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アヴェスタ  作者: あると
6/13

布石

老人は見ていた。


脅えた娘が繁華街のネオンの中を歩いている。男物の学生服を肩口で押さえ、疲れた表情を浮かべていた。

服には血が付いていた。多少どころではない。命に関わるほどの量だった。湿り気が重さを持つほどである。


夜半を過ぎていた。人の気配が少なくなり始めている。終電の時間を気にする頃合いだった。

酔っぱらった中年や大学生の二人組、パトロールする警察官が、彼女のそばを通り過ぎて行った。誰も彼女に目を向けなかった。


人を払っている。


老人にはそれがわかった。彼自身、注意して観察していないと、あらぬ方向を向いてしまいそうだった。

ただの人間には、彼女を認識することさえできないだろう。


妖術師ヤートは、交差点の角で袖口に手を入れた。夜の寒さは、和服の隙間から忍び寄ってきていた。まだらに白い頭髪が、地肌を守りきれていない。


彼の仕事は、娘が駅に辿り着いたことを確認して終わる。

女神アナーヒターの化身という娘は、異国人の容姿ということを覗けば、普通の人間と変わりなかった。


ヤートの背後から、OLが急ぎ足で近づいてきた。信号は明滅していた。

歩道に立ち止まっている老人に、女はぶつかりそうになった。その直前で向きが変わった。彼女の視界に老人の姿はない。見えなくても、身体は避けていた。


ヤートも人払いの術を使っていた。妖術師である彼にしてみれば、初歩の技術に過ぎなかった。


娘が駅の改札を抜けるまで見守り、ヤートは背後を顧みた。


「心配のしすぎだな」


破れたシャツ一枚という姿の少年がいた。ヤートからすると、孫くらいの年齢だ。

アジ・ダハーカは首を振った。


「送っていけるはずだったんだ」


アナーヒが素直に申し出を受けていれば、こんな心配をする必要もなかった。断られるとは考えていなかったのだ。

一度、引き下がるしかなかった。まとわりつくことは、自尊心が許さない。せめて、気づかれないように見守るくらいだ。


「作戦は失敗だな」


ヤートは鼻を鳴らして袖口から布を取りだした。和服の出で立ちは、街の中で浮ついていた。


「攫って、助け出して、感謝してくれる。なんてシナリオは安直すぎたんだね」


アナーヒを連れ去ったのは、老人だった。アジ・ダハーカである龍之介が計画し、ヤートが実行した。ちんぴらの男たちを手配したのも、彼の仕事だ。


「女神はかたくなであらせられる。あちら側の者ならばともかく、こちら側の者には気を緩めないということだ」


鼻をかんだヤートが手を振ると、汚れた布は消え失せた。

そう思っていたなら、助言をしてくれてもよかったのではいかと、龍之介は考えたが、口には出さなかった。


「時に、彼らの味はどうだったかね」

「さっぱりしすぎていたよ。えぐみはそれほどなかったけれど」


アジ・ダハーカは人間の脳を好んだ。悪神ゆえの食事だ。かつては毎日のように口にしていたが、現在はそこまで悪食ではなかった。


「帰るよ」


龍之介はズボンに手を突っ込み、踵を返した。

ホームに停車した電車が動き出していた。最終電車に、アナーヒが乗り込むのを確認した。今日はそれでよかった。


「乗っていくか?」


ヤートは迎えの車を呼んだ。数分もしないうちに、運転手が乗り付けてくる手筈である。


「たまには、歩いて帰る。今日はもう飛べそうにないけど」


アナーヒの光が、彼から力を奪い去った。しばらくは翼が出せないだろう。不便ではあるが、彼女がそうしたと思えば、受け入れられた。


「そうかい。また手が必要になったら言ってくれ」


龍之介は生返事をした。彼を避けるようにして、人の波が割れていた。こちらも人を払っていた。


眠気を誘う車輪の振動を感じながら、アナーヒは電車のドアに寄りかかった。車内は混み合っている。


アナーヒは学生服の血を気にした。

早く水で洗い流さないと、落ちなくなってしまう。公園の水道ででも、ざっと流しておけば良かったと後悔した。電車に乗るまで気づかなかったのは、自分の落ち度だった。


服の汚れを落としたとして、どうやって持ち主に返せばいいのか悩んだ。彼がどこに住んでいるのか、わからないのだ。


何か手がかりはないかと、アナーヒは内ポケットを探った。指先に何かが当たった。取り出すと、生徒手帳だった。


「これ」


手帳に記載された学校の名前は知っていた。アナーヒが通う学園の中等部のものだった。アナーヒは高等部に在籍している。

それがわかっただけでほっとした。返す目処がつけられた。

借りたものを返すのは、当たり前のことだった。たとえ、敵対する間柄であっても。


電車を降りて、コンビニを通り過ぎた。

何時間か前、ウルスの車から降りたときの記憶を思い出し、長い一日だったと実感した。


欠伸が出た。

口を押さえたアナーヒを見て、猫が驚いて逃げていった。

気が緩んだのか、術が解けていたようだ。


「君、大丈夫かい?」


会社帰りの男性がアナーヒに近づいてきた。街灯に照らされた彼女の姿を見て、彼は立ちすくんだ。

金色の髪をした女が、血塗れの学生服を羽織っている姿は、異様であった。


「大丈夫」


アナーヒはあわてて術を唱え、走り去った。

男性は目元を押さえて、しばらくの間、幻の行方を探した。


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