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アヴェスタ  作者: あると
7/13

夢の記憶

アナーヒは夢を見ていた。


母のような、姉のような女性が彼女を抱きしめていた。肌の温もりと、懐かしい土の香りが、心を安らかにする。微笑みを浮かべた顔が優しかった。


ずっとこのままでいたい。


腕の中に包まれて、安らぎを感じていたい。その気持ちとは裏腹に、いつまでもそうしていてはいけないとも思った。

それが、自立心の疼きだとは知っていた。だが、もう少しだけ、抱きしめられていたかった。


女性が耳元で、行きなさい、と囁いた。

アナーヒが顔を上げると、彼女との間に隙間ができた。離れたくない気持ちが、手を伸ばさせた。

女性は首を振った。彼女も離れたくないのだとわかり、アナーヒも手を下ろさざるを得なかった。


その直後に、激しい音が耳をつんざいた。

アナーヒの身体は大きく揺さぶられ、立っていることさえできなくなった。バランスを崩して、転んでしまった。天地さえわからなかった。


それから長い間、揺れていた。


気づいた時、アナーヒは暗闇に倒れていた。

地面に触れた頬が冷たい。今まで感じたことのない寒さは、彼女の身体を芯まで冷やした。


あたりを見回しても、誰もいなかった。


立ち上がろうとして、地面についた手が、肘のところで震えた。

アナーヒは、自分が脅えていることに戸惑った。


母であり、姉である女性の姿を求めた。

暗闇の静けさが壁となって、彼女の要求を遮っていた。

温かさの名残は微塵も感じず、冷たいそよ風だけが吹きつけてきた。


アナーヒは、女性の名を呼ぼうとした。しかし、喉の出口で押しとどめた。

返事がなかったらどうしよう。

そう考えると、言葉が出てこなくなった。名を呼ばなければ、彼女がいないと、知ることもない。


アナーヒは目を閉じた。

周囲に満ちあふれる夜が怖かった。目を閉じれば、闇を見ることはない。目蓋の裏は自分だけの世界だった。


身体の下で、地面がまだ揺れていた。


「地震?」

「震度3!」


アナーヒははっとして、目を開いた。

クラスメイトの女生徒の呟きに、茶髪の男子が答えている。


夢と現実が混じり合っていた。


「はいはい、地震だ。でも、今は授業中だろうが」


黒板の前で教科書を手にした教師が、どうでもいいような口調で言った。やや強い地震が起きるたびに、授業が中断されていた。それが不機嫌の原因だった。


「アナ、寝てた?」


後ろの席の美鈴がくすくす笑っていた。


「うん、夢を見ていた」

「夢?」


一ヶ月ほど前のあの日。

誰の記憶にも刻み込まれた三月十一日の出来事を、アナーヒは頭の中で反芻していた。


午前の授業が終わった。

昼休みの教室で、アナーヒの頭の上に手が置かれた。


「綺麗よね、アナの髪」


アナーヒは美鈴の溜め息を見つめた。

うっとりとした表情が、どこか芝居がかっているのは、彼女が演劇部に所属しているからだ。日頃から大袈裟な表現をしてしまうクセを、本人は隠そうともしていなかった。


「美鈴のほうが綺麗」


アナーヒは友人の黒髪を見つめた。真っ直ぐに伸びた髪は、艶やかに光り、丁寧に切りそろえられていた。枝毛ひとつ見つけられない。


「ありがと!」


抱きついてきた美鈴を受け止めて、アナーヒは少しよろけた。

美鈴は身長が高く、スタイルもよい。アナーヒの背が小さく、細いせいで、二人は年の離れた姉妹のようだった。


アナーヒは、美鈴の肩に顔を埋めた。若々しい匂いが、夢の中の女性とは異なっていたが、温もりは一緒だった。

彼女の腰に両手を回して、そっと抱きしめた。


「ちょ、ちょっと、アナ」


美鈴が頬を染めていた。アナーヒは軽く肩を押されて離れた。


「どうしたの」

「どうしたの、じゃなくて」


正面から見つめるアナーヒの視線が、美鈴には気恥ずかしかった。


「男子がいやらしい顔で見てるから」


彼女たちの周りに、赤面したり、不自然に靴の紐を直し始める男子生徒がいた。中には携帯電話を向ける輩もいる。

アナーヒが美鈴の視線を追ってそちらを見ると、シャッター音がした。


「何撮ってんの!」


男子生徒が一目散に逃げ出した。待ちなさい、と叫んだ美鈴の言葉は、女優の科白だった。


アナーヒは彼女が駆けだしていく様子を見守り、ゆっくりと目蓋を閉じた。

地震の余韻は、もうなかった。


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