黄金の光
夜の首都高は静かだった。
加藤茂樹は、中古で買ったマツダのアテンザを都心方向に走らせていた。高架の両脇にそびえ立つビル群も、節電のためか、以前とは違った姿を見せていた。
震災から一ヶ月が過ぎる。
被災地から数百キロ離れた東京では、遠い世界の出来事のようだった。だが、ボランティアで現地入りしている者も確実にいた。
自分にできることをやる。
茂樹の同僚は、そう言って、生まれ育った岩手に帰った。
茂樹も同行することを考えたが、彼には、彼にしかできないことがあった。
「ここか」
中央環状線との接続部である大橋ジャンクションに近づいた。ビルの合間を抜ける高架の三号線から、地下を通る中央環状線へは、螺旋を下る道が続いていた。
茂樹はウィンカーを出して、減速した。
静かだった。
普段なら、三号線からの流出は多い。だが、誰もアテンザの後ろに続かなかった。何かを怖れるように近づかない。まるでジャンクションがないかのように、通り過ぎていった。
空が消える。
螺旋のトンネルに入った。円柱状の構造物は、高低差を消費するものだ。高架から地下への回廊だ。
アテンザのヘッドランプは闇を照らした。トンネルの照明は落ちていた。節電ではない。計画停電も取りやめになっている。真っ暗闇は、異変であった。
「暗い」
助手席で、小さな声がした。透き通るような色白の女だった。シートベルトが大袈裟に見えるほど、小柄で細い身体が収まっていた。淡いクリーム色のワンピースが、肌の色と相まって、彼女の存在自体を薄くさせていた。
「我慢しろ、アナーヒ」
アナーヒターというのが彼女の名だった。青い目と金色の長い髪の毛が、日本人ではないことを主張していた。
彼女は、胸元のペンダントをいじっていた。長いまつげが震え、小さな口から吐息が漏れた。
「いたわ」
「わかってる」
茂樹は螺旋の途中でアテンザを停車させた。後ろから来る車はない。そのように、世界をいじっていた。
茂樹はネクタイを外した。会社帰りのドライブだ。スーツの上着は後部座席にぶら下がっていた。
車を降りると、瓦礫の崩れる音が聞こえた。下方から粉塵が舞い上がって来た。それに混じって血の臭いも漂ってくる。
茂樹はマスクを持ってくれば良かったと、人間的な感想を持った。
「先に行って」
咳き込むわけでもなく、埃の中に佇んだアナーヒは、どこか超然としていた。木漏れ日の中で日傘でも差していれば、上品なお嬢様と思われても間違いではない。
「言われなくても、行くさ」
茂樹は口元を手で押さえ、咳き込んだ。くしゃみも出た。アスファルトの上に転がる細かい石と粉塵が足を滑らせる。ゆっくりと慎重に、足先を下に向けた。
「暗い」
追いすがる言葉が茂樹をつかんだ。
茂樹は笑ってアナーヒを見た。ヘッドランプのそばから離れようとしない彼女は、少しだけ脅えた表情をしていた。
「お嬢さんは、ここで待っててもいいぜ」
アナーヒはじっと茂樹を見返してきた。暗いところが苦手な彼女への意地悪だった。
「冗談だよ」
茂樹は手を挙げた。その瞬間、右手の中に片刃の剣が現れた。黄金色に輝く剣だった。闇を切り裂き、周囲を明るく照らし出した。
「このような時に冗談とは、ずいぶん余裕ね。ウルスラグナ」
トゲのついた言葉が茂樹を刺した。
「その名で呼ぶな、アナーヒター」
ウルスラグナは、茂樹の神格としての名だった。戦勝の神として崇められる英雄神である。あらゆる障害を打ち破る者との意がある。
アナーヒターは、清浄を意味し、川と水の女神の名だった。
茂樹は剣を掲げ、歩き出した。無言でついてくるアナーヒの足元が暗くならないように、歩幅を縮めた。