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アルヴェスク年代記  作者: 新月 乙夜
起の章 野心の目覚め
15/86

野心の目覚め14

 ライシュハルト・リドルベル・アルヴェスクとエルストロキア・レダス・ロト・アルクリーフが皇都アルヴェーシスに揃ったのは、夏の盛りを過ぎた9月の半ばのことだった。両者はそれぞれ3万ほどの軍勢を引き連れていた。


 その理由についてライシュは「降伏した討伐軍の兵士たちを故郷に送り届けるための護衛である」と説明し、またエルストは「ブラムゼック砦にいる討伐軍5万への備えである」と説明した。両者の説明は決して嘘ではないのだろうが、しかしこれらの軍勢が政治的な意味を持っていることは明白であった。なにしろ、皇都の近くに宿営しているカディエルティ領軍がおよそ3万。これを意識していることは明らかである。


 ちなみにライシュは蝋蜜漬けにしたホーエングラムの首を持参しており、これを見せ付けることでいまだにブラムゼック砦に篭っていた討伐軍5万もようやく降伏した。これにて討伐軍は本当に解散したのである。


 ライシュハルトとエルストロキアの両名が揃うと、アーモルジュはすぐに三者による会談を行った。


 会談の主な議題は「今後の皇国について」であり、つまり誰を次の皇王にするかが話し合われた。この会談の主導権を握っているのは、言うまでもなくアザリアスを討ったアーモルジュである。


 紛糾するかに思われたこの会談は、しかし意外にも一時間と少しという短い時間で決着した。ライシュとエルストはアーモルジュから為された提案について幾つかの質問をし、それに対して納得のいく答えを得られると、その案をほぼ丸呑みする形で了解したのである。


 アーモルジュのした提案について、その要点を纏めると以下のようになる。


 一つ、フロイトス・エルフルト・アルヴェスクを次の皇王とする。


 一つ、ライシュハルト・リドルベル・アルヴェスクを摂政とし、フロイトスが20歳になるまでの間、皇国の政を行わせる。


 一つ、この度の内乱の戦功褒章は摂政となったライシュハルトの名によって行われる。


 まず、フロイトスを次の皇王とすることだが、これについてはエルストはもとよりライシュにとっても予想通りの人選だった。だが、ここでやはり当然の疑問が起こる。それを口にしたのはライシュだった。


「フロイトスはまだ幼い。子供に皇王の職責は果たせぬと思うが、如何か?」


 まさしくその通りと言うべきで、アーモルジュは重々しく首を縦に振った。そして彼が次に口を開いて提案したことこそ、ライシュを摂政とするという提案だったのである。


 これを聞いたとき、最も驚いたのはライシュ本人だった。フロイトスを擁立したのはアーモルジュである。そうであるならば彼自身が幼い新皇王の後ろ盾となり、宰相職につくなりして政を行う、というのが筋であろう。少なくともライシュやエルストはそう思っていた。しかしその考えをアーモルジュ本人が笑って否定した。


「いやいや、この老いぼれでは宰相の職責は果たせませぬ。今も、腰が痛くてたまらんのですよ」


 そう冗談を言って若者二人の笑いを誘うと、アーモルジュはさらに続けてこう言った。


「実は、フロイトス殿下の即位を見届け次第、儂は甥のスピノザに家督を譲って隠居するつもりなのです」


 その時、フロイトスを支えられるのは同じ皇族のライシュしかいない。アーモルジュはそう言った。


「しかし、フロイトス殿下が20歳になるまで、というのはいささか長すぎるのではありませんか?」


 そう言ったのはエルストである。皇国では一応15歳で成人とされている。ならばライシュが摂政職にあるのはフロイトスが成人する15歳まででいいのではないか、と彼は言った。


「いやあ、皇王としての才覚が身につくのは、やはり20歳を越えてからでしょう」


 アーモルジュにそう言われ、エルストは押し黙った。彼自身、15の頃を思い出してみれば、まだ士官学校にも入学していない“子供”だった。そのような子供が皇王として主体的に采配を振ることなど出来るはずもなく、そのときにライシュの摂政職を解いてしまうのは時期尚早。アーモルジュのその主張には説得力があった。


