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アヴェスタ  作者: あると
8/13

少年と少女

放課後、アナーヒは中等部の敷地に向かった。手にした紙袋の中には、汚れを落とした龍之介の学生服が入っていた。


校舎の前に着いて、彼の教室がわからないことに気づいた。

ちょうど、ジャージ姿の生徒が玄関から出てきた。アナーヒは彼に声をかけた。


「二年B組はどこ?」


幼い顔つきの少年が硬直した。シャイというより、異国人の口から日本語が飛び出した意外性に、うまく反応できなかったようだ。


「三階の、階段を上って、右です、すぐの」

「ありがとう」


少年はぽかんと口を開けて、お辞儀をした彼女を見送った。


「わっ」

「すげえ」


中等部の校舎に入ったところで、何人かの生徒がアナーヒに指を向けた。


「パツキンだ。不良じゃね?」

「ちげえよ、外人だ」

「高等部の人みたい」


下校時間は過ぎていたが、校舎にはまだ生徒が残っていた。誰もがアナーヒを物珍しそうに眺めた。


アナーヒはそんな反応に慣れていた。初めて高等部に来た際にも、同じようなことを経験している。無遠慮さは、過去の比ではなかったが。


三階に着いて、目的の教室を見つけた。


「あんた、うちのクラスになんのようだ?」


横合いから、学生服の前をはだけた少年が詰め寄ってきた。派手なシャツと、てかてかとムースで固めた髪が、まともな生徒ではないことを物語っていた。


「倉内くんに、届け物」


アナーヒは紙袋を示した。突然、部外者が教室に入るより、クラスメイトらしいこの少年に、龍之介を呼んできてもらうほうが適切と考えた。


「呼んでもらえる?」


少年はアナーヒの顔をしげしげと観察した。さらに視線が動いて、高等部の制服の上下をなめ回す。

アナーヒは黙って返事を待った。


「そんなことよりさ、先輩。俺の頼み、聞いてくれないかな」


少年の手がアナーヒの肩をつかんだ。

背中が壁にぶつかった。肺の中の空気が押し出された。咳き込んでから目を開くと、嫌な視線と行き当たった。昨日のちんぴらと同じものだった。


「放して」


身体が逃げようと動いた。少年が行く手を塞いだ。

年下とはいえ、体格差がある。振りほどくこともできず、少年の腕と腕の間に囚われてしまった。


「頼みを聞いてくれたら、放すぜ」


不良の少年が顔を近づけた。


「頼みって」


少年の息がアナーヒの顔にかかった。


「やらせろ」


悲鳴が上がった。

少年の腕を龍之介がつかんでいた。皮膚が破れ、血が滴り落ちた。

龍之介の爪は刃物のように鋭かった。人間のものではない。獣の牙と似ていた。

少年はうずくまって、泣き叫び始めた。


「大丈夫?」


昨日も聞いた科白だった。龍之介の声を聞いて、アナーヒはほっとした。ありがとう、と言おうとして言葉が出なくなった。


龍之介は、恐ろしい形相をしていた。目から強い光を放っている。

彼はアナーヒを見ていない。彼が見ているのは、捕獲した獲物だった。

笑っていた。少年の腹を蹴り上げて、白い前歯を見せて、笑っていた。


少年は身体を折り曲げて呻いた。その間も、龍之介は手を放さない。爪が埋められた場所からは、血が流れ続けた。


「死ね」

「やめて」


首筋に足を振り下ろそうとしている。

そんなことをしたら、人間の命などたやすく削り取られる。少年同士の喧嘩から逸脱していた。


「こいつは、あなたを侮辱したんだ」


龍之介は怒りに燃えていた。人間の命をなんとも思っていないことが見て取れた。

教室から出てきた生徒たちが彼らを囲む。龍之介が握った少年の腕から、血が出ているのを見て、騒然となった。

それさえも、龍之介は無関心だった。

自分の立場がわかっていない。


「気にしてないから。そんなこと」

「そんなことって!」


声を荒げた龍之介に、アナーヒはそっと囁いた。

口汚い言葉をぶつけられたことは、何度目か知れない。目立つ姿をしている自分のせいなのだろうと思う。それは、どうしようもないことだった。


