはアルクリーフ公爵家の令嬢で、しかもギルヴェルス王家の血を継いでいる。血筋の確かさと家の格だけで言えば、フロイトスの婚約相手として彼女以上の存在は、少なくとも皇国内には存在しないと言っていい。
エルストの申し出がなくとも、彼女は間違いなく婚約者候補として名前が挙がっていただろう。まだ生まれたばかりの乳児ではあるが、公爵家の令嬢であればそれこそ生まれる前から婚約者が決まっていることも珍しくない。それらを考え合わせれば、この申し出は決して突飛なものではなかった。
「……アルクリーフ公爵の申し出、ありがたく思う。ただ事がことゆえ、私の一存では決めかねる。イセリナ様とも相談した上で後日返答したいと思うが、どうか?」
慎重に言葉を選びながら、ライシュはそう答えた。エルスト自身、この場ですぐに返事がもらえるとは思っていなかったのだろう。小さく頷くと、「よろしくお願い致します」と応じた。
「兄上! 義姉上!」
ライシュとエルストの話が一段落したちょうどその時、ジュリアとカルノーが連れ立ってそこに現れた。ライシュとマリアンヌは声につられるようにして視線を動かし、そして二人の姿を見つけると揃って笑みを浮かべた。
「ジュリアとカルノーか。良いところへ来た」
「ライシュハルト殿下とマリアンヌ夫人におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
カルノーが一礼して挨拶をしようとすると、ライシュが手を振ってそれを遮った。存外、彼もうんざりしているのかもしれない。
「堅苦しい挨拶はもうよい。それよりカルノー、義兄上とは呼んでくれんのか、ん?」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ライシュはカルノーにそう迫る。どうやら学友に「義兄上」と呼ばせるのが楽しみで仕方がないようだ。
「そうですよ、カルノー殿。わたくし、素直な義弟が欲しかったのです」
マリアンヌもまた面白そうにそう言った。ただし、彼女の場合わざわざ「素直な」と強調する辺り、標的にしているのはカルノーだけではない。ライシュはもともとリドルベル辺境伯の養子で、マリアンヌの一才年下の彼はつまり義弟だったわけで、ようするに彼は素直じゃなかったと言いたいのだ。
「……姫との婚姻が無事に成れば、そう呼ばせていただくことになるでしょう」
カルノーは苦笑しながらそう応じた。そして視線を二人の近くにいたエルストのほうに向ける。
「エルストロキア殿も、お久しぶりでございます」
「カルノー殿もお元気そうで何よりだ」
そう言って二人は握手を交わした。カルノーに続いてジュリアもまた三人とそれぞれ挨拶を交わす。そして五人はしばらくの間談笑を楽しんだ。
「新しい領地の様子はいかがですか、エルストロキア殿。ご自分で直接赴かれ、指揮を取っておられると聞きましたが……」
「思いのほか内乱の傷跡が大きくてな。税を一時的に安くし、復興に注力させているところだ。いつ以前の状態に戻るのかは、まだ見通しがつかん」
「なに、エルストの手腕ならば、3,4年のうちに元通りになるであろう。10年もあれば、見違えるほどに発展しているに違いない」
「そのつもりでやっております。……ところでカルノー殿は近衛軍での仕事、いかがか?」
「不慣れなことも多いですが、忙しくやっております」
「うむ、近衛軍の再編と再建は国家の大事。期待しているぞ、カルノー」
男たちがそんな事を話していると、ホールに流れていた音楽がちょうど終わり、そしてまた別の曲調の音楽が流れ始めた。
「せっかくです、一曲踊ってきてはいかがですか?」
そう言ってエルストはライシュとカルノーを促した。彼自身は妻を伴っていないので踊るつもりはなかったが、二人はそれぞれ妻と婚約者がこの場にいる。一曲ぐらい踊っておくのがマナーであろう。
二人はそれぞれ自分のパートナーを誘うと、相手の手を取ってホールの中央へと進み出た。ライシュとマリアンヌ、カルノーとジュリアが揃って姿を見せたことで、先に踊っていた人々は器用に場所を移動して彼らのために中央を空ける。空いたそのスペースで四人は優雅に踊り始めた。
(まさにこの国の中枢、だな……)
踊る四人の姿を見ながら、エルストは心の中でそう呟いた。これからの皇国は彼らを中心にして動いていくだろう。その予感が彼にはあった。
(さて、この私はどうするかな……?)