「そして、この度の内乱の戦功褒章ですが、これは摂政となられたライシュハルト殿下の名前で行っていただきたい」


 この提案についても、ライシュは随分驚かされた。戦功褒章とはつまり、誰に対してどの程度報いるのかと言うことであり、それを采配するということは名実共にこの国を率いる存在になるということだ。そしてそれを受ける側にしてみれば、そのことを認めるということになる。さらに、実務的な面だけを見ても、今後の皇国内の力関係を左右できる大きな権限と言っていい。


 本来この権限は、新たな皇王となるフロイトスのものとなるべきだろう。しかし、幼い彼にこれを判断することはできない。であれば摂政のライシュが、というのは筋が通っている。しかし、現在フロイトスの名代となっているのはアーモルジュだ。彼が戦功褒章を行い、その後にライシュが摂政になる。それでも十分に筋は通る。そのことを指摘したのはライシュ自身だった。


「侯爵がフロイトスの名を使って戦功褒章を行えばよいのではないか?」


「いえいえ、殿下の方が公平な褒章を行えるでしょう」


 アーモルジュのその言葉は、少々意地が悪い。戦功褒章を行う権限は、確かに強大だ。しかし、まかり間違えばこれが原因で再び内乱状態に突入することも有り得る。例えばライシュが露骨な身内贔屓をすれば、北方連合軍の面々は反発するだろう。これでは今後国を治めていく上で差し障る。つまりライシュは今後を見据えた上で、不満が残らないよう公平に褒章を行わなければならないのだ。


 しかしその一方で、これは摂政となるライシュにとって、人心を勝ち得る絶好の機会でもある。恩賞を受けた貴族や代官たちは、彼に忠誠を誓うようになるだろう。これは国を治める上で非常に重要なことだ。


 余談になるが、ここまでの話でアーモルジュがライシュに対し、非常に気を使っていることが分かる。それはやはり彼が皇族であり、三人の中で唯一「皇王になる」と公に宣言し、またその資格を有しているからだろう。


 そして何より、現時点でフロイトスとライシュを比べるのであれば、皇王に相応しいのはどう考えてもライシュだ。しかしアーモルジュは自らの正義のため、どうしてもフロイトスを新たな皇王に推さなければならない。


 あるいはそのことに後ろめたさが合ったのかもしれない。アーモルジュはライシュに摂政職を提示した。そのことには彼がごねて会談が紛糾するのを防ぐ狙いもあったのかもしれないが、その辺りの心情について年代記には何も記されてはいない。


 さて、前述したとおり、ライシュとエルストはアーモルジュの提案をほぼ丸呑みした。


 エルストにしてみれば、自分が推薦できる皇王の候補がいないのだ。そしてライシュが皇王となるよりはまだフロイトスの方がましである。彼が摂政となり戦功褒章を行うのは予想外だったが、しかし今後の治世のためにも彼はエルストに最大限気を使ってくれるだろう。そう考えれば悪い話ではない。


 そしてライシュだが、彼にしてみれば目指していた皇王にはなれなかったことになる。だが摂政といえば、その権限は皇王のそれにほぼ等しい。期間が限られているとは言っても15年以上の時間があり、自らの才覚を試し年代記に名を残すには十分と言えた。


 このようにしてフロイトスが新たな皇王となることが決まると、その日の晩、ライシュとエルスト、それにカルノーの三人は久しぶりに集まって杯を酌み交わした。まずは三人、内乱を生き残りこうしてまた再び合えたことを喜び合う。


 それぞれが士官学校を卒業してからのことを話しているうちに、やがて話題は内乱の事になり、そしてつい先程行われたばかりの会談のことにまで及んだ。


「……と、まあそういう次第になったわけだ」


 ライシュがそう言って会談の内容を掻い摘んでカルノーに聞かせる。会談自体が短かったため、彼の話もまた簡潔である。


「いいのかい? 私にそんな事を教えてしまって」


「なに、すぐに公になることだ。構わんさ」


 少々皮肉気な笑みを浮かべながらそう言ったのはエルストである。彼の言うことは事実で、明日になれば末端の兵士であっても望めばその内容を知ることが出来るようになるだろう。