「気に、しないわ」


アナーヒはぎこちなく笑った。夢の中で見た女性の笑みにはほど遠いと、自分でもわかっていた。だから、誰かを安心させることはできない。


龍之介は手を下ろした。

行き場のなくなった足を床に叩きつけた。地震のような揺れが廊下を走った。少年の頭の脇の床が陥没していた。

倒れた少年は呻きひとつあげない。すでに気絶していた。


「向こうへ行きましょう」


アナーヒは怒り覚めやらぬ龍之介の手を取った。

暴力は止めてくれた。だが、心を穏やかにさせることはできなかった。それが彼女には残念でならなかった。


龍之介の頭の中が真っ白になった。

アナーヒの手が自分の手に触れている。そのことが彼の心を震わせた。何故、そう感じたのかわからない。


アナーヒは龍之介の怒りがなくなっていることに気づいた。穏やかというわけではないようだったが、急な心情の変化に理由が見いだせなかった。


龍之介は、アナーヒの手を握り返した。


「屋上へ」


彼女は頷き、紙袋を取るために手を放した。

龍之介の顔が暗く沈んだ。


「これ、ありがとう」


屋上のコンクリートの上で、アナーヒは紙袋を差し出した。


「このために、わざわざ来てくれたんだね」


龍之介は冷静さを取り戻していた。

再会のきっかけとして、上着を貸した。その内ポケットに学生証もつけておいた。あらかじめ打っておいた布石が、見事に功を奏したことに、龍之介は驚いた。善なる神は律儀なのだろうか、とも思う。


「急がなくても良かったみたいね」


龍之介は替えの制服を着ていた。


「血の痕が消えているね。水の女神だからかな」


アナーヒターは水を司る神だった。服の汚れなど、簡単に洗い落とせる方法があるのだろう。


「漂白剤を薄めて、つけ込んで染み抜きしたの」


生活の知恵のような説明に、龍之介は唖然とした。時間がかかる方法だ。だからなのか、アナーヒの目が少し赤かった。


「そんなことしなくても、あなたなら簡単なマンスラで」


マンスラとは、真言とも呼ばれ、力を持った呪文だった。人払いの術も、このマンスラによるものである。


アナーヒは首を傾げた。

思いも寄らなかったということだろう。


龍之介の心は掻き乱された。

年上ではあっても、外見の年齢はさほど変わらない。その彼女の仕草がかわいくてしかたがなかった。


「アナーヒター様」


自分が思っていた以上に、龍之介は彼女に気持ちが傾いてしまっていることに気づいた。

こんなはずではなかったと後悔しても遅かった。


「アナーヒター様、僕は」


龍之介はアナーヒの肩をつかんだ。逃げられないように、きつく。

ちんぴらや不良の少年と同じ行為だった。


「痛い」


アナーヒは苦痛を訴えたが、逃げようとしなかった。

龍之介の胸は、狂おしいほど焼かれた。


「僕は、あなたを」


引き込め、と指示されていた。

虜囚とすることも、殺すことも難しい善なる神である。だから、悪神の彼と接点を持たせ、悪に対する許容を選ばせようとした。だが、引き寄せられたのは龍之介のほうだった。


「僕とあなたは、敵同士」


自分の気持ちを整理するように、龍之介はゆっくりと言葉を噛み砕いた。


「善なるアフラと、悪なるダエーワ。あなたと、僕は、異なる」


アナーヒの身体が強張った。彼女もしばし忘れていたようだ。

龍之介は嬉しくもあり、だからこそ悲しかった。


「敵なのね」


アナーヒは胸元に手を伸ばした。そこにはすべてを浄化するペンダントがあった。


「敵、です」


龍之介は苦悩の顔を伏せた。彼の学生服を突き破って、黒い翼が広がった。アジ・ダハーカの翼力が風を巻き起こした。


呪を唱える。

強いマンスラの力が人を払い始める。


「僕と来て」


龍之介は彼女の返事を待たず、虚空に飛び出した。風切り音がアナーヒの言葉を霧散させた。


二人は夕日に溶け込み、そして消えた。


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