夢の記憶
アナーヒは夢を見ていた。
母のような、姉のような女性が彼女を抱きしめていた。肌の温もりと、懐かしい土の香りが、心を安らかにする。微笑みを浮かべた顔が優しかった。
ずっとこのままでいたい。
腕の中に包まれて、安らぎを感じていたい。その気持ちとは裏腹に、いつまでもそうしていてはいけないとも思った。
それが、自立心の疼きだとは知っていた。だが、もう少しだけ、抱きしめられていたかった。
女性が耳元で、行きなさい、と囁いた。
アナーヒが顔を上げると、彼女との間に隙間ができた。離れたくない気持ちが、手を伸ばさせた。
女性は首を振った。彼女も離れたくないのだとわかり、アナーヒも手を下ろさざるを得なかった。
その直後に、激しい音が耳をつんざいた。
アナーヒの身体は大きく揺さぶられ、立っていることさえできなくなった。バランスを崩して、転んでしまった。天地さえわからなかった。
それから長い間、揺れていた。
気づいた時、アナーヒは暗闇に倒れていた。
地面に触れた頬が冷たい。今まで感じたことのない寒さは、彼女の身体を芯まで冷やした。
あたりを見回しても、誰もいなかった。
立ち上がろうとして、地面についた手が、肘のところで震えた。
アナーヒは、自分が脅えていることに戸惑った。
母であり、姉である女性の姿を求めた。
暗闇の静けさが壁となって、彼女の要求を遮っていた。
温かさの名残は微塵も感じず、冷たいそよ風だけが吹きつけてきた。
アナーヒは、女性の名を呼ぼうとした。しかし、喉の出口で押しとどめた。
返事がなかったらどうしよう。
そう考えると、言葉が出てこなくなった。名を呼ばなければ、彼女がいないと、知ることもない。
アナーヒは目を閉じた。
周囲に満ちあふれる夜が怖かった。目を閉じれば、闇を見ることはない。目蓋の裏は自分だけの世界だった。
身体の下で、地面がまだ揺れていた。
「地震?」
「震度3!」
アナーヒははっとして、目を開いた。
クラスメイトの女生徒の呟きに、茶髪の男子が答えている。
夢と現実が混じり合っていた。
「はいはい、地震だ。でも、今は授業中だろうが」
黒板の前で教科書を手にした教師が、どうでもいいような口調で言った。やや強い地震が起きるたびに、授業が中断されていた。それが不機嫌の原因だった。
「アナ、寝てた?」
後ろの席の美鈴がくすくす笑っていた。
「うん、夢を見ていた」
「夢?」
一ヶ月ほど前のあの日。
誰の記憶にも刻み込まれた三月十一日の出来事を、アナーヒは頭の中で反芻していた。
午前の授業が終わった。
昼休みの教室で、アナーヒの頭の上に手が置かれた。
「綺麗よね、アナの髪」
アナーヒは美鈴の溜め息を見つめた。
うっとりとした表情が、どこか芝居がかっているのは、彼女が演劇部に所属しているからだ。日頃から大袈裟な表現をしてしまうクセを、本人は隠そうともしていなかった。
「美鈴のほうが綺麗」
アナーヒは友人の黒髪を見つめた。真っ直ぐに伸びた髪は、艶やかに光り、丁寧に切りそろえられていた。枝毛ひとつ見つけられない。
「ありがと!」
抱きついてきた美鈴を受け止めて、アナーヒは少しよろけた。
美鈴は身長が高く、スタイルもよい。アナーヒの背が小さく、細いせいで、二人は年の離れた姉妹のようだった。
アナーヒは、美鈴の肩に顔を埋めた。若々しい匂いが、夢の中の女性とは異なっていたが、温もりは一緒だった。
彼女の腰に両手を回して、そっと抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、アナ」
美鈴が頬を染めていた。アナーヒは軽く肩を押されて離れた。
「どうしたの」
「どうしたの、じゃなくて」
正面から見つめるアナーヒの視線が、美鈴には気恥ずかしかった。
「男子がいやらしい顔で見てるから」
彼女たちの周りに、赤面したり、不自然に靴の紐を直し始める男子生徒がいた。中には携帯電話を向ける輩もいる。
アナーヒが美鈴の視線を追ってそちらを見ると、シャッター音がした。
「何撮ってんの!」
男子生徒が一目散に逃げ出した。待ちなさい、と叫んだ美鈴の言葉は、女優の科白だった。
アナーヒは彼女が駆けだしていく様子を見守り、ゆっくりと目蓋を閉じた。
地震の余韻は、もうなかった。