「それで、アーモルジュ殿だがな、家督をスピノザ殿に譲り隠居すると言っておられた」


「そう、か……」


 ライシュの言葉に、カルノーは落ち着いた様子でそう答えた。


「あまり驚かないな」


「師父は自分の歳を気にしておられたからね。予想はしていたよ」


「それで、アーモルジュ殿が隠居されたら、カルノーはどうするつもりだ?」


「お一人で生活されるわけではないだろうからね。傍においていただくつもりだ」


 わずかに逡巡することもなく、カルノーはそう答えた。彼のその答えを聞いて、ライシュとエルストはさすがに顔色を変える。


「本気か?」


「そうだ、なにもお前まで隠居することはないだろうに」


 二人は続けざまにそう言ったが、カルノーただ穏やかに微笑んで首を横に振る。彼の決意は固く、これを翻意させるのは難しい。付き合いの長い二人はすぐにそれを悟った。


「まったく、お前は頑固だな」


「そうかな?」


「ああ、そうだとも。どうしようもないくらいに頑固だ」


 三人はそう言って笑いあった。とはいえ二人、特にライシュのほうはカルノーが隠居してしまうのを諦めたわけではない。有能なこの友人が埋もれてしまうのは、皇国にとって大きな損失だろう。加えて彼自身、摂政になるからには有能で信頼できる臣下が欲しかった。


 ライシュはアーモルジュに接触した。そしてカルノーがどうするつもりであるかを話し、彼を直臣にしたいと言った。それを聞くと、アーモルジュは穏やかに微笑んでただ一言「お任せします」とだけ答えた。


 こうして本人の知らないところでカルノーの出世が確約されたわけだが、ライシュもアーモルジュもそれを本人に教えてやるつもりはなかった。教えれば必ずやごねると分かっていたからである。


 さて、三者会談が行われてからおよそ2週間後の9月の末、略式ではあるが新皇王フロイトス・エルフルト・グラニア・アルヴェスクの戴冠式が行われた。こうして彼は皇国史上でも稀な、二度の戴冠を行った皇王となった。なお、正式な戴冠式は後日また改めて行われる予定である。


 フロイトスが新たな皇王となると、すぐ彼の名前で勅命が出され、ライシュハルト・リドルベル・アルヴェスクが摂政に任じられた。そして彼が摂政となって最初に行った仕事は、先の内乱における戦功褒章であった。


 戦功褒章は謁見の間で行われ、粛々と進められた。進行役の役人が一人ずつ貴族や代官らの名前を呼び、ライシュがあらかじめ決めておいた恩賞を言い渡す。勲章があれば手ずからつけてやり、新たな役職への辞令であればその旨が記された辞令書が手渡された。


 この褒章において新たな領地を授けられたのは、わずか二名だけだった。その二名とは、エルストロキア・レダス・ロト・アルクリーフ公爵とアーモルジュ・ヨセク・ロト・カディエルティ侯爵である。この二人はそれぞれ2州を新たな領地として賜った。これによってアルクリーフ公爵家の領地は全部で14州となり、カディエルティ侯爵家の領地は10州となった。


 ただし、恩賞を授けるにしても、そこに様々な意図が絡むのが政治というものである。そしてこの二人の場合は特にそれが顕著だった。


 まずアーモルジュだが、カディエルティ領はこの新たな2州によってクシュベガと国境を接するようになった。クシュベガの略奪隊が皇国の領地を荒らすことは建国以来度々あり、つまりライシュは新たな領地とひきかえにその対応の責任をカディエルティ侯爵にも負わせることにしたのである。


 そしてエルスト。彼が得た新たな領地は何と飛び地だった。つまり、もともとの領地と新たな領地は境を接していないのである。


 なぜライシュはエルストに与える領地を飛び地にしたのか。そこには複数の理由がある。まず、この領地は元々は別の貴族の領地だったのだが、フロイトスが最初に戴冠したときの内乱の際に近衛軍によってその貴族は滅ぼされ、領地の方も少なからず被害を被っていた。その復興を、ライシュはエルストにやらせるつもりだったのである。


 さて、飛び地であって何が困るのか。統治に困る、ということはない。代官を派遣するなりすればいいからだ。領軍を動かすにしても、それが正式な命令によるものであれば、何の不都合もない。だから困るのは正式な命令なしに領軍を動かし、結集させようとした場合である。ライシュはこれを警戒していた。


 討伐軍との決戦において、北方連合軍が救援に来なかったことは、ライシュの中で小さいがしこりになっていた。エルストが北方連合軍を動かさなかったのは、ホーエングラムとライシュを潰し合わせて、自らが皇王となるためではないのか。そして彼はその野望をまだ捨ててはいないのではないか。


