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アヴェスタ  作者: あると
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龍の嘆き

目が覚めたとき、アナーヒは暗闇の中にいた。

短い悲鳴を上げた。逃げ出そうとして、壁にぶつかった。頭をぶつけ、顎が膝に当たった。肩も壁に遮られていた。


閉じこめられている。


アナーヒは落ち着こうとして、胸に手をあてた。いつも身につけている小さなペンダントがあった。握りしめると、少し安心した。


両手で天井に触れてみた。頭のすぐ上だった。手のひらにざらついた感触があった。木の板のようだ。

手探りすると、指先にトゲが刺さった。


じっと目をこらすと、頭の上に細い隙間があった。からかすかな光が見える。電灯の明かりのようだった。


指から血が滲んでいた。ぷっくりと血の玉が膨らんでいる。拭き取りたかったが、持ち物は見つけられなかった。衣服はちゃんとある。ポケットの中には何もない。


指を庇って、慎重に天井の板を押した。ぴくりとも動かなかった。横の壁を力一杯蹴っても、乾いた音が返ってくるだけだ。何度も蹴り、何度も叩いたが、自分の無力を知っただけだった。


ペンダントを握った。

指の血が小さな青い宝石を汚した。


どうして、ここにいるのかわからなかった。

アエーシュマとの戦いを終えた後、ウルスに自宅近くのコンビニまで送ってもらったことまでは覚えている。それ以降は思い出せなかった。


「誰かいるの?」


アナーヒは顔を上げた。箱の外で囁き声がした。しゃべり方が舌っ足らずだ。若い男か、子供のようだった。


「助けて」


アナーヒは壁を叩いた。暗い箱の中にいるのは耐えられない。誰でもいいから、出して欲しかった。

床のきしむ音がした。人の気配が近づいてくる。


「そこだね。大丈夫?」


光が翳り、誰かが箱の隙間から覗いた。幼い顔立ちの少年だった。学生服を着ていた。


「ここから出せる?」

「ちょっと待って」


アナーヒはほっとした。人間がいたことで、箱から出られる希望が見えた。狭いところに入れられているのは、まだ我慢できたが、暗いところにいるのは苦手だった。


そもそも、どうして箱の中にいるのかわからない。自分で入るわけはない。誰かに閉じこめられたとしか思えなかった。


あの少年は誰だろう。閉じこめた人間ではないのはわかる。子供一人でやれることではない。


少年の顔に少しだけ見覚えがあった。記憶をたぐり寄せたが、思い出せなかった。ずっと前に会ったような気がする。

そこに不安があった。懐かしいというよりは、不安だ。触れては駄目だったような漠然とした感情が滲んでいた。


「釘抜きと金槌があったよ。どちらかに寄れる?」


アナーヒの心は靄に包まれていたが、早くここから出たいという思いが強かった。

彼女は身体を縮めて片側に寄った。


少年は天井の隙間に釘抜きの先端を突っ込んだ。ぎりぎりと押しつけて、隙間を広げた。ある程度行ったところで、金槌を振り下ろした。金属の音が鳴る。それは室内に反響した。


