逃した魚の大きさ……「それでは、ごきげんよう」
反撃開始とばかりに意気込む彼らに、そこには予期せぬ展開が待っていた。
「悪いわね。何の準備も整っていないのに、央族食いを相手にする程、この体にもこの教団にも未練がある訳じゃないの。短い間だったけれど、これでお別れね」
微笑む景花ともう一人、いつのまにかそこには少女が立っていた。彼女は一歩前に出ると、景花を庇うように両手を広げてきた。
「全員の脱出が完了しました。私が盾になります。景花様はその間にお逃げください」
少女の言葉を聞いて、慌てて弓手が連絡を取るも、仲間の誰からも返信はなかった。
「うちの子達が、それだけ優秀だったということよ。本当にご苦労様」
景花は自分と同じ年の少女を、背中から抱きしめる。それからおもむろに、その手に刃物を渡した。
しかしそれは、包丁程度の小さな刃物。
途端、少女は渡された刃物を、自分の首元に当てる。いつでもその首を切れるように。
「この子は央族とは関係ない、普通の子よ。私の霊力で、人形になってもらっただけ。可哀想に。無関係のこの子が死んだら、さぞかしあなた達の寝覚めは悪いでしょうね」
すかさず少女は、刃物を持つ手にぐっと力をこめる。途端に一筋の血が流れ始め、彼らは全く動きが取れなくなる。
自らの血で服の襟が真っ赤に染め上がっても、少女は無機質な人形の顔で、ただずっと立っていた。
景花は人差し指で滴る血を、一すくい。
「それではごきげんよう」
景花はその指で、少女の背中に霊法陣を描く。たちまち少女の体から大量の血が噴出し、それが赤い霧となって、景花の姿を隠す。
「しまった! 木下と弓手は景花を」
全はすかさず飛び出し、膝から崩れ落ちる少女を抱きとめる。そしてすぐさま、少女にかけられた霊法陣を解呪する。
全は無事助かった少女を、そっと床に寝かせると、再び景花を目で追う。
赤い霧の中で景花は力印を組み、両の手に鋭い刃を作り出していた。最悪の視界の中、景花はその刃で二人に切りかかる。
景花の直接攻撃に、二人が一歩攻撃を退いたその隙。
そう、そのほんのわずかなタイムロスが、全てを終わらせるには充分だった。
景花は満面の笑みを浮かべると、両手の刃で自らの体を×の字に切り裂いた。景花の体から大量の血飛沫が噴出し、霧をより赤く染める。
今や闇にも似た濃さで、部屋中を覆う赤い霧、その中を抱かれるように、ゆっくりと景花の体は倒れていった。
あくまでも美しい、デスマスクを彼らに晒して、血の海に沈んでいった。
「ちくしょ~!」
予測できた結果だが、それでも全は悔しげに、拳を床に叩きつける。
判っていた、少女を助けられるのは、自分しかいない。そしてここでまともに景花と渡り合えるのも、また自分しかいないことも。
だからこそ景花は逃げるため、少女を使った。
少女を見殺しにできない自分の弱さを露見し、そこをまんまとつかれてしまったのだ。
こうも完全に出し抜かれたことに、全はほとほと自分が嫌になる。
「申し訳ございません。全様」
木下と弓手が謝ってくる。だがさっきの時点で、彼らが躊躇するのもまた、無理からぬこと。彼らに謝られ、全は更に気落ちする。
「謝るなよ。俺の方が悪かったんだから」
元央族の血流である全と違い、二人はあくまでも、霊力が強いだけのサポート要員でしかない。そもそも二人に景花と相対させた自分の命令こそ、無茶で無謀、更に無策の、単なる特攻作戦でしかなかった。
せめてもう数人、味方に人数がいたら、もしくは景花以外の誰かを、確保できていたら。
あの時点、景花は姿を見せることで、自らをおとりにしていた。彼女を追い詰めたと彼らが油断したその隙に、景花は裏で着々と行動を起こしていた。
弓手が仲間に送った念話を、彼女の部下が逆探知し、仲間の隠れ場所を全て見通されてしまったのだ。そして壁掛けを上からかけられた時、弓手の念話が一瞬途絶えた。そのため仲間が戸惑った隙をついて、景花の部下が彼らを襲った。
そうして彼女はまんまと、脱出の下地を作り上げたのだ。
央族がこの時代でも、新たな「杜」を作るために引き起こした、少女集団行方不明事件。
今回の一件で、彼女達は「杜候補」として、見事その手腕を発揮して見せた。次に会う時は、完全な「杜」として、間違いなく最前線で、全達に立ち向かってくることだろう。
敵は大いなる目的のために、着実にまい進している。その尻尾を掴みかけたというのに、逃した魚の大きさに、全はがっくりとする。
「全様。引き上げの準備に入りましょう。室長から撤退の命令が出ています」
未だ放心状態の全とは裏腹に、優秀な補佐の弓手は、てきぱきと事後処理に入っていた。いつのまにか、ゼロ号部隊の上司である「室長」とも、ちゃっかり連絡をとっていた。
「これ、俺が室長に報告するのか。間違いなく、殺されるな」
「鬼の花嫁」と呼ばれている室長を思い出し、全は思わず身震いする。
「もうダメだ。景花様は死んだ。全てが終わったんだ。ははははは」
何も知らない教祖だけは、血の海で眠る、元景花の死体を見て、涙を流しながら、狂ったように笑い始める。
だが知らないでいる方が、彼にとっては幸せなのだろう。
これから教祖は、この教団で景花が行った全ての犯罪行為に対し、その主犯者として裁かれるのだから。央族の存在を公表する訳にはいかない政府の、絶好のカモフラージュとして、全ての罪を被ってもらわなければならないのだから。
本当の彼女は死んでいないことなど、知らない方がいい。
例え一生出ることがかなわぬ牢獄の中でも、知らないでさえいたら、そこは少なくとも平穏に満ちているだろうから。
いつ、隣の仲間が敵になるかもしれない、そんな不安に怯えながら、生きる地獄に比べたら。