 その懸念をライシュは口にしない。口にはしないが、エルストに与える新たな領地を飛び地とすることで無言のまま牽制した。


 アーモルジュもエルストも、ライシュの思惑はおおよそ察していたはずだ。それでも二人は粛々と新たな領地を賜った。少なくとも、それによる利の方が大きいのは確かなのだ。


 それで、この二人以外の者たちに対する恩賞だが、ライシュはそれをすべてお金や物品、地位や名誉で済ませた。そのことを不満に思う者もあるいはいたのかもしれないが、リドルベル辺境伯家さえも新たな領地は得なかったことでその不満が表に出ることはなかった。


 尤も、辺境伯家や西方の貴族たちにとっては多少事情が異なる。なにしろライシュは摂政になったのだ。今もらえる恩賞が多少少なくとも、今後彼に便宜を図ってもらうことができるだろう。それによって生まれる利益は、ともすればここで貰える恩賞よりも大きい。だからわざわざここで不満を表に出す必要はなかったのだ。


「最後に、この者を賞さねばならない」


 最後にライシュはそのようなことを言い出した。彼のその言葉に反応して、群臣たちに小さなざわめきが生まれる。褒章が授けられるべき者は、もう残っていないように思えたからだ。そのようなざわめきを鎮めるかのようにして、ライシュはその名を呼ぶ。


「カルノー・ヨセク・オスカー。前へ」


 突然名前を呼ばれ、カルノーは驚いた。彼は確かに手柄を立てたかも知れないが、しかしそのことへの褒章は、すべてアーモルジュに対して与えられているはずである。そしてアーモルジュから彼に恩賞が与えられる、というのが本来の筋であるはずだった。


 しかし名前を呼ばれた以上、ともかく前に出なければならない。そうしなければ不敬であるし、またアーモルジュの顔にも泥を塗ることになる。戸惑いを抱えながらも、カルノーはライシュの前に進み出て片膝をついた。そんな彼に対し、ライシュはこう言った。


「カルノー・ヨセク・オスカー。貴官の功績はまことに大きい。よって貴官を我が妹、ジュリア・ルシェク・アルヴェスクの婚約者として認める。さらにこれに伴い、〈ロト〉の称号を名乗ることを許し、子爵位を授けるものとする」


 ライシュがそう宣言すると、大きなざわめきが起こった。これによってカルノーは皇王の、有体に言えばライシュの直臣となった。貴族となり、子爵位まで授けられ、その上摂政の妹の婚約者だ。将来は保証されたようなもので、本人にとっては喜ばしいことこの上ないだろう。だがもともとの主であるアーモルジュからしてみれば勝手に家臣を引き抜かれたのであり、面子を潰されたに等しい。


 ざわめきが起こる中、カルノーもまた混乱していた。というより、彼が一番混乱していた。まさかこのようなことになるとは思っても見なかった。色々なことが頭の中を駆け巡り、どう答えていいものか咄嗟に判断できない。


 カルノーが言葉を失っていると、パチパチパチという拍手の音が響いた。まかり間違えばアーモルジュの顔に泥を塗る行為だ。一体誰が、と思いカルノーはわずかに首を捻ってその人物を探す。


(な……! 師父……)


 思わずカルノーは目を見開いた。穏やかな笑みを浮かべて手を叩いていたのは、他でもないアーモルジュ本人だったのである。つまり彼はこのことに抗議するどころか、真っ先に認めて祝福しているのだ。そのことに気付いた周りの貴族たちも、それに追従するようにして手を叩き始める。やがて、謁見の間は万雷の拍手に包まれた。


「さあ、カルノー。この話、受けてくれるか?」


 その声を聞いて、カルノーはライシュを見上げた。彼は得意げな笑みを浮かべていた。その笑みを見て、カルノーはこう思った。


(してやられた……)


 ライシュはカルノーがアーモルジュと一緒に隠居してしまうことを、良しとはしていなかったのだ。そしてそれを防ぐために、彼を貴族にしてしまった。事前にアーモルジュに話を通しておけば、彼の面子を潰すこともない。


「……謹んで、お受けいたします」


 ここまで外堀を埋められてしまったのだ。カルノーとしてはそう答えるしかない。ここで断ればライシュのみならず、真っ先に祝福してくれたアーモルジュの面子まで彼自身が潰すことになる。カルノーにとってそれは禁忌とも言うべきことだった。


