『湖面の月』 最終回
五
勘七郎は伝令の声を聞いて飛び起きた。
勘七郎は周囲を見回すと、すぐに状況の異常さを感じ取った。砦の中は混乱の様相を呈し、兵士は皆右往左往するばかりで統制が利かないようであった。
「馬鹿な!」
佐久間盛政の怒号が、事の重大さを物語っていた。
なんでも、羽柴秀吉の部隊が大岩山砦の足下まで迫っているという。だが、羽柴秀吉は神戸信孝と一戦を交えるため、大垣にいるはずであった。その秀吉の部隊が大岩山砦の足下、木之本に現れたというのである。それは全く想像を絶することであった。
このままでは秀吉に包囲されてしまうため、盛政の部隊は陣払いして下山することとなった。併し、月が雲に隠れてしまったためか、夜の行軍は遅々として進まず、山を下るにも相当の時間を費やしてしまった。
勘七郎は山を下る最中、三造の姿を探した。山中は暗く、容易に見付かりそうもなかったため、真先に下山して余呉湖の際で後続を待つこととした。すると、余呉湖の湖畔に、三造の姿を見付けた。三造は、じっと湖面を眺めていた。勘七郎には、三造が何を見て、何を考えているのか分からなかったが、その異様さだけはよく分かった。
空が白み始めた頃に下山は完了し、そのまま柴田勝家の本隊と合流するべく余呉湖の西岸を北上していった。すると、そこへ空になった大岩山砦を占領した秀吉の部隊が、勢いそのままに下山して迫ってきたのである。盛政は撤退しつつこれを迎え討った。
盛政は二つの部隊を巧み用いて応戦した。まず一隊が交戦し、頃合を見て撤退する。敵が近付いたかと思いきや、繁みに隠しておいたもう一隊が鉄砲を浴びせ、ばたばたと倒れたところに殺到し、六、七人突いてさっと撤退する。秀吉の部隊がそれを追うと、今度は先程の一隊が繁みから鉄砲を浴びせ、同じように六、七人突いて退いていく。戦上手で知られた盛政の真骨頂、撤退戦の絶技、抜き槍という戦法である。これには流石の秀吉も舌を巻いたのか、ついには誰も盛政の部隊を追ってはこなかった。
勘七郎は、その一隊に属して目覚しい槍働きをした。周囲の味方が六、七人突いて退く中、勘七郎はさらに二、三人突いてから退いていくのである。併し、勘七郎の目に、敵兵の姿は映っていなかった。
「三造! 三造!」
敵兵を討つ中で、勘七郎は三造を探していたのである。勘七郎は三造を湖畔で見て以来見失っていたのであるが、戦ともなれば三造は必ず自分と同じように前に出るだろうと思っていた。そうであるからか、他の者が六、七人突いて退いていくにも関わらず、勘七郎は三造を探すために前に出て敵を討っていたのである。だが、三造の姿を見付けることはできなかった。
悠々と後退する中、事態は一変した。盛政の部隊が手強いと見た秀吉は、すぐに標的を柴田勝政の部隊に切り替えた。余呉湖の西岸で丹羽長秀を押さえている部隊である。秀吉と長秀の部隊に挟撃されては一堪りもない。盛政は、すぐに転進して秀吉の部隊へ突撃を開始した。だが、多勢に無勢、兵力の差は如何ともし難く、徐々に形勢は悪くなっていった。
そこらかしこで死闘が繰り広げられ、勘七郎も何人切ったか数え切れない程に戦い通していた。視界の隅では、副将格の拝郷家嘉の姿が見られた。拝郷、大刀を構えると、石川兵助を一刀の下に切り伏せ、加藤清正を弾き飛ばすも、福島正則、片桐且元、加須屋武則ら、名乗りを挙げて一斉に飛び掛かり、ついには流石の拝郷も討ち取られてしまった。福島らは、拝郷を討ち取ったのは自分だと各々主張し、戦の最中にも関わらず首を取り合って争っている。五人掛かりで向かっていき、功名を取り合って醜い争いを繰り広げる。その節操のない戦いを見せられて、勘七郎は辟易した。
「ああはなりたくないな」
一声漏らすと、面前の敵を切って駆け出した。
勘七郎の駆けた先に、三造はいた。半ば黒く変色した血槍を振るい、次から次へと敵兵を討っていた。
「三造!」
勘七郎が声を上げるも、三造は振り向かない。それどころか、目の前の敵を突き殺すと、血槍を握り締め、余呉湖に向かって突進していった。勘七郎は、その背中を眺めていた。そして、三造は二度と帰ってはこないだろうと思った。
勘七郎が三造を探していたのには理由がある。それは勿論、二人の儀式に関わることであった。
「死ぬなよ」
ただその言葉だけを、勘七郎は聞きたかったのである。併し、ついに勘七郎はその言葉を聞くことができなかった。
勘七郎は耳を澄ませる。
「前田利家が裏切った!」
どこか遠い場所でそのような声が響き、その言葉だけが勘七郎の耳に残った。
柴田勝家と羽柴秀吉の決戦は、柴田勝家の敗北で幕を閉じた。佐久間盛政は谷間を通って逃亡したが、土農によって捕らえられて秀吉の面前に引き出された。秀吉は盛政の手腕を高く評価していたため、盛政を捕らえた土農を盛政の前で斬首し、盛政を手厚く遇して配下になるよう説得した。併し、盛政は
「今若し、我に一国を与えるならば、何年か後には必ず立場を替え、今の我の如くその方を絡めとるであろう。いかで柴田の恩義を忘れ、その方如きに従うべきや」
と言って、首を縦には振らなかった。
「大紋、紅裏を付けたる大広袖の白帷子に香を焚き込めて賜りたい。一生の終わりに風流を尽くしたく存ずる」
これには秀吉も諦める他なく、盛政の望み通り豪華な装いを施して京中を引き回し、填島の地で盛政は処刑された。それが鬼玄藩と怖れられた武人の最期であった。
勘七郎については、歴史書に記載がある。佐久間盛政が撤退する最中、抜き槍の戦法で散々に秀吉を打ち破ったのであるが、その中で抜きん出て活躍した七人の名が挙げられている。青木勘七郎もその一人である。一番年若き青木勘七郎、血気にはやり逃げる敵をさらに数人突いて退いていく。その記載のみである。
勘七郎のその後については何の言及もない。三造に関しても同様である。両者とも、盛政の弟である佐久間安政に従って関東に落ち延びたのではないかと考えられるが、少なくとも三造にとっては、それは何の意味もないことのように思われる。