アルクリーフ公爵たるエルストは大貴族である。その影響力は大きい。しかしこの国の中枢からは少し距離が開いてしまったようにも思える。
(ふふ、アンネローゼを連れてくれば良かったかも知れんな……)
そうすれば自分もあそこで一曲踊ることが出来たであろうに。エルストは内心で、いっそ楽しげにそう呟いた。
弦楽器が余韻を響かせて曲が終わる。それに合わせてカルノーらもダンスを終えた。彼らが動きを止めると、周りから拍手が沸き起こる。エルストもまた手を叩く。それに対し、四人は優雅に一礼した。
ダンスを踊り終えたカルノーは、ジュリアと一緒にバルコニーに来ていた。当然外は寒いが、慣れないことをしたせいで緊張してしまった身体を冷ますにはその方がちょうど良かった。
「カルノーは相変わらずダンスが下手だな」
ジュリアのその辛い評価に、カルノーは思わず苦笑した。あいにくとダンスをしっかり学んだことはなく、所詮は焼付けの刃である。
「姫は、お上手になられましたね」
ダンスの下手なカルノーがそれでもなんとか踊れたのは、ジュリアの方が上手にリードしてくれたからである。男として情けない気もするが、そのおかげで恥をかかずに済んだのだからむしろ礼を言うべきであろう。
「うむ、叩き込まれたからな」
ジュリアは得意げな笑みを浮かべながらそう言った。飾らずにそう言えるのが彼女の魅力なのだろう。カルノーはそう思った。
「……ところでカルノー。私達の結婚式だが、その、いつ頃になりそうなのだ?」
少し遠慮がちにジュリアはそう尋ねた。結婚式の準備と言うのは主に新郎の側が行うというのが通例になっている。ただカルノーの場合忙しくてそこまで手が回らないし、彼の実家であるオスカー騎士家に皇族の姫の結婚式を準備する能力はない。見かねたアーモルジュが「自分がやる」と言ってくれたので、彼に任せっきりにしている状態である。もっとも、彼以上にやる気を見せているのがライシュやリドルベル辺境伯のベリアレオスなのだが、それはそれとして。
「師父は初夏を目途に、と言っておられましたが……」
「そうか……」
そうすると、おおよそ半年後である。
「どうかしましたか?」
「いや、私も二十歳が近いし、ようやく婚約者が決まったのだからさっさと身を固めろ、と母上や義姉上が……」
貴族や皇族の娘にとって、二十歳で結婚と言うのは大変な晩婚である。普通であればすでに子供の一人や二人産んでいてもおかしくない歳で、行き遅れと言われても仕方のない歳だ。本人はもとより、周りが心配するのも無理からぬことである。
特にジュリアの場合、皇族の姫であることや内乱の影響などもあってなかなか相応しい相手を選べず、ずるずると婚約を先延ばしにしてきた経緯がある。そのおかげでカルノーの婚約者にできたのだからライシュは大いに満足しているのだが、それでも晩婚であるという事実は消えてくれない。そしてそれは身分ある娘にとって、やはり恥ずかしいことなのだ。
しかし、その感覚は貴族になって一年も経たないカルノーにはなかなか理解できない。まして、ライシュの妻でありジュリアの義姉であるマリアンヌが結婚したのは二十歳のときのことである。それを考えれば、そう急く必要はないのではないかとさえ考えてしまう。
だからかもしれない。彼は、こんなことを言ってしまった。
「気にしておられたのですか?」
たちまち、ジュリアの目じりが跳ね上がった。彼女のその顔を見て、カルノーは自分の失言に気付く。
ジュリアはいっそ清々しいまでに満面の笑みを浮かべて婚約者に近づくと、その足を思いっきり踏んだ。カルノーは顔を引きつらせながらも、甘んじてそれを受け入れる。ヒールの先で踏まなかったのは、あるいは彼女の優しさなのかもしれない。
「ふん」
“ツン”とした表情で鼻をならすと、ジュリアはカルノーを置いてさっさとパーティー会場へと戻っていく。そんな彼女の後ろを、カルノーは慌てて追った。