 カルノーがこの話を受け入れたことで、謁見の間はさらに大きな拍手に包まれた。その拍手の中、ライシュは満足げに一つ頷く。そんな彼の笑顔を、カルノーは初めて小憎たらしく思った。



□■□■□■



 戦功褒章が行われたその日の夜、宮廷の大ホールでは祝勝のパーティーが催されていた。なお、フロイトスの戴冠を祝うパーティーは、正式な戴冠式を執り行う時に盛大に催される予定である。


 このパーティーには無論、カルノーも出席していた。というより、主賓の一人だった。だれもが摂政となったライシュの妹ジュリアの婚約者である彼と誼を得たいと思っていたのだ。


「子爵殿の挙げられた戦功は実に大きい。大将首こそジュリア殿下にお譲りしたが、討伐軍を壊滅させたのは、間違いなく彼の勲だ」


「さよう。さすがはアーモルジュ殿の弟子と言うべきであろう。その才覚は、もはや疑いない」


「その上、ジュリア殿下の婚約者だ。将来的には近衛軍の一軍を任せられるか、ともすれば大将軍と言うことも有り得るのではないか」


「ライシュハルト殿下とは士官学校時代からのご学友で、さらにはアルクリーフ公爵とも交友があるとか」


「何にせよ、摂政閣下の右腕となることは間違いない」


 そのような話がいたるところで聞かれた。なんにせよ、カルノーの将来が約束されているのは万人の共通認識だった。


 とはいえ、カルノー本人にしてみればそのような将来のことより、今この場を乗り切ることの方がはるかに重要でまた難題だった。彼は今までほとんど無名だったから、このようにして大勢の貴族たちに囲まれることなど初の体験である。言葉尻を捕らえられぬよう、また不用意な言質を取られぬよう、神経をすり減らしながら彼は言葉を選んで発した。


 挨拶に訪れる人の波が一段落すると、彼はバルコニーに出て夜風に当った。9月の末ともなれば、夜の風はもう冷たく感じる。ただ、その冷たさが今は心地よかった。


「おやおや、オスカー子爵におかれては、美しい婚約者を放り出し、このような場所で一人夜涼みとは。英雄ともあろうお方が、少々情けなくはありませんか?」


 随分と辛辣な言葉を、冗談めかした口調で、美しい声が謳いあげる。それを聞いてカルノーは苦笑しながら後ろを振り返り、そしてこう言った。


「……こういう場は不得手なのですよ。それに英雄は貴女のほうでしょう、ジュリア姫。ホーエングラムを討ち取られたのですから」


「ふふ、わたしは慎ましい姫君なのでな。婚約者殿を立てることにしているのじゃ」


 得意げな顔でそう言ってから、やはり可笑しかったのであろう、ジュリアは声を上げて笑い始めた。それを見て、カルノーもまた笑う。


「……それにしても、兄上の言うとおりであったな」


「ライが何か言っていましたか?」


「うむ。婚約者殿の姿が見えなかったのでな。兄上に聞いてみたら、『きっとバルコニーにでも逃げ込んでいるのだろう』と」


 それでここへ来て見たら案の定、と言うわけだ。以前にも同じようなことがあったことを思い出し、カルノーは「自分のことながら成長がないな」と苦笑した。


 それからカルノーとジュリアはバルコニーの縁に二人で並んで立った。夜風をうけてジュリアが「気持ちのよい風じゃ」と小さく呟く。


 この女性が自分の婚約者となったことについて、カルノーの中ではまるで実感がない。話が決まってからまだ一日も経っていないのだから当たり前なのかもしれないが、ともかく色々なことがありすぎて自分の中でさえ整理がついていない状態だった。


「のう、婚約者殿……」


 しばしの沈黙の後、ふとジュリアがそうカルノーに話しかけた。その少し不安げな声を意外に感じたのは、戦場で見た彼女の姿があまりにも鮮烈で深く印象に残っていたからなのかもしれない。


「どうかしましたか、姫?」


「婚約者殿は、兄上のことをどう思っている……?」


「王者の器を持つ男だと思っていますが」


「そう、か……」


 カルノーの答えを聞くと、ジュリアは少しだけ悲しげな顔をした。そしてその表情のまま、視線をカルノーのほうに向ける。


「わたしは、一度だけ、兄上が泣くのを聞いたことがある」


 そう呟くジュリアの声音は、まるで罪の告白をしているかのようだった。


 それはレイスフォールがリドルベル辺境伯領を訪れたときのことであったという。その日の晩、ジュリアはベリアレオスを交えて家族で食卓を囲んでいた。だが、そこにライシュの姿はない。そしてその頃のジュリアは、もうその意味を理解できるようになっていた。