「音が大きかったね。急がないと」


少年は呟いて、何度か金槌を振るった。そのたびに、木の破片がアナーヒに降りかかった。


「あと少し」


指が入るくらいの隙間が開いた。少年は釘抜きの曲がりの部分を引っかけ、テコの要領で板を一枚剥がした。


アナーヒの青い瞳が、少年の濃い茶色の目を見た。顔立ちは日本人だった。クセのある前髪が目元に垂れていた。

やはり、記憶の片隅にある顔だった。


アナーヒは以前感じた感覚を思い出した。ウルスラグナに出会ったときと同じ心の動きだった。

だとしたら、彼は彼女と同じ種類の存在なのかも知れない。


「外人さんだったんだ」


少年は口を開いて驚いていた。


「鼠がいたぞ!」


太い男の声が少年の言葉をかき消した。


「ガキか」


少年が釘抜きを持ちあげた。その顔に、誰かの手が伸びた。少年は悲鳴を上げて吹き飛んだ。


「どこから入りやがった」


目つきの悪い茶髪の男が唾を吐いた。箱の中のアナーヒを見て、にやりと笑った。無精髭と似合わないピアスが異様だった。黄色い歯が嫌悪感を感じさせた。

アナーヒは目を逸らした。


「こいつを始末しろ」


何人かの人間の気配がした。少年のほうに駆けていき、呻く彼を追い立てているようだった。


「逃げて」


アナーヒは、少年の行く末に恐怖を抱いた。殺されてしまうかもしれない。そういうことを平気でやりそうな面相の男たちだった。


「お嬢ちゃん、大丈夫かい」


アナーヒは身を竦ませた。声が近かった。暗いところは嫌だったが、少し開いた板の隙間から顔を隠した。


「隠れるなよ」


手が差し込まれ、頭を撫でられた。アナーヒが振り払うと、男が腕を引っ込めた。


「かわいいじゃねえか」


猫なで声が気持ち悪かった。


「やっぱり、売っちまう前に味見だ」


男が素手で板を引き剥がした。馬鹿力だった。


木の破片の下で、アナーヒはペンダントを握っていた。心を落ち着け、強く念じた。

人間の凶暴性を沈め、清い心を取り戻させる。

アエーシュマやウルスに照射した光を呼び覚ませば、この男は無力になるはずだった。


男がアナーヒの細い身体をつかんだ。強引に箱から引きずり出され、アナーヒは床に転がされた。その衝撃でペンダントから手が離れた。


煙草と汗の臭いがアナーヒを襲った。衣服ごと、ペンダントがむしり取られた。汚れた息がアナーヒに降りかかる。


「やめなよ」


少年がすぐそばに立っていた。


「なんだ」


振り返った男の顔が恐怖に引きつった。

アナーヒは両手で胸元を隠しながら、目を上げた。


少年の前髪から血が滴り落ちていた。口の端に肉片が引っかかり、汚れた灰色の物体が唇に付着していた。少年はそれを舐め取った。


「化け物」

「そうだね」


男の首が千切れた。

少年が噛み切っていた。彼の歯は、刃のように鋭い牙だった。


「間に合って良かった」

「あなた、何者」


目の前の死にも動じず、アナーヒは疑問を口にした。脳裏によぎった名があった。それを確かめたかった。


「やっぱり、驚かないんだね。仲間だからかな」


少年は笑った。あどけない顔と牙の対比が異様だった。


「違う」


アナーヒは首を振って否定した。

どんな人間でもためらわずに殺せる存在が、彼女と同じであるはずはなかった。まったく逆ならば、容易く頷ける。


「せっかく助けたのに、ひどいじゃないか。放っておいたら、人間にやられちゃってたかもしれないんだよ。そんなの笑い話じゃないか」


アナーヒは口をつぐんだ。少年の言う杞憂が、実際そのとおりになる寸前だったのだ。


「助けてくれて、ありがとう」

「どういたしまして、アナーヒター様」


少年は恭しく膝をついた。


「私の名を」

「わかるよ。日本人だと思っていたから、意外だったけれど」


口を拭うと、少年の牙は消えた。人間の姿に戻っていた。

差し出された手を取ることに、アナーヒは躊躇した。服がはだけていたから、手を放すと隠せない。


「そうか、そうだよね。あなた方は、あまり人間を殺さないから」


そういうわけではないと言おうとしたが、アナーヒは言葉が出なかった。

人が死んだことに対して、心が動かなかったのは事実だった。悪人とくくられる人間が死んでも、悲しいと思わない。


少年は視線を落として、後ろを向いた。上着を取り、差し出した。


「着て。家まで送るから」

「ありがとう」


アナーヒは学生服を受け取り、羽織った。血の汚れは我慢した。


「さあ、行きましょう」


そう言うと、少年の背中が膨らんだ。シャツの下で肉が蠢き、一瞬のうちにどす黒い翼が開いていた。


「……アジ・ダハーカ」


アナーヒは、少年の名を口にした。

アジ・ダハーカは悪神に創られた龍だった。紛れもなく、アナーヒやウルスの敵対者である。見覚えがあり、不安に思った原因はこれだったのだ。


「人間名は、倉内龍之介。乗って」


龍之介に、気にした様子はなかった。アナーヒが背に乗りやすいように腰を屈めた。


「私は、あなたの敵」


アナーヒは落ちていたペンダントを拾って、胸元に当てた。

その様子に気づいて、龍之介は立ち上がった。


「そうだけど、そうじゃない」


アナーヒの青く澄んだ目が、龍之介の不気味な姿を映し出していた。


「覚えてないの?」


青い光に包まれ、龍之介は呟いた。彼の翼は消え失せていた。

アナーヒは首を振った。


「そのうち思い出すかな」


龍之介は肩を落とした。


「そうしたら、また一緒に」


歩き去る龍之介をアナーヒは見送った。

暗い夜道を一人で帰る不安を抱えながら、アナーヒも歩き出した。


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