少年と少女
放課後、アナーヒは中等部の敷地に向かった。手にした紙袋の中には、汚れを落とした龍之介の学生服が入っていた。
校舎の前に着いて、彼の教室がわからないことに気づいた。
ちょうど、ジャージ姿の生徒が玄関から出てきた。アナーヒは彼に声をかけた。
「二年B組はどこ?」
幼い顔つきの少年が硬直した。シャイというより、異国人の口から日本語が飛び出した意外性に、うまく反応できなかったようだ。
「三階の、階段を上って、右です、すぐの」
「ありがとう」
少年はぽかんと口を開けて、お辞儀をした彼女を見送った。
「わっ」
「すげえ」
中等部の校舎に入ったところで、何人かの生徒がアナーヒに指を向けた。
「パツキンだ。不良じゃね?」
「ちげえよ、外人だ」
「高等部の人みたい」
下校時間は過ぎていたが、校舎にはまだ生徒が残っていた。誰もがアナーヒを物珍しそうに眺めた。
アナーヒはそんな反応に慣れていた。初めて高等部に来た際にも、同じようなことを経験している。無遠慮さは、過去の比ではなかったが。
三階に着いて、目的の教室を見つけた。
「あんた、うちのクラスになんのようだ?」
横合いから、学生服の前をはだけた少年が詰め寄ってきた。派手なシャツと、てかてかとムースで固めた髪が、まともな生徒ではないことを物語っていた。
「倉内くんに、届け物」
アナーヒは紙袋を示した。突然、部外者が教室に入るより、クラスメイトらしいこの少年に、龍之介を呼んできてもらうほうが適切と考えた。
「呼んでもらえる?」
少年はアナーヒの顔をしげしげと観察した。さらに視線が動いて、高等部の制服の上下をなめ回す。
アナーヒは黙って返事を待った。
「そんなことよりさ、先輩。俺の頼み、聞いてくれないかな」
少年の手がアナーヒの肩をつかんだ。
背中が壁にぶつかった。肺の中の空気が押し出された。咳き込んでから目を開くと、嫌な視線と行き当たった。昨日のちんぴらと同じものだった。
「放して」
身体が逃げようと動いた。少年が行く手を塞いだ。
年下とはいえ、体格差がある。振りほどくこともできず、少年の腕と腕の間に囚われてしまった。
「頼みを聞いてくれたら、放すぜ」
不良の少年が顔を近づけた。
「頼みって」
少年の息がアナーヒの顔にかかった。
「やらせろ」
悲鳴が上がった。
少年の腕を龍之介がつかんでいた。皮膚が破れ、血が滴り落ちた。
龍之介の爪は刃物のように鋭かった。人間のものではない。獣の牙と似ていた。
少年はうずくまって、泣き叫び始めた。
「大丈夫?」
昨日も聞いた科白だった。龍之介の声を聞いて、アナーヒはほっとした。ありがとう、と言おうとして言葉が出なくなった。
龍之介は、恐ろしい形相をしていた。目から強い光を放っている。
彼はアナーヒを見ていない。彼が見ているのは、捕獲した獲物だった。
笑っていた。少年の腹を蹴り上げて、白い前歯を見せて、笑っていた。
少年は身体を折り曲げて呻いた。その間も、龍之介は手を放さない。爪が埋められた場所からは、血が流れ続けた。
「死ね」
「やめて」
首筋に足を振り下ろそうとしている。
そんなことをしたら、人間の命などたやすく削り取られる。少年同士の喧嘩から逸脱していた。
「こいつは、あなたを侮辱したんだ」
龍之介は怒りに燃えていた。人間の命をなんとも思っていないことが見て取れた。
教室から出てきた生徒たちが彼らを囲む。龍之介が握った少年の腕から、血が出ているのを見て、騒然となった。
それさえも、龍之介は無関心だった。
自分の立場がわかっていない。
「気にしてないから。そんなこと」
「そんなことって!」
声を荒げた龍之介に、アナーヒはそっと囁いた。
口汚い言葉をぶつけられたことは、何度目か知れない。目立つ姿をしている自分のせいなのだろうと思う。それは、どうしようもないことだった。
