野心の目覚め13
――――意外と、普通の男だ。
一緒に食事をしているカルノー・ヨセク・オスカーという男を観察するジュリアは、そんな感想を抱いた。
ジュリアがホーエングラムの首を討ち取った後、カルノーは彼女と一緒に西方連合軍の総大将であるライシュハルトに会いに行き、そして彼に自分達の戦いについて一通りの説明をした。さらにアーモルジュからの手紙を手渡すと、カルノーはライシュから食事に誘われたのである。
彼らが食事をしているのは、とある天幕の一つだ。その天幕の中にいるのは、ライシュとカルノー、それにジュリアの三人だけである。ライシュはベリアレオスも誘ったのだが、彼はそれを笑って固辞した。
『私がいては堅苦しくなるでしょうからなぁ』
彼はカルノーの方を見ながら笑ってそう言った。友人同士の久しぶりの再会に、無粋な真似をしたくなかったのだろう。
『カルノー、こいつめ! おいしい所を掻っ攫って行きやがって!』
天幕の中に入ると、ライシュはいきなりそう言ってカルノーの首に腕を回した。先程までとは違い、随分と気安い態度である。
『で、殿下がご無事でなりよりです』
『おいおい、カルノー。周りに人目がないときくらい、その堅苦しい言葉遣いは止めろ』
『いえ、ですが……』
『止めろと言っているのが聞こえんのか? んん?』
ライシュはそう言って意地悪げな笑みを浮かべながら、カルノーの首に回した腕に力を込める。首が絞まり、カルノーは思わず「ぐえ」と情けない声を上げた。
『ジュ、ジュリア殿下が、おられますよ』
『ん? ああ、こいつはいい』
『なんですか、兄上。その扱いは』
そう言ってジュリアは不満そうな顔をしたが、ライシュは楽しげに笑うばかりである。そうこうしている内に料理が運ばれてきて、三人はそれぞれ席についた。天幕の外からは早くも楽しげな喧騒が聞こえてくる。テムタス川の東側にいる兵たちも同じように楽しんでいるはずで、無論、カルノーが率いてきたカディエルティ領軍の兵士たちにも上等な食事が振舞われている。
『カルノー、何度でも言うが、本当に助かったぞ。お前が来てくれなければ、今ごろこの首はホーエングラムの手の内にあったかも知れん』
『来るだけなら、随分前に来ていたんだけどね。機を伺っていたら、動くのが遅くなってしまった』
『なに、お前が絶妙な時に動いてくれたからこその大勝だ。お前の判断は正しかった、と言うことだ』
ライシュとカルノーはそんなふうに言葉を交わした。ジュリアはそんな二人の会話をまずは静かに聞いていた。
「……そう言えば、ロキの動きについて何か知らないか?」
二人がそれぞれ一杯目の杯を空にしたころ、ライシュはカルノーの杯に赤ワインを注ぎながら彼におもむろにそう尋ねた。
「詳しくは知らない。ただ、どうやら東へ動いているようだった」
「東……。ギルヴェルスか……」
大陸の地図を頭に思い浮かべながら、ライシュはそう言った。エルストの妻のアンネローゼは、現在のギルヴェルス国王の孫姫だ。だから、協力を求める相手としてギルヴェルスを選ぶのは、決して間違った選択ではない。
「ロキのことだ。ギルヴェルスの国軍を招き入れるような真似はしないと思うが……」
「北部の安定を重視した、ということだろうね」
「ふむ、あいつらしからぬ慎重策のような気もするな」
そう言ってライシュは顎を撫でる。エルストがギルヴェルスに接近していたということは、ライシュが彼に持ちかけていた協力と連携の話はなおざりにされていた、と言うことでもある。そのこと自体は結局のところ選択の問題でしかないので、それはそれでいい。だが、エルストが何を考えてその選択をしたのか、気になるところではある。
「事がことだから、軽々に動くわけにも行かなかったんだろう」
「まあ、そうなのだろうな」
ライシュはそう応じた。そして、注いだ二杯目の赤ワインを少しだけ口に含み、それから話題を変えてこう言った。
「ところで、カルノーは結婚しないのか?」
