清浄の光
内壁は崩されていた。大きな力で削り取られたようだった。転がっている瓦礫は、大きかった。
うなり声がした。血の臭いが濃い。
茂樹の背後で、アナーヒは鼻をつまんだ。血の臭いに混じって、甘く強い香りがしていた。酒の香りだ。
アナーヒの白い肌がほんのりと色を帯び始めていた。
「酒気帯び運転だな」
歪んだ車体が黄金の剣に照らし出された。軽トラックとワンボックスの間で、横になった軽自動車が無惨に潰れている。
ドアから血が滴り落ちた。運転手の呻きは聞こえない。生きていないことが、確かめるまでもなくわかった。
「窓」
アナーヒの指摘は、車のフロントガラスだった。白く変わったガラスに穴が開いていた。
事故の衝撃で砕けたのではなかった。円い割れ目の縁に、血糊が付着している。そこから覗くと、頭部のない死体がエアバッグの向こうにあった。ガラスの破片は車内に散乱していた。
車の外から、何かが運転手を潰したのだ。他の車も同じだった。明らかに人為的なものだった。
彼らは知っていた。
殺害した者は、人間ではないと。
「下がれ!」
茂樹は咆哮を聞いた。生臭い声だった。野獣の雄叫びが近づいて来る。
アナーヒを車の陰に追いやり、剣を構える。
剣の光が届く範囲に、動くものを見た途端、茂樹の身体に衝撃が走った。手首を支点として、剣を前のめりに構えていなければ、瞬時に吹き飛ばされていただろう。
腰を落として踏ん張る。だが、瓦礫に足下をすくわれ、下半身が滑った。バランスを崩して背中から落ちる。すぐさま立ち上がり、剣を構えなおした。
事故車の片目のライトが、毛むくじゃらの異形を照らし出していた。
長毛の牛といった様相の頭部と、人間の手足を持った生物だった。手には太い鉄の棒を持っていた。先端は赤く色づき、得体の知れない付着物が垂れていた。車の窓に開いた大きさとちょうど合う。
「アエーシュマ」
茂樹は血の含んだ唾を吐き出した。
凶暴な悪神だった。人の命を奪うことをなんとも思わない野獣である。暴力を司り、特に酒に酔った暴虐の力が手に負えない存在である。
「飲み過ぎぜ」
突き出された棒の周囲で空気がうねった。フロントガラスを貫いたのもこの棒だ。
茂樹は、アエーシュマの内懐に飛び込んでかわした。両手で握り締めた剣で斬り上げた。ぼろぼろだった衣服をさらに寸断し、悪神の肉を裂いた。
アエーシュマは苦悶の声を上げた。棒を放り出し、太い腕で茂樹を抱え込もうとした。分厚い手が空を切る。
巨体の背後にすり抜けた茂樹は、剣を叩きつけた。黄金の剣が血で汚れ、光が弱くなった。切っ先を払うと、輝きを取り戻した。
茂樹は幾度となく斬りつけた。
アエーシュマが振り回す腕の勢いは止まらない。
「倒れろ」
念じて斬っても、一向に凶暴な神の動きは衰えなかった。かえって茂樹の疲労が増していくばかりだった。
「無理ね」
戦況を見守っていたアナーヒの溜め息が、茂樹を苛立たせた。
そこに、隙が生まれた。
アエーシュマの拳が茂樹の身体を捉えた。肘の上から横腹を殴りつけられ、勢いよく、壁に叩きつけられる。
血反吐を吐いた茂樹の上に、ぱらぱらとタイルが剥がれ落ちてきた。
「おしまい」
アナーヒは目を閉じて、ペンダントを握り締めた。
彼女の目が開かれたとき、瞳が青よりも深い色を湛えていた。手を開くと、そこからまばゆい光が溢れた。
光は筋となり、アエーシュマを照らす。すると、茂樹が斬った傷が塞がっていった。それのみか、巨体が縮まり、牛の頭が中年の男のものへと変わった。いや、戻ったのだ。
アナーヒは、清浄を司る女神であった。変化したものを元に戻す力を持つ。
「弱い」
茂樹の傍らにかがみ込み、アエーシュマと同じように青い光で包み込んだ。
曲がった腕と、へこんだ脇腹が元に戻っていった。
「うるせえ」
黄金の剣は、音もなく消え失せていた。神の力が去ったのだ。
「ウルス。早く力を取り戻しなさい」
ウルスラグナは、戦いに負けるはずのない神格だった。本来の力を発揮できていないから、負ける。
戦いの中でしか、復活の糸口は見つけられない。
アナーヒはそう考え、彼を戦いに駆り立てていた。
アエーシュマとは、何度も戦っていた。その戦闘で、茂樹の技量は刃物を砥石で研ぐように鋭くなっていた。だが、まだ十分ではなかった。
彼の悪神は、人間の姿から変異するほどの神格を取り戻していた。だが、茂樹は神の力を満足に発揮できていない。
ウルスである茂樹に何が欠けているのか、アナーヒにはわからなかった。
「帰る」
今日は諦めた。今まで何度も諦めたが、明日になればまた希望が見えるだろう。
アナーヒは、茂樹が立ち上がるのを待った。先に立ってはいかない。先導が必要だった。戻る先は、暗闇に包まれていたからだ。
「わかったよ」
茂樹は車内に取り残された遺体から目を逸らした。恋人同士らしい男女や、壮年の男性の亡骸があった。どれも潰れ、悲惨な姿だった。
犠牲者は増えていくばかりだった。アエーシュマを殺せば、食い止めることができる。だが、神を殺せるのは、神だけだ。その力は、茂樹にはなかった。
アナーヒの手をつかんだ。か細く震えていた。
本当に、暗闇が怖いのだろう。子供のようだったが、誰にでも好き嫌いはある。茶化すことはあっても、無理をさせる気はなかった。
茂樹は盛大なくしゃみをした。
つられて、アナーヒも小さく鼻を鳴らした。
かすかに地面が揺れていた。
茂樹はいつの間にか慣れてしまった振動に、逆らうわけでもなく、足の向くままに身を任せた。