『湖面の月』 第四回
四
一向宗の残党を掃討するのに、天正九年の暮れまでかかった。又、柴田勝家の与力である佐々成政が越中に進攻し、上杉軍と激しい戦闘を繰り返した後、漸くその大勢を決して越中国を掌握したのも同時期のことであった。
天正十年(一五八二年)に入ると、長い間膠着状態であった毛利家と雌雄を決するため、信長本隊が中国地方へ兵を進めるという噂が広まっていた。そして、それはどうも真実であるらしく、北陸戦線を任された柴田勝家からも、積極的な攻勢を控えて防備に当たるという風な指令が飛んでいた。
――毛利を討てば、次は上杉だな。
三造の中では、そのような見通しであった。
そうであるためか、郷村に顔を出す機会は今を逃せば当分得られないだろうと思い、盛政に二、三日の暇を願い出たのである。すぐに許しが出たため、三造は馬に乗って金沢の町を出た。
村には久しく帰っていなかったため、おりょうに何か着物の一つでも持っていってやろうかとも考えたが、その役目は自分であってはならないと思い、考えを押し留めた。もう暫くの辛抱だ。三造はそのように思った。
時節は六月一日。初夏の風が四蹄の間を流れていく。薫風爽気を含み、鳥獣の遠声が響いている。長閑な午後の風光を愛で、気分も次第に良くなっていった。
――次のでかい戦で先駆けできたなら、その時はおりょうを嫁に出してやろう。いや、この場合は勘七郎に先駆けさせるべきか……いずれにして、でかい戦だ!
そのように思いながら、庄川の村へ入った。
村へ入って暫くすると、三造は村の様子がどうもこれまでとは違うものだと気付いた。いやにひっそりとしている。人煙も少なく、人が住んでいるとも思えない廃屋が幾つも見られた。三造は、何か嫌な予感がした。そして、その予感は的中していた。
叔父の家に着くと、すぐにその異変に気が付いた。叔父の家は半ば焼け落ちて、風雨の跡と化していた。三造は馬から降り、崩れた表戸から入って叔父の名を、おりょうの名を呼ぶも返事がない。裏手に回って同じように声を上げていると、初めて人の気配を感じた。幼い末の従弟と叔父であった。
「みんな死んじまった」
末の従弟は言う。
八月程前のこと、晩秋のとある日、村に正体不明の落武者達が現れた。旗指物はなく、どの部隊の者とも知れない風体の男達が何十人もの数で村にやって来たのである。身体は汚れきっており、敗走の途中である風であった。
その男達は村の人家を襲い、水食料を奪っていった。人家の中にいる者は抵抗しようとしまいと関係なしに切り殺された。末の従弟だけが難を逃れ、叔父は瀕死の重傷を負ったものの命は助かった。併し、それ以外の家族は全て命を落としてしまった。そう、おりょうも例外ではなかったのである。
三造は末の従弟から話を聞いているうちに、自分が何を聞いているのかすら分からなくなっていった。どこか別世界の話を聞いているようにも思え、現実のものとして理解が追い付かなくなっていたのである。何か遠い場所で末の従弟が、にいちゃん、にいちゃん、と呼ぶ声がしたように思う。気が付けば、三造は馬の背に揺られ、誰の姿も見られない街道を進んでいた。
やがて夜になり、辺りは暗い平原へと様変わりし、月が雲の隙間から現れては消えてを繰り返していた。そして、名も知らぬ湖の淵に辿り着いた。
湖畔には一つの建物があった。一見して廃屋と分かるそれである。そこに人が住んでいるとは思えなかった。併し、三造が廃屋に近付くと、家の中に明かりが灯った。三造は破れた障子窓から中を覗き込むと、そこにはおりょうがいた。そして、おりょうの横には、勘七郎の姿が。
勘七郎の前には料理が並び、おりょうが勘七郎の杯に酒を注いでいる。家の奥の方では子供が寝ている風であった。やがて、勘七郎が料理を平らげると、今度は勘七郎がおりょうに包みを手渡した。おりょうが包みを開けると、そこには色鮮やかな着物が収められていた。勘七郎はその着物を手に取ると、おりょうに宛がって見せる。おりょうはどこか恥ずかしそうに着物を羽織って見せ、勘七郎はおりょうを見て一つ二つ頷いていた。そのような光景を、三造は見ていた。
三造は目を閉じ、再び開くと、そこには暗闇が広がっていた。家の中に明かりはなく、人の気配も感じられなかった。三造は湖の方へ歩いていった。漣一つない湖の表を見遣る。そこで初めて、三造は己の心の内に気が付いた。
――そうだ、あれが俺の望んでいたものだったんだ。
廃屋の中にあった光景こそが、三造の求めていたものであった。そして、それが失われた今、三造の心中には空虚さ以外の何物も存在していなかった。村を襲ったのが上杉だろうと佐々だろうと、そのようなことはどうでもいいことのように思えた。怒りなどという感情はどこにもなかった。誰が生きようが、誰が死のうが、最早何の意味もないことであった。
三造の頭上では月が姿を現していた。併し、三造は夜空の月を仰ぎ見ることもなく、湖面の月だけをいつまでも眺め続けていた。
三造が城へ戻ると、城内は騒然としていた。信長様が、明智が、という声がそこらかしこから上がっていたが、そこにどれ程の意味があるとも分からなかった。ただ、近い将来、でかい戦が行われるであろうということだけが解った。併し、三造は、そのことに特別なものを何も感じなかった。