「また随分話が飛んだね……。考えていないし、そもそも相手がいないよ」
カルノーは苦笑しながらそう答える。彼は騎士家の三男で、つまり家を継ぐ立場にはいない。それなりに収入があるので家庭を持つことは十分に可能だが、しかしそのことに義務感めいたものなど少しも感じていない。それどころか、頭の片すみでは一生独り身でも構わないとさえ思っていた。つまるところ、自身の結婚について彼はさほど重要視していなかったのである。
「だが、これほどの活躍をしたのだ。ともすればどこぞの貴族の家から、婿養子の話があるかも知れんぞ?」
手柄を立てたり、あるいは出世したりした騎士を、跡取りのいない貴族の家が婿養子に迎えて家を継がせる、というのは決して珍しい話ではない。そしてたった1000騎で討伐軍45万に致命的な痛打を与えたカルノーを、婿養子にするか、あるいは一族の中に取り込みたいと思う貴族は多いだろう。
「私は師父のために働くよ。それだけは、これからも変わらない」
肩をすくめながら、カルノーは軽い調子でそう言った。だが、そこに込められた決意は重い。そのためならば自身の栄達など幾らでも投げ捨てると、彼はそう言っているのだ。学生時代と変わらない彼のその物言いに、ライシュは「やれやれ」と言わんばかりに苦笑を浮かべた。
「変わらんな、お前も」
「私はともかく、ライの方はどうなんだ? マリアンヌ夫人とは上手く行っているのか?」
「うむ。一昨年だが、子供も生まれたぞ」
男の子で、ジュミエルと名付けたと言う。ライシュが〈アルヴェスク〉の名を名乗っている以上、言うまでもなくこの子も皇族である。ライシュが皇王の座に着けば、皇位継承権第一位となるのはこの子だった。
「可愛い盛りですよ。何しろ、兄上には似ておりませんから」
ジュリアがしれっとそう言うと、ライシュとカルノーは揃って笑い声を上げた。楽しい夜は、こうして過ぎていく。
その日の夜、ライシュは「天幕を用意するから泊まっていけ」と言ったが、カルノーはそれを断って自分の部隊に戻った。そして次の日、ライシュからアーモルジュに宛てた手紙を受け取ると、カルノーは東に進路を取った。向かうのはアーモルジュがいるであろう、皇都アルヴェーシスである。
皇都に到着したカルノーは、まず周辺に宿営を張っているカディエルティ領軍のところに顔を出した。宿営を預かっている将に帰還の報告をして、それから皇都に入って宮廷にいるアーモルジュの所へ向かう。
案内されたのは、かつてアーモルジュが宰相であった頃に執務室として使っていたという部屋だった。現在、彼はフロイトスの名代としてアルヴェスクの政を取り仕切っているのだと言う。
「おお、カルノーか! 遅くなっているので心配しておったぞ」
カルノーの姿を認めると、アーモルジュは笑顔を浮かべながらそう言った。そんな師に対し、カルノーは片膝をついて臣下の礼を取る。
「ご心配をお掛けし、申し訳ありません。ですが、つつがなくお役目を果たすことが出来ました」
「そうか。それは重畳じゃ」
「つきましては、ライシュハルト殿下から御館様に宛てた書状を預かってきております。どうぞ、お納めください」
そう言ってカルノーはライシュから預かった書状をアーモルジュに渡した。その書状を読んでから、アーモルジュはカルノーの報告を聞く。弟子の報告を聞くと、彼はどこか呆れたような笑みを浮かべた。
「そうか、大勝したか」
「はっ。ジュリア殿下が、見事ホーエングラムを討ち取られました」
残った討伐軍の兵士たちも、逃げるか投降するかした。45万を誇った討伐軍は事実上崩壊したといっていい。まだ皇都の北にあるブラムゼック砦に5万の兵が残っているが、こちらはホーエングラムの死を知れば降伏するだろう。
「ご苦労であった。別命あるまで、ゆっくりと休むが良い」
「はっ、失礼いたします」
そう言ってカルノーはアーモルジュのもとを辞した。カルノーが部屋から出て行くと、アーモルジュはにこやかだった表情を少しだけ固くする。