 談笑しながら食事を楽しんでいたある時、その部屋の外(その部屋の外は庭になっていたのであるが)から大きな泣き声が聞こえてきた。それはジュリアが初めて聞く兄ライシュの泣き声だった。


『狼が、鳴いておりますな』


 そう言ったのはベリアレオスだった。静かで、穏やかな声だった。それに対し、「いや、違うな」と応じたのは、他でもないレイスフォールだった。


『これは獅子であろう。これは獅子の鳴き声だ』


 レイスフォールはそう言った。そして、さらにこう続けたという。


『成長した雄の獅子は、生まれ育った群れを離れ、自らの群れを求めて彷徨うという。その時、孤独に声を上げて泣くこともあるだろう。だが、それを乗り越えてこそ、強くなって獅子は自らの群れを持つのだ。この獅子も、いずれは立派な群れを持つのであろうな』


「……婚約者殿は、兄上が王者の器を持っていると言った。恐らくは、その通りなのであろう。でもそれが兄にとって幸せなことだったのか、わたしには分からない」


 ライシュは皇王になれなかった事を、恐らく胸のうちでは無念に思っている。だがジュリアは彼が皇王ではなく摂政になると聞いたとき、それを残念とは思わずむしろ良かったと思った。


 ライシュはレイスフォールの背中を追いすぎている。才覚がなければ追うことはできなかったのだろうが、しかしライシュはカルノーが言うとおり王者の器を持っていた。だが、もう死んでしまった人間の背中を追いかけても、たぶん幸せにはなれない。


「婚約者殿……。兄上を、支えてやって欲しい。あの人はきっと……」


 そこまで言って、ジュリアは言葉を探すようにして俯いた。


「私がどこまで力になれるか分かりませんが、力の及ぶ限り兄上をお支えしましょう。ライは私の友人ですから」


 カルノーはジュリアの肩に手を置きながらそう言った。そして、その肩の細さに少し驚く。


「そうか……」


 ジュリアはそう言うと、安心したかのように笑顔を見せた。そして少し頬を染めて恥ずかしそうな顔をすると、若干カルノーから視線を逸らして彼にこう尋ねた。


「そ、それで婚約者殿。わ、わたしの装いは、ど、どうであろうか……?」


 そう言って一歩下がるジュリアを、カルノーは思わずまじまじと見てしまった。


 銀色の美しい髪の毛は、きれいに結われている。身に纏うのは、淡いすみれ色のドレスだ。露出は控えめで、華美というよりは上品な雰囲気である。耳には、ダイヤモンドであろうか、透明な石のイヤリングが輝いている。


「……よく、お似合いだと思いますよ。お美しいと思います」


 ようやくカルノーはそれだけを言葉にした。もう少し女性を褒める言葉の語彙を増やしておけばよかったと思うが、今はもう手遅れである。今後の課題とすべきだろう。しかしジュリアはそのことで気を悪くしたりはしなかった。


「そ、そうか! いや、こういう格好をする機会は、今まであまりなかったのでな……」


 皇族の姫なのだからドレスぐらい着慣れているのではとカルノーは思ったが、すぐに自分の思い違いに気付く。ジュリアはずっとリドルベル辺境伯領にいたのだ。ライシュから聞いていた話の限りでは慎ましく暮らしていたようだし、こういう機会がなかったというのは本当なのだろう。


 しまったな、とカルノーは思う。不慣れなジュリアをエスコートすべきで、バルコニーなどに逃げ込んでいる場合ではなかった。遅きに逸しているのは否めないが、今からでもなんとか巻き返しは出来るかもしれない。


「姫、一曲踊っていただけますか?」


 カルノーがそう言って手を差し出すと、ジュリアは一瞬呆けたような顔をした。だがすぐに嬉しそうにはにかむ。


「喜んで」


 そう言って、ジュリアはカルノーの手を取った。



 第一話 -完-



というわけで。

アルヴェスク年代記第一話「野心の目覚め」、いかがでしたでしょうか?


第二話は書きあがってから投降するつもりです。

何時になるか分かりませんが、気長にお待ちくださいませwwww

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