火の脈動
一人になりたい時、加藤茂樹は屋上に行く。そこで、人払いを念じると誰も来なくなる。先客がいれば、所用を思い出して退散する。
初めに、アナーヒから教わった術だった。
アナーヒター。
彼女は何者なのだろう。
雲のように白い肌をした女だ。冬空のように青い目を持ち、黄金色の髪をまとっていた。欧米人のようであるが、それにしては小柄で細かった。
茂樹は缶コーヒーを開け、口に含んだ。清冽な苦みが舌に落ちる。苦々しい思いが湧いてきた。
自分は何であるのか。
それを彼女に突きつけられた。
初めてアナーヒに出会った時を思い出す。
「起きて」
彼女は囁いて、手を握ってきた。そこに現れたのは、黄金色の剣だった。
まやかしか、幻か、夢か。どれもが違っていた。
現実だった。
大の男が悲鳴を上げても、誰も近づいてこなかった。助けを求めても、聞く者はなかった。周りを見回して気づいた。人の気配が消えていた。
人払いをしていたと、後にアナーヒから聞かされた。
手から刃物を出せる人間なんて、手品師くらいだ。銃刀法違反で捕まるわけにはいかなかった。そう言うと、アナーヒは手を握った。それで剣は消えた。
「人間」
混乱した頭では、何も理解できなかった。
当たり前だと答えるのが精一杯だった。
「神」
再び手を握られ、剣が出現した。
切っ先が地面を削ったのを覚えている。いつの間にか握りしめていた柄を通して、衝撃が伝わってきたからだ。
「思い出した?」
首を振ると、アナーヒは溜め息をついて背を向けた。
「思い出して」
その夜、茂樹は戦いの場に連れ出された。アエーシュマとの初めての戦いである。
何が何やらわからぬうちに、彼女は姿を眩ませ、茂樹は瀕死の重傷を負った。意識が戻ったときは、青い光の中だった。
光の中で見たアナーヒターは美しかった。人形か、彫刻のように見えた。人間には思えなかった。
彼女は神だった。
そして、彼も。
茂樹は缶コーヒーを飲み干した。宙に放り投げると、手を差し上げた。
黄金の剣が、落ちてくる缶を細かい破片に変えた。
「神か」
破片をひとつ残らず受け止め、握りしめる。小さなアルミの塊ができた。皮膚は傷ひとつつかなかった。
茂樹は頭を振りつつ、階段を下りた。
刑事部屋は狭い。
机と机の間は、人が椅子に座ると背もたれがぶつかり合う。深く座って、お互いの領分を侵さないようにするのがマナーだった。
「芝浦署管内で、変死体だそうだ」
茂樹はコーヒーを注ぎながら、同僚たちの会話に耳を立てた。
「失血死らしいが、首が噛み千切られたらしいぜ。四人とも」
「野犬か?」
「だろうな。でも、おかしいんだ。頭も割られていたらしい。それで、脳みそがなくなっていた」
犯人について、彼らは議論していた。
そこらにいる犬が頭蓋骨を砕くほどの力があるとは思えない。大型犬でないと無理だろう。では、どこへ行ったのか。目撃者は出ていなかった。
あるいは、猟奇的な殺人犯が犯行に及んだのか。男四人を相手にできるのか。抵抗した形跡は見つかっていない。
茂樹は彼らの話を聞きながら、応接セットに広げられていた新聞を見た。一面に、首都高の大橋ジャンクションでの事故が掲載されていた。死者は六名だった。
昨夜、アエーシュマの犠牲になった人間の数と相違ないことを確認した。
記事には、生存者のことは書かれていなかった。人間に戻ったアエーシュマは、無事に逃げおおせたのだろう。
芝浦での事件は、朝刊に間に合わなかったようだ。記事ネタとしては、変死体のほうが大きく取り上げられる。
「芝浦も大変だけど、青葉台もなかなかなあ」
ジャンクションでの事故は、青葉台警察署の管轄だった。
首都高の通行に影響するため、現場検証は短時間ですまさなければならない。夜の出来事だから、交通量は少ないにしても、事故車の撤去など、朝までかかったはずだ。
「うちは平和でよかったですね」
茂樹が顔を上げると、上司の刑事課長は穏やかな顔で頷いた。
彼らの所属する深大寺警察署は、東京都二十三区に隣接しており、多摩地区の他の警察署よりは規模が大きい。それでも、都心と比較すると、事件件数は多くなかった。
「平和が一番。暇が一番」
刑事課長はほうじ茶を啜った。
茂樹は笑って頷きつつ、心の中では別のことを考えていた。
どこかで事件が起きないものか。
彼の中の神が争いを望んでいた。
喧嘩でもいい。血が吹き出るほどの殴り合いをしたい。
柔道や剣道では駄目だ。勝負がついたら、途中でもやめなければならないからだ。
「留置人が暴れています!」
女性警察官の悲鳴に、茂樹は敏感に反応した。通路を塞いでいた同僚たちを飛び越え、机の上を駆け抜けた。
突風のように飛び出した茂樹に、課長は目を白黒させた。
「そっちだ」
汗まみれの巨体が突っ込んできた。口から涎を流している。
薬物中毒者だ。
茂樹は姿勢を低くして、肩口で男の突進を受け止めた。押し潰されも、弾き飛ばされもしない。しかし、体重差はいかんともしがたく、足の裏が床を滑る。
男の胴体を両の手のひらで挟み込んだ。背中に置いた手に重心を移し、猛牛をいなすようにして、壁との隙間に身体を滑り込ませた。
壁を蹴って背後に回り込む。片手で逆立ちすると、足が天井についた。
「おら!」
蹴り込む。
茂樹の体重が何倍もの力となり、巨体を床に叩きつけた。
男は腹を打ちつけ、潰れた声を出した。
肩を足と膝で押さえ込んだ。後頭部を鷲づかみにする。ばたつく足は、追いついた留置係の男が押さえつけた。
「すげえ」
同僚が呆けた顔で茂樹を見た。
捕縄を掛けられた男から離れた茂樹は、いくつもの驚愕の顔で迎えられた。
「なんなんだよ、お前」
「曲芸かよ。こんなの、見たことないぞ」
「柔道、じゃないよな」
茂樹の身体に、力が溢れていた。
単なる腕力ではない。筋肉がどのようにでも動いた。しなり、弾き、打つことができた。
五感も冴えている。視覚があらゆるところを捉え、触れたものの存在を伝えてくる。
どのように動けばよいのか、頭で考えることなく、正しい行動が取れる気がしていた。
少し前では考えられなかったことだ。アナーヒと出会ってから、確実に自分自身が変わっていた。
これが、神の力なのか。
腹の底から、心臓とは別の脈動を感じていた。
それは尽きることがなさそうだった。
戦いたい。
茂樹は、切にそう思った。