(大勝して、しまったか……)
大勝したということは、多くの討伐軍兵士が、皇国の国民が死んだということである。勝ったことそれ自体はアーモルジュも嬉しいが、同国民の血が多く流れたことを無邪気に喜ぶ気にはなれなかった。
(なかなか思うようにはいかんものじゃ……)
アーモルジュが思い描いていた最上の筋書き。それは次のようなものだった。
まず、アザリアスを討ち、さらに討伐軍の輜重を狙ってこれを乾上らせる。その状態でホーエングラムが大罪人の一人であることを告発して、特にレイスフォールに忠誠心を抱いている近衛軍の兵士たちの離反を誘う。そのようにして討伐軍を空中分解させた上でホーエングラムを討つ。
これがアーモルジュの思い描いていた筋書きであり、この筋書き通りに事が進めば流れる血の量は最小限で済むはずだった。だが実際には多くの血が流れてしまった。
そのことについて、誰が悪いと責める事はもうできない。責められるべきはホーエングラムであり、彼はもう死んでしまっているからだ。アーモルジュに出来るのは、この先更なる血が流れることのないよう全力を尽くすことだけだった。
「急ぎ、北に使者を送らねばならんな」
北とはつまり、北方連合軍率いるエルストのことである。アザリアスを討ち取ったことは伝えたのだが、今のところ動きはない。恐らくはホーエングラムのことを気にしていたのであろうが、彼もこの度死んだ。今のこの内乱状態を早急に収めるためにも、早く北方連合軍を解散させねばならない。そのためには、一度エルストに皇都まで来てもらう必要がある。
同じことがライシュにも言える。そしてアーモルジュ、ライシュ、エルストの三名でこの国の将来について話し合うことになる。ライシュは受け取った書状の中で「戦の事後処理が終わり次第、急ぎ皇都へ向かう」と書いてあったのでそれを待つことになる。そしてその間にエルストにも使者を送り、彼にも皇都に来てもらわねばならない。
アーモルジュは急ぎ書状をしたためると、それを参謀の一人に持たせ、10騎ほどの護衛をつけて彼をエルストのもとに送った。北方連合軍の陣中でその書状を受け取ったエルストは、それを読み終えると表情を変えることなく「近いうちに皇都に赴かせていただく」と答え、その旨を記した書状をしたためて使者に手渡した。
天幕の中で一人になると、エルストは寝台を背もたれにして足をだらしなく投げ出して座り、右手で額を押さえ喉の奥を鳴らして笑った。そして思わずこう呟く。
「やれやれ、これにて万事おしまいか……」
いささか策を弄しすぎたかもしれない、とエルストは思う。ただなんにしてもアザリアスとホーエングラムが死んだ以上、北方連合軍を組織しておくだけの大義名分を彼は失った。これ以上は彼自身が簒奪者と呼ばれかねない。ここが潮時だった。
内心の失望がどれだけ深かろうとも、エルストはこの引き際を見誤らなかった。すぐに北方連合軍を構成していた貴族や代官たちを解散させ、彼らの軍勢をそれぞれの領地に帰らせた。これはライシュもまた同じであり、こうして北方連合軍と西方連合軍はそれぞれの役目を終えたのである。
ただし、これはあくまでもひとまず、だった。なぜなら解散させた貴族や代官たちの軍勢はそれぞれの領地でまだ臨戦態勢にあり、大将が一声かければまたすぐにでも出陣が可能な状態を保っていたからである。これは、これから皇都で行われる話し合いにおいて少しでも主導権を握り、自分たちに有利な結論を引き出すための圧力であり、また駆け引きだった。
まあそれはともかくとして。エルストもまた、自身の領軍を率いてアルクリーフ公爵領へとひとまず戻った。屋敷に戻ってきた彼を真っ先に出迎えたのは、彼の妻であるアンネローゼだった。妻の姿を見ると、エルストはすぐに彼女の変化に気がついた。
お腹が、大きくなっている。驚いたように目を見開く夫の視線に気付くと、アンネローゼは自分のお腹を優しくさすりながら蕩けるような笑みを浮かべた。そんな彼女を、エルストは優しく腕に抱く。