「気に、しないわ」
アナーヒはぎこちなく笑った。夢の中で見た女性の笑みにはほど遠いと、自分でもわかっていた。だから、誰かを安心させることはできない。
龍之介は手を下ろした。
行き場のなくなった足を床に叩きつけた。地震のような揺れが廊下を走った。少年の頭の脇の床が陥没していた。
倒れた少年は呻きひとつあげない。すでに気絶していた。
「向こうへ行きましょう」
アナーヒは怒り覚めやらぬ龍之介の手を取った。
暴力は止めてくれた。だが、心を穏やかにさせることはできなかった。それが彼女には残念でならなかった。
龍之介の頭の中が真っ白になった。
アナーヒの手が自分の手に触れている。そのことが彼の心を震わせた。何故、そう感じたのかわからない。
アナーヒは龍之介の怒りがなくなっていることに気づいた。穏やかというわけではないようだったが、急な心情の変化に理由が見いだせなかった。
龍之介は、アナーヒの手を握り返した。
「屋上へ」
彼女は頷き、紙袋を取るために手を放した。
龍之介の顔が暗く沈んだ。
「これ、ありがとう」
屋上のコンクリートの上で、アナーヒは紙袋を差し出した。
「このために、わざわざ来てくれたんだね」
龍之介は冷静さを取り戻していた。
再会のきっかけとして、上着を貸した。その内ポケットに学生証もつけておいた。あらかじめ打っておいた布石が、見事に功を奏したことに、龍之介は驚いた。善なる神は律儀なのだろうか、とも思う。
「急がなくても良かったみたいね」
龍之介は替えの制服を着ていた。
「血の痕が消えているね。水の女神だからかな」
アナーヒターは水を司る神だった。服の汚れなど、簡単に洗い落とせる方法があるのだろう。
「漂白剤を薄めて、つけ込んで染み抜きしたの」
生活の知恵のような説明に、龍之介は唖然とした。時間がかかる方法だ。だからなのか、アナーヒの目が少し赤かった。
「そんなことしなくても、あなたなら簡単なマンスラで」
マンスラとは、真言とも呼ばれ、力を持った呪文だった。人払いの術も、このマンスラによるものである。
アナーヒは首を傾げた。
思いも寄らなかったということだろう。
龍之介の心は掻き乱された。
年上ではあっても、外見の年齢はさほど変わらない。その彼女の仕草がかわいくてしかたがなかった。
「アナーヒター様」
自分が思っていた以上に、龍之介は彼女に気持ちが傾いてしまっていることに気づいた。
こんなはずではなかったと後悔しても遅かった。
「アナーヒター様、僕は」
龍之介はアナーヒの肩をつかんだ。逃げられないように、きつく。
ちんぴらや不良の少年と同じ行為だった。
「痛い」
アナーヒは苦痛を訴えたが、逃げようとしなかった。
龍之介の胸は、狂おしいほど焼かれた。
「僕は、あなたを」
引き込め、と指示されていた。
虜囚とすることも、殺すことも難しい善なる神である。だから、悪神の彼と接点を持たせ、悪に対する許容を選ばせようとした。だが、引き寄せられたのは龍之介のほうだった。
「僕とあなたは、敵同士」
自分の気持ちを整理するように、龍之介はゆっくりと言葉を噛み砕いた。
「善なるアフラと、悪なるダエーワ。あなたと、僕は、異なる」
アナーヒの身体が強張った。彼女もしばし忘れていたようだ。
龍之介は嬉しくもあり、だからこそ悲しかった。
「敵なのね」
アナーヒは胸元に手を伸ばした。そこにはすべてを浄化するペンダントがあった。
「敵、です」
龍之介は苦悩の顔を伏せた。彼の学生服を突き破って、黒い翼が広がった。アジ・ダハーカの翼力が風を巻き起こした。
呪を唱える。
強いマンスラの力が人を払い始める。
「僕と来て」
龍之介は彼女の返事を待たず、虚空に飛び出した。風切り音がアナーヒの言葉を霧散させた。
二人は夕日に溶け込み、そして消えた。