「身篭ったか」
「はい、身篭りました」
「でかした。でかしたぞ、アンネローゼ」
そう言ってもう一度アンネローゼを抱きしめてから、エルストは彼女の肩を抱きながら屋敷の中に入った。
甲冑を脱ぎ、風呂に入って汗と埃を洗い流すと、エルストは食事を取った。妻と一緒に食べる、久方ぶりの食事である。その食事の席で、アンネローゼは彼の杯に白ワインを注ぎながらふとこう尋ねた。
「……それで此度の一件、エルスト様はどのようにお考えなのですか?」
「慎重にやりすぎて獲物を掻っ攫われた、と言ったところだな。もう少し大胆に動いても良かったかも知れん」
辛い批評とは裏腹に、エルストは楽しげな口調でそう言った。彼の言葉を聞くと、アンネローゼは「まあ」と言って、さらにこう尋ねた。
「では、エルスト様が動かれたのは無駄だったのでしょうか?」
「いや、そんなことはない」
反アザリアスの旗を掲げて最初に起ったのはエルストである。そのことにはやはり大きな意味がある。また彼は北方連合軍と言う一つの大きな勢力を纏め上げたのだ。これを無視して今後の皇国を語ることは出来ないだろう。つまりエルストとアルクリーフ公爵家は、今後アルヴェスク皇国において更なる発言力と影響力を持つことになる。
「ですが、エルスト様が望んでおられた成果は得られなかったのでしょう?」
「まあ、そうだな」
苦笑しながらエルストはそれを認めた。最も欲しかった最大の成果は結局手に入らなかった。しかしエルストは悔しさを見せずにこう言った。
「なに、さしあたってはにすぎん。またそれを狙う機会もあるだろうさ」
エルストがそう言うと、アンネローゼは嬉しそうな笑みを浮かべた。そして、ふと思いついたと言わんばかりにこう尋ねる。
「では、次の皇王には誰がおなりになるのでしょう?」
「間違いなく、フロイトス殿下だな」
エルストはそう断言した。内戦を終結させるに当たり新たな皇王を選ぶことになるわけだが、その席ではやはりアザリアスを討ち取ったアーモルジュの発言力が最も大きい。そして彼はフロイトスを推すだろう。彼が簒奪者と呼ばれないために立てた旗がフロイトスだからだ。筋を通すためには、彼を推すしかない。
(問題は……)
エルストにとって問題なのは、誰が皇王になるのかではなく、ライシュがどれほどの影響力を持つようになるのか、である。ともすればアルクリーフ公爵家が霞むかもしれない。エルストはそんなことさえ考えていた。
(まあ、なるようになる、か……)
内心でそう呟き、エルストはそれ以上考えるのを止めた。そして視線をアンネローゼのほうに向けてこう尋ねた。
「子供の様子はどうだ?」
「順調に育っております。最近ではお腹を蹴るようになりました」
優しげな笑みを浮かべてお腹を撫でながら、アンネローゼはそう答えた。そして「触ってみますか」とエルストに尋ねる。彼が妻のお腹に手を当ててみると、ちょうどその内側から小さな衝撃があった。
「まあ、やはり分かるのでしょうか?」
「さて、な。嫌われてしまったのかも知れん」
エルストが冗談めかしてそう言うと、アンネローゼはクスクスとおかしそうに笑った。そんな妻の姿を見ながらエルストは思案する。子供が生まれたらどうするのかを。男の子であった場合、女の子であった場合。それぞれを頭の中で考える。
「そうだ、名前を考えておかねばならんな」
「是非、エルスト様がつけてください」
「ふむ、そうだな。では男の子であれば私が名付けよう。女の子であれば、アンネローゼが名付けるといい」
「よろしいのですか?」
アンネローゼは少しだけ目を見開いて驚いた。多くの場合、子供の名前を考えるのは当主の役目だからだ。そして貴族の場合はこの傾向が一層強いといえた。だがエルストは彼女にこう答える。
「ああ、かまわんさ」
「では、素敵な名前を考えておきますね」
そう言って、アンネローゼは微